龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

刑務所が最後のセーフティーネットだとしたら?

2013年01月23日 23時27分38秒 | 大震災の中で

デジタル朝日新聞に
(インタビュー)刑務所から見えるもの 犯罪学者・浜井浩一さん

http://digital.asahi.com/articles/TKY201301210502.html

というの 記事がありました。
有料記事で会員のみ、かも知れませんが、大切な視点の指摘だと感じられたので、メモ代わりに書き留めておきます。

殺人の数を見ても戦後は一貫して減りつづけている。
治安は悪くなっていない。
刑務所の実態は、高齢者と身体的・精神的なハンディキャップを背負った人が最後に追い詰められてたどり着く場所だったということが、きちんとかかれています。
むしろ問題は今まである意味相互監視的な空気を支えてもいた擬似制度的な企業、学校などの共同性が崩壊して、相互信頼が崩壊しつつあることだ、という文脈もなっとく。

引用開始

 「最大の問題は社会のセーフティーネットが壊れていることです。仕事も身寄りもなく、福祉にもつながりを持たずに社会で孤立している高齢者や障害者は、ホームレスになるか万引きや無銭飲食を重ねてでも生きていくしかない。受刑者は減っていますが、刑務所内で死亡する高齢者は増加しています。病院や施設は受け入れを拒否できますが、刑務所はできません。だから社会のいろんなところで拒否された人たちの最後の『居場所』になってしまっています」

引用終了

というコメントが切なく響きます。
高齢者やハンディキャップを持った人に対する包摂性を失った社会は、構成員全員に冷たい社会なのだと言うことを、改めて真剣に考える必要があるでしょう。

福祉をコストの問題にしか還元できないような脳みその基本フォーマットを書き換えていくことが急務では?



國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』1~4を読もう!

2013年01月23日 22時53分55秒 | 大震災の中で

國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』1~4(岩波書店「思想」に不定期で連載中)

が凄いよっていうことを、
メディア日記「龍の尾亭」

http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980413

に書きました。
ヒュームの経験論と、デカルトの合理論を踏まえて超越論的な哲学を打ち立てたカントを、最大の向き合うべき対象(敵?)としていたドゥルーズが指し示す超越論的経験論への道筋。
発生論、内在平面についても恐ろしいほど明晰に語られていきます。

引用と注の切れ味が違う。
これは読み書きしたことのある人なら納得してもらえると思なあ。
そして、論理の息継ぎの後に、グイグイその先へのドライブが更にかかって行く快感。

ライプニッツ、ベルグソン、ハイデッガーにも言及しつつ、さながら17世紀以降の哲学史を通見するような趣きさえあります。

前著『暇と退屈の倫理学』の結論部分に言及されていた『本来性なき疎外』というのはこのドゥルーズと響き合ってるのか、とかいう思い当たる節も満載です。

國分さんはなぜこんなにクリアに書けるのかしらん。

現代人必読の論文、といいたいところですが、まあ私は弟子、というかファンなので3割引ぐらいで受け取ってもらえばけっこうです。

でも、面白いですよお。



裁断&スキャンした本のPDF化が1000冊を超えた(2)

2013年01月23日 10時30分26秒 | 大震災の中で

というわけで、本から魂を抜いてPC上に魂(PDF)だけを残す作業に疑問を覚えてきたのだが、一方、PDF化した「本」をiPadで読み始めてみたら、これがとても便利なのである。

なんといっても、書斎に閉じこもる必要がなくなる。

「書斎」

すいません、うそつきました。
本置き場兼寝床です(笑)。

しかし実際何かを考えようとすると、どうしても同時に何冊か本を持ち歩く必要が出てくる。

大きくかさばる本を何冊も持って歩くのはかなりの苦行だ。
加えて私は多動傾向があり、落ち着いて集力を持続しつつ一冊の本を読み通すことがかなり難しい。
研究とか関係なくても常時数冊の本は持って歩きたい。

iPadは、いったん裁断してしまえば、全てをこの700グラム足らずの筐体一つでもちあるき、いつでもどこでも閲覧が可能だ。

というわけで、最近は、今読む(あるいは読もうとしている)新刊書を購入したら片っ端からザクザク裁断し始めた。

正直最初はかなり抵抗がありました。
買ったばかりの美しい装丁の本を無惨にもバラバラにしてしまうわけですから。

同僚の国語教師にこの話をしたら、得体の知れないイキモノを見るような視線を返されてしまいました。

でも、たとえば『スピノザの政治学』などといった本はいくら待っていても電子書籍化など期待できません。

いったん全てをタブレットで携帯し、どでも快適に読める体験を味わってしまうと、これはもう戻れません。

本棚には、どうしても複数一度に参照しなければならない本や、それ自体に価値のある本を残すようにしています。
そして大切なテキストは裁断しても残しておくか、二冊買い。

ま、そういうものです(笑)

もちろんiPadもその重さに問題はあって、文庫本を読むように片手で持って長時間、というわけにはいかない。7インチ画面のタブレットが必要になる所以です。

しばらくはiPad 3とiPhoneのセットで乗り切りつつ、薄型軽量タブレットの動向を見守る感じかな。



「エチカ福島」立ち上げについて

2013年01月15日 12時24分52秒 | 大震災の中で
思考集団プロジェクト「エチカ福島」を仲間3人で立ち上げました。



日々ブログで書いてきて思ったのは、ひとりで書いて考えるだけじゃ駄目なんだ、ということです。

行動する?
もちろんそれも大切ですが、一体何をすればいいのやら。

ただ、分からないんだけど何か考えずにはいられない。
だからブログを書いたり、友人に誘われて雑誌を作ったりはしてきた。
折に触れて友人とも酒を飲み、語り続けてもきた。

仕事(授業)においてももちろん一緒に考えている。小論文の指導でも、現代文の授業でも、問題演習の解説でも、この大震災と原発事故について考え続けてきた。

あの日以来考えてきたことの全てが、あの日に起こった出来事に繋がっていたような気もしている。

私たちの主体を飲み込み尽くして立ち現れる圧倒的な現実について考えることは、「私」という場所だけじゃ足りない。

そう考えるようになりました。

個人的なリアルだけでは決定的に足りない。
社会的なリアルの枠にも全く当てはまらない。
自然の驚異=脅威というだけでも足りない。

「私」の外部に広がる自然と人為。

それらの全てをなおも私たちが問おうとするとき、「環境」概念は重要さを増す。

だから「エチカ」なのです。

とかいって、ま、自分=自己だけではよくわからない、ってことなんですが。

「自分の外はみんな他者」、といっているだけではダメだって感触です。

それでは「文法」問題になってしまう。

この場所、この環境、この世界に立ち現れた「裂け目」を目の前にしては、もう一度共に考えることがどうしてもひつようなのではないか。

既存の共同体や、行政のリソースを全て捨てて山に穴を掘って暮らせばいいというわけにもいかないでしょう。

どこか外部から簡単に正しい答えを調達してくるわけにはいかない。

そう、だから「エチカ」なのです。
エチカは、まずはスピノザの主著の題名です。
ほとんど何が書いてあるか一読して理解するのが難しい本です。
でも、いわゆる哲学書が難解だ、というのとはちょっと違う感触がある。

國分センセはそれをOSが違う、と表現していた。
思考の前提が違う、ということか。
だがそれは、単に社会の仕組みがちがうとか、常識とかけ離れているとかいうことではない。

まあそりゃ17世紀といまじゃいろんな当たり前はちがっているでも、そういうことだけでもない。

その分かりにくさが、むしろ今、必要になっている。と感じるのです。
訳が分からないから浸っていられるということじゃない。

むしろ信じられないほど削ぎ落とされている。

とりつくしまがない、というその感じが逆に、自然と人為の「裂け目」を目の当たりにし、誰からも意味を与えてもらえないままその「裂け目」の近傍に立ち続けようとするとき、すぴの「エチカ」は、私たちの心を勇気づけてくれるのです。

削ぎ落とされているのにあっけないほど柔軟で、徹底しているのにある種の広さがある。

スピノザの「エチカ」はまだ読み始めたばかりで、多分長く読み続けていくのでしょう。

二つ目は、「公共性」です。
畏れは、実のところ倫理と接続しているのではないか、と私は漠然と感じています。完全なコントロールの元では、人は全体に思いを巡らすことはない。
人為を超えたシステムならぬシステム。
そこに「公共性」の根拠がある、というのは穿ちすぎだろうか。

これは現在の課題です。

えちかは日本語では「倫理」。

倫=ともがら

理=ことわり
です。
私たちがこういう中でもなお、共に生きていこうとするとき、「倫理」は徹底して参照すべきモノではないでしょうか。

そんなこんなで、イベントを立ち上げちゃいました。

始めるからには、行くところまで行って終えようと思います。

というわけで

「エチカ福島」第1回セミナーのおしらせです。

裁断&スキャンした本のPDF化が1000冊を超えた。

2013年01月13日 13時30分14秒 | インポート
といっても、本の冊数を数えるほど暇ではないし、きちんとした個人データベースをつくるほどの根気もない。

裁断した本の画像データを一冊の本としてまとめ直すソフトから、

「検索指定の準備書籍件数が1000件を超えました」

と警告されたのだ。

ちょっとした一区切りである。
当初と比較して考えが少し変わってきたので、それをメモしておきたい。


そもそもの始まりは、段ボール箱の塊と化した本をどうするか、だった。
本というモノは、いつまた読み返したくなるか分からない。
改めて読みたい本、味わいたい作品の一部、引用しなければならない論文の一部など、場所があればおいておきたいものである。

そして本好きなら(本ではなくても何か好きなモノを手に入れて手元に多数おいている人なら)共感してもらえるだろうけれど、生まれてからこの方読んだ本は、全部手元においておきたいものである。

目的と手段が転倒する、いわゆるフェチ、ですね(笑)

最初から住む場所にも不自由する手狭な生活なのに、本を全部とっておくなんていう欲望はもとより贅沢というか妄想に近い。

それでもまだ本は、収集癖を根源とするあの「ガラクタ」よばわりとは一線を画す。
書画骨董のような価値ではないが(古本の中には目玉の飛び出るような本がないでばありませんが、それは別席で)、本は何か知識や、光をもたらしてくれるものとして、なにがしかの尊敬を払われてきた。

かつてはね。

「こんなもの、置いておいたってどうせ死ぬまでには読めっこないでしょ」

などと言われるようになるまでは。

いわれてみればその通り。
すでにして死ぬまでには到底読めっこない分量だ。


そこであえて「本は読めばいいってモノじゃないんだ!」と強弁してみてもよいが、まあ止めておいた方が無難だ。

というわけで「なんとかしてよ」攻撃を「そのうちな」防御でかわす日々が続いていた。

そこに福音として登場したのが

書籍の裁断&スキャン取り込みによる電子化のシステムである。
だから、そもそも「断捨離」系の強いられた動機からはじまったわけです。

従って最初は当然古い本から裁断を始めました。
ダンボール箱が一つ一つ消えて、裁断されたゴミとして出されていくのはある種快感でもありました。

「こういう趣味なら歓迎だ」
と大家族からも好評。

ところが、500冊を超えたあたりから様相がかわってきました。
古い本を裁断していても、実際には読まない。
もちろん死ぬまでに読みきれないほどの量があるんだから、読んでもいいわけだし、当然中には読みたい本もある。
でも、最初は比較的どうでも良い本を中心に裁断する傾向があった。
全集本とか、未読の高価本、古書で入手したものはどうしても切るに忍びない。

「おまえだけは次世代に生き延びてくれ」

みたいなことになっていくわけですよ。

そしてまた気がつくと本末転倒の始まりである。

捨ててもいいものなら最初からなにも裁断するには及ばなかった。

とはいえ、裁断せずに捨てられるぐらいなら、苦労はしない。

むう。

これでは本の鎮魂儀式としての「自炊」(裁断して本をデータ化することをそういいます。あんまりいい響きじゃないね)ではないか!

といういうわけで、それをもう一度ひっくり返すことになります。
(続く)

『デザインド・リアリティ 半径300㍍の文化心理学』を読んでいたら

2013年01月07日 00時15分11秒 | インポート
『デザインド・リアリティ 半径300㍍の文化心理学』有元典文・岡部大介(北樹出版)

を読んでいたら、とつぜんユクスキュルの「環世界」概念と、スピノザの表象知(イマギナチオ)についての言及があって、ビックリした。

私たちは現実で(物自体)ではなく、デザインされた文化=環境を受け止め、その中で生きている、

という考え方から人間の心理を捉え直そうとする「文化心理学」の本です。
面白い。

ちょっと皮肉に聞こえてしまうかもしれないけれど、福島県は大震災と原発事故によって外部から「デザイン」された「現実」を生き始めています。

今までは精神が物質や肉体をコントロールするというデカルト的二元論の、この本でいう
「中枢コントロール」
の考え方が支配的でした。

けれど、今はスピノザ的な
「世界コントロール」
の考え方で、つまりは社会的文化的にデザインされた「環世界」において、私たちは欲望したり悲しんだり喜んだりしているのであり、私たちが世界を認識するということは、自分が自由かつ主体的に全てをコントロールしているという「夢」をみるのではなく、むしろどのような「可能性条件」の中で「主体」は必然を生きているのか、から考えていかねばならない……。

そういう視点で書かれたこの本は、非常に示唆的に感じられます。

スピノザの「エチカ」=哲学を参照しつつ、福島に住みながら「共に生きる理(ことわり)」を考えて行きたい、ということの意味の大きな側面の一つも、ここにあります。

なぜって、「世界」を知ることはいつだって、人間の知性にとってかけがえのない大きな喜び、であるはずですもの。



『放下』を読んでいて、よく分からないこと(2)

2013年01月04日 22時25分48秒 | 大震災の中で
『放下』の「土着性」について分からない、って話を、メディア日記に書きました。

メディア日記「龍の尾亭」

ハイデッガーの『放下』の「土着性」について
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980411

この失われた「土着性」から、来るべき「土着性」へって展開の後、「放下」っていうなんだかおならみたいな悟りみたいな話に展開していく。

「土着性」は「放下」(放下っていうのは、なんか「行為」らしい。)にたどり着くらしいんだけど、分からない。

ちなみに、広辞苑には
「放下」(ほうげ)
 ①投げ捨てる。突き放す。
  日葡辞書「ヒトヲハウゲスル」

 ②禅宗で、心身共に一切の執着を捨て去ること。また、その禅僧。
  徒然草「諸縁を放下すべき時なり」

とある。
いかにも禅ぽい。
やばい、ハイデッガー神秘来てる(笑)。
どうなのこれ?

道の手帖「ハイデッガー」では、高田さんという研究者が巻頭インタビューで

ハイデッガーの技術論とか、何かあるのかなあ、とか思って私も読んでみたけど、別にないな、ありゃ。みんな、現代を先取りした予言的なところがある、とか言うけど、違うね。少なくても哲学的な深いものに裏打ちされた話じゃないよ

的な感想を書いてました(苦笑)。
ハイデガーじいさんが、失われた「土着性」へのノスタルジーを小めんどくさく言っただけってことか?

んー、分からない。

そういうことをプロが言ってみたくなる「怪しげ」な面(っていうか、そういうレトリックに吸い寄せられる人が多いっていう意味も含めて)があるということでもあるのかもしれない。

したり顔にハイデッガーを深読みしてんじゃねえよ、ノストラダムスじゃあるまいし、みたいなね。
それはそれで何となく分かる(気もする)。

でも、この「突然やってくる分からなさ」は、素人なりに感じる範囲では、単なる田舎好きのおじいちゃんの繰り言、ではない。

深い哲学的洞察、というより、表層的衝動に近いモノかも知れないけれど、もう少し「分からなさ」に付き合ってみる価値はあるんじゃないかな。

そういえば、加藤尚武(環境倫理学)氏も、技術の哲学について書いた本で、

適当なレトリック使ってるんじゃないよハイデッガーおじいさん

的なことを書いてましたね。(書名後で確認します)
※『ハイデガーの技術論』でした。
加藤尚武氏は、むしろ逆のことをいってます!
ハイデガーの文章は散文というより散文に抵抗する詩的な表現だから、絶対原文参照をしなきゃいけない、という意味の話でした。原文参照もしないで、翻訳だけでハイデガーを分かったつもりになって論文を書くな、という趣旨です。
失礼しました!
その上で、ハイデガーの技術論は、今日の状況において見るべきものは必ずしも多くない、という言い方もしています。
こちらについてはまた別途。

プロがちょっと「いらっ」とするところがあるんだあ、と思って読んでいます。

※これも、どちらかというと、ハイデガーの仕事としては必ずしも中心的な課題ではない技術論を過度に持ち上げて(よく読みもしないで)その「現代性」や「預言者的能力?」を称揚して利用しちゃう論者への批判、というニュアンスもあるみたいですね。

この技術の話は『放下』を読み終えてから、別途考えます。

というわけで、もうちょっとぐだぐたしてみます。

國分功一郎「スピノザ入門」第9回のMEMOを

2013年01月04日 15時14分38秒 | 大震災の中で
國分功一郎「スピノザ入門」第9回のMEMOを

メディア日記「龍の尾亭」にアップしました。

http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980410

今回はいよいよ「平行論」が中心。
スピノザにさほど興味がない、という人にも、
「ふーん、そういう考えだったのかあ」
とけっこう納得できる話かと。

例によって、極めて個人的なメモですので、変なところがあったらすんません、悪しからず。
でも9回も講座を受けると一人の人の哲学をじっくり教えてもらえるから、こういう通年講座って貴重です。


『放下』を読んでいて、よく分からないこと。

2013年01月04日 00時04分16秒 | 大震災の中で
ちょっとだけメモ代わりに。

ハイデッガーは、技術が自然の中に隠されたものを見えるようにさせる力があり、人間はその技術的な振る舞いにむしろ「徴発」されて、その仕組みの前に立たされ坊主のように向き合わされ、場合によっては隷属状態になっちゃう、と言う。
で、だから「省察」が必要で、その技術の中に生きる(Yes)と同時にそれにこだわらない(No)を言わなくちゃならなくて、それが「放下」ってことで、と話が展開してく。

でも、ちょっと待ってほしい。
そこで「土着」って出てくるのはなんだかへんだ。

技術の圧倒的な「攻撃」で、土着からは離陸したっていっておいて、その技術は人間の営為とは別立てだっていっておいて、その上で人間の「省察」だけを別途「徴発」しているハイデッガーの手続きは、ちょっと手品っぽくはないか?

丁寧に切り分けながら問題を深めていくステップは凄いと思う。
もしかすると、途中でついていけなくなってるから私が逆ギレしてるだけなのかな、とも思わないでもない。

でも、人間の無力を前提として、なおも人間の「省察」による「土着」に対する思惟の称揚っていうのは、よく考え抜かれた、というよりは、ハイデッガーのやってみたい手品の種、に近いという印象を、今の私はどうしても感じてしまうのだ。

技術の圧倒的な「攻撃」の前で、また、腹蔵された自然のエネルギーを開示する技術によって、むしろ徴兵されるかのように「徴発」され、圧倒的なエネルギーを解放するために奉仕作業をさせられる人間、という分析は間違いなく鋭いと思う。
私の、私たちの実感と結びつく。
そして、遠い所に答えを見いだすのではなく、見つめるべきは自らの傍らにある、というハイデッガーの指摘も納得だ。

だが「土着」ってどうなんだろう。
その後の「放下」はどうなんだろう。

スピノザより「神秘的」な感じがしちゃうのは私だけだろうか。

二重の往復運動を、異質なものの上に交差しながら重ねていくような手捌きを、意味が分からないまま傍観しているしかない、みたいな感触が今の状態だ。

でも、ここをもう少し読み抜きたい。

どの道から谷を降りていくのかの違い、ということなのかもしれないが。



ハイデッガーの「土着性」「放下」「密旨に向かっての開け」

2013年01月03日 23時44分27秒 | 大震災の中で
さきほどは間違えてこちらに本文をアップしちゃいました。

基本、本を読んでの感想とか、講座内容のメモとかは

メディア日記「龍の尾亭」

に書きためています。
ブログ子自身の匙加減なんですが、こちらに書き流すより、書名とか講座名があって、それについて考えたことを記録しておいたほうが、後で参照するのに便利なんですよねえ。

というわけで、

ハイデッガー『放下』について(5)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980408

ハイデッガー『放下』について(6)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980409

に続きのメモを書きましたので、お暇でしたらそちらを参照くださいませ。

いよいよ後半、肝の部分に入って来ました。
人間はどうやっても主役にはなれない。
圧倒的な技術の「攻撃」の前に、革命的な激変が起こっている。
人間は、「計算する思惟」だけでは本当に無力になる。
今こそ「省察する思惟」が必要だ……

っていうような、技術が人間を疎外する状況に対し「熟思」「省察」を以て立ち向かえ的な図式は、まあまあ分かりやすい。
ここまではね。

ところが、その時に出てくるのが「土着性」という概念なのです。
これが分かりにくい。
でも、私は社会的=技術的営為を「人為」と捉えていたけれど、ハイデッガーは技術が人間を「徴発」する、という言い方をするんですよね。

私にはよく分からないけれど、この「土着性」という言葉には、まるでコンピュータ管理の世界が、エネルギー源として人間を培養するマトリックス的世界観に近いような印象すら受けます。
つまり、技術的な進行を前提とし、その外部を想定せずに「土着性」の基盤を、その技術的に徴発され、自然の中に隠されたエネルギーをもりもりとそこに開いていく技術のありようを前にして、そのありようの中で基盤を見いだして行くってことでしょう?

違うのかなあ。
ハイデッガー、このあたりから薄気味悪く(ということは格段に面白く)なってきます。
まあ、「土着性」は、まだ「生の可能性条件を準備する環境=生態」みたいな読み替えをする余地はある。
でも、その次の「放下」と「密旨に向かっての開け」になると、ほとんと「禅」かいっ!?って感じになっていきます。


ダライ・ラマさんに尋ねたら、「安全か危険かは科学者に聞け」って答えでしたから、それよりはハイデッガーさんの方がぐっとくることは確か。

まるで福島で講演しているみたいだものねえ。
この『放下』って講演記録、ほんとうに30ページ程度で短くて、私にとっては切実なことを巡って書かれているという印象です。

そのあたり、もう少し粘ってみますね。


先日KindlePaperwhiteが使えないと書いた。

2013年01月03日 21時04分14秒 | 大震災の中で
購入前、テキストが読めればいいわけだし、iPhoneと比べると画面は大きいし、このサイズならいける、と決断して購入したのに、いざPDFファイルを転送して読もうと思ったら、解像度が合わなくて文字がギザギザ。

すこぶる読みにくい。

iPhoneとiPadならこんなことはない。もちろんiPadminiも。

Kindleペーパホワイトは使えない!

という結論に達したわけです。

そこで、ここは一つアンドロイドデビューを、と目論み、

Nexus 7

を購入しようと考えたのが大晦日の夜のこと。
アンドロイドなら、アップル系のようにファイル転送の手間はない。PCに繋いでPDFファイルをコピーすればOK。USBだって使えるし。

そう思ってPDF閲覧ソフトを探してみると、これがなかなか難しいようなのだ。

アンドロイドも、PDF閲覧ソフトによっては、解像度の変換をしなければならないらしい。
変換不要なソフトは画面表示が遅いとか、やっぱりいろいろあるんですねえ。

ん、待てよ、結局解像度を適合させるためのファイル変換が必要なら、もしかするとKindleペーパホワイト用の変換フィルターもあんじゃね?

と考えてうろついてみたら、なんとありました!

試しに変換してみたらバッチリ。

この作業をスルーするためにはiPadminiを買うしかない。

しかしたぶん今年中にRetinaディスプレイの改良型がreleaseされるに違いないから、今は買いたくない……っていうか、アップルストアで2週間待ちである……


というわけで
Kindleペーパホワイトさん、悪口いって済みません。

試しにChainLPという変換ソフトをつかってみたら、ギザギザが消えて綺麗に表示されることが判明(^^)
変換に1ファイル数分掛かるから、全部を改めてんKindle用に変換するのはしんどいけれど、全部入れ、じゃなくて、今日はどの本を持って行こうかなモードなら、十分あり、です。
どのみちメモリは小さいので、その時持ち歩く本が入れば十分。

というわけで、RetinaのiPadminiが出るまではこれでいってみます!

Kindleペーパホワイトくん、改めてよろしくねっ。



原子の時代における根源的な「問い」(ハイデッガー『放下』より)

2013年01月03日 14時53分32秒 | 大震災の中で
つぎにハイデッガーは「原子の時代」について触れます。

3,原子の時代における根源的な「問い」について
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技術家はいたるところで原子力の平和利用を遠大な諸計画に基づいて実現しようとしている。
指導的国家の大企業コンツェルンは、原子力が巨大な企業になり得ることを、既に計算してしまっている。
人は、原子企業のうちに新しい幸福を認めている。
原子科学もそういうかけ声の外に離れてはいないで、この幸福を公然と告知している。

18名のノーベル賞受賞者たちがマイナウの島で
「科学、それは人間をいっそう幸福なる生活へ導いていく一つの道である」
という。

これは、省察から発した主張ではない。
原子時代ということの意味に思いを潜めて追思しているのではない。
私たちがこの科学が発するこのような主張に依って満足してしまうならば、現代という時代への省察からこの上もなく遠く隔てられているのだ。

次のように問う必要がある。

科学的技術が自然の中に諸々の新しいエネルギーを発見することができ、それらを開発することが出来たというこのことは、一体何に基づいているのか、と。

それは、の数世紀以来、基準となる諸表象の全てにわたってある一つの転覆的変動が進行中だということに基づいている。
その変動に依って人間が、今までとは別なある一つの現実の内に移し置かれるということである。

「世界の見方に関する根本的にして激烈なる革命」

今は世界は、計算する思惟がそれに向かってさまざまな攻撃を開始するところの対象であるかの如くに、現れてくるのであり、それらの攻撃には、何物も抵抗し得るはずはないのであります。自然は、他に比類なき巨大なガソリン・スタンドと化し、つまり現代の技術と工業とにエネルギーを供給する力源と化します。世界全体へ関わる人間の、根本的に技術的なるこの関わり合いは、最初17世紀において、しかもヨーロッパにおいて、しかもヨーロッパにおいてのみ、成立したのであります。

(このエネルギー革命に関する)

根本的な問いは、
我々は必要に足りるだけの燃料や動力源をどこか獲得してくるか、ではなく、決定的な問いは、この考える<表象>することができないほど大きな原子力をいったいいかなる仕方で制御し、操縦し、かくして、この途方もないエネルギーが突如としてどこかある箇所で檻を破って脱出し、いわば<<出奔>>し、一切を壊滅に陥れるという危険に対して、人類を安全にしておくことができるか、という問いであります。


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原子力時代における根本的な問いを一つ一つ重ねていく手際は見事。
そう、「檻を破って脱出」しちまったんですよ」とハイデッガーに教えてあげたいです。





『放下』土着性の喪失の件(くだり)は、今ここの福島に通じると実感しちゃうなあ。

2013年01月02日 21時49分23秒 | インポート
ハイデッガー『放下』ハイデッガー選集15巻について(3)

メディア日記「龍の尾亭」に書きました
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980406

土着性の喪失が現代人の課題だっていうのは、その通りで、別に驚きはないとも言える。
でも、この件(くだり)、沁みるんだよねえ、今。

ハイデッガーの故郷シュワーベンはそのまま今の私の故郷福島ではないのか?

2013年01月02日 20時46分46秒 | 大震災の中で
ハイデッガー『放下』ハイデッガー選集15巻について(2)

メディア日記「龍の尾亭」に書きました。
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980405

現代人は
「思慮からの逃走」
をしている。
それは、この「今、ここ」の福島も同じじゃないか?
っていう呼びかけは、切実に響いてきます。

まあ、現代の「疎外」論なんてものは目新しくないよ、という声が聞こえてくるだろうか。
そうかもしれない。
でも、
「疎外」論がダメなのは、そこから疎外されていない本来的な「復興」をつい望んでしまうことなんじゃないだろうか。
むしろ、「本来性なき疎外」(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』)については、私たちはまだ十分に思考しきっていないのじゃないか?

そんなことを考えながら読んでいます。


ハイデッガーの『放下』について書きました(1)

2013年01月02日 20時11分47秒 | インポート
メディア日記「龍の尾亭」に、
ハイデッガーの『放下』について書きました(1)

http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980404

1950年代、人口4000人足らずの街の記念祭に招かれて講演をした時の記録です。
短い(30ページほど)の文章ですが、私はこれを読んだ時、まるで福島の自分の住むところにハイデッガーが来て目の前で講演しているかのような錯覚を覚えました。

それほど、私の「今」に突き刺さる文章だったのです。
以下、続けて書きますね。参照いただければ。