龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

レガシィの評価、スバルの評価。

2012年04月24日 23時13分58秒 | クルマ
スバルの評価で面白い記事を見つけたのでメモしておきます。
JBPressというWeb雑誌のコラムです。

「信じられるクルマ」であることがスバルの証し
日本車が元気になるための処方箋(富士重工業篇)
2011.08.29(月) 両角 岳彦

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/20205?page=1

ちょっと引用。
(引用開始)
その中で、「スバルのブランドアイデンティティーは『シンメトリカルAWD(水平対向エンジンを縦に置いて前輪と後輪を駆動する動力機構の基本構成。上から見るとほぼ左右対称になっている)』です」などという、本末転倒のフレーズを、宣伝だけでなく商品企画部門までが掲げるようになった。

 そうした人々に対して私は、「そんなことを言って、(スバル360、スバル1000の開発を指揮した名技術者)百瀬晋六氏に顔向けできるの?」と、何度となく問いかけたものである。水平対向エンジンを縦置きした前輪駆動機構は、「最良のクルマ」を希求した結果の一形態であって、それ自体が価値を生むものではない。
(引用終了)

この両角岳彦という人は、自動車ジャーナリストの経験もある自動車工学の研究者のようですが、とても深く納得しました。

あくまで工業製品として「最良のクルマ」をどう追求していくかという道しか21世紀のクルマの生き残りはありえないという徹底した視線と、あくまで乗って体で体感する「動質」という概念で、クルマの「良さ」の本質を語ってもいます。

そのあたりの指摘通り、5代目レガシィは「絶賛迷走中」の製品だったと言えるでしょう(笑)。

こちらは私が価格.comにアップしたレビュー。

「じっくり付き合いたいクルマです。」
レガシィ ツーリングワゴン 2009年モデル2.5i EyeSight B-SPORT G Package
(2011年11月22日発売)

http://review.kakaku.com/review/K0000287215/GradeID=19505/

工業製品としての迷走という両角氏の視点のシビアさから比べると、メルセデスやマツダがスバルよりもちゃんとしてるみたいにもとれる単純比較になっちゃってるところが今ひとつでした。


以下は蛇足。

マツダロードスターにおけるライトウェイトオープンツーシータースポーツという設計の思想や、ベンツのCワゴンに見られるような重いものをしっかりと制御して疲れずに安全に乗員を移動させるというクルマ文化の方が、新型レガシィの、awdだから、アイサイトだから、広いから、という、クルマの「動質」という根本的な魅力とのつながりが弱い技術先行の「売り」と比較するとしっかりしてるんじゃないのかな、という印象を抱いたことは間違いありません。

「自己の中に働く力能が、どこで世界の根本原因と繋がっているのか、をきちんと問い続けられるかどうか問題」
と言い換えてもいいです。「倫理」の問題ですね。

一見突拍子もない方向性であっても構わない。
どこまで徹底し、透徹した「初期衝動」=「根本原因」の共鳴を信じうるか、が問われているように思います。
その上で、それをどう実現していくのか。

難しいことだけれど、たかだかクルマを乗り比べて購入する時にも、ユーザーだって意識的か無意識的か、を別にして、そんなことを考えながら選択していくものなのですよね、やっぱり。
だから作り手にも、いや作り手だからこそ、その「表現」に「神様」が宿るところに手を届かせてほしい……。

勝手な欲望なのかもしれません。
でも。

人間が動物と違って、他者の中に「表現」を見いだした何万年も前から、私達は「動物的」な次元、「想像的」な次元、そして「表現的」な次元の多層性をずっとずっと生きてきたのです。

手近に「村の神様」を想定して、その絵図面通りに生きるわけにはいかないことが、原発事故以降、分かってきてしまいました。
それでもなお、電気やガスや水道や道路などのインフラを使って、電化製品や自動車や現代的な家の設備などの便利さを享受し続けようとするならそこに、自分のスタイルに対する自覚的姿勢が必要になると私は考えています。

哲学といっても思想といっても文化といってもいいのだけれど、「姿勢」であり「表現」であるという意味では、それはやっぱり「倫理(エチカ)」という表現が一番ふさわしい。

「クルマ」における「エチカ」、なんて「哲学ヲタ&クルマヲタ」カテゴリーに過ぎない、かな(苦笑)。
いや、対象はなんであってもいいのです。「棲み家」における「エチカ」であっても、「食」における「エチカ」であっても、「職」における「エチカ」であってもいい。
「エチカ」の大増殖、歓迎!

問われているのは、生きること全体に、全面的に関わってくる「スタイル」の問題だから。

この項、結論なく、また後ほど続けます。






吉本隆明『最後の親鸞』を読み出した

2012年04月15日 18時49分26秒 | 評論
 ちくま学芸文庫の吉本隆明『最後の親鸞』を読み出した。

 これがすこぶる面白い(メディア日記4/15を参照のこと)

 なんだろう、吉本隆明の本を読んでいて、いちいち腑に落ちるという経験をしたのはおそらく今回が初めて、というくらい読みやすかった。

 これもまた「震災・原発事故被害」の影響、といえば言える、のかもしれないが(苦笑)、例の私の持論である、年をとった結果、ボケはじめたために細部が見えなくなって、逆に大きな幹のありかが分かってきたということかもしれない。

 あながち冗談で済ませられないのは、ETVで1年ほど前に吉本隆明の講演を番組で取り上げていて、その中で吉本隆明自身が、どうしても自分の読者ではない人(素人?)に自分の思想を伝えたい、といって、歩くことさえ不自由な身体を押して講演を計画する場面があって、その「気持ち」がとってもよく分かったからだ。

分かった、というのはまあ一義的にはこちら側の「匙加減」に過ぎないのだけれど、それでもその吉本隆明の「気分」は確実に私の側に「感染」したのだ。

例えば『言語にとって美とは何か』指示表出と自己表出、という区分も、だいたいこの「自己」で躓いたまま何十年も読めずにいたわけです。
当時(何十年も前のことです)芸術系の人って、どうしてもこの「自己」という言葉を使いがちで、若い頃の私は、その「自己」に躓いていたわけだから、自分の中の偏見では、どうにも芸術家のいう自己は「動物」としか読めず、結果、だからその自己ってどこで形成された「他者」としての「自己」なの?だいたい「自己」って誰?とか思っちゃうと、もう先に行けなかったのです。

詩とか絵とかの表現者は、そのプロセスにおいて、その語られるべき「自己」とどこかですれ違って「出会い」を果たすのかもしれないけれど、そんなことあられもなく言葉にされてもねえ、というのが正直な感想だった。

「自己」というのは、20歳~30歳そこそこの自分にとって空疎な記号のようなものでもあり、他方空疎であるだけに逆に脱獄不可能な無限のクビキ=牢獄のようなものでもあったわけだから。

でも、ここ(『最後の親鸞』)で語られる「非知」と<無智>の関係は、実によく腑に落ちた。
吉本隆明は(あたかも親鸞の如く)、最初から最後までその「非知」と<無智>の間の淵のぎりぎりの近傍点に立ち続け、実況中継をしようとしていた人だったのかもしれない、ということに、30年も経ってようやく思い至ってきたのだ。

「境界線の近傍に立ちその淵を覗く」、という比喩でいえばここ数年、それが自分にとっても大きな主題の一つだ。
吉本隆明はむしろその淵の底から、のぞき込むこちらに向かって言葉のライトを向けてくる。

それは、かつての私にはまるで深海魚の暗号のように感じられた。
一つ上の世代のたくさんの人間が反応しているけれど、それが分かっているのかな、と疑問も抱いた。

けれど、その淵の側に立ち、覚悟を決めてのぞき込むと、思いの外に「分かりやすい」のかもしれない、とも思うようになる。
ちょうど『小林秀雄の恵み』(橋本治)を読んでから、分からないながらも「小林秀雄が読める」場所に誘われはじめているのと同じように。

どうせ30年も分からなかったのだ。ゆっくりと読んでゆっくりと「分かって」いこうと思う。

親鸞とスピノザを性急に結びつけることもすまい、と思う。

全てはゆっくりと余生全部を通してわかり直していけばいいことだから。









白河の珈琲店に寄ってきた。

2012年04月15日 17時25分52秒 | ガジェット
一人暮らしをはじめた息子のアパートを急襲しつつ、白河で食事でもしよう、と国道289号線を棚倉方面へ向かう。
4月14日(土)は前夜から雨で、結局雨が上がるのは夕方だった。
一般に雨の山道ドライブは気が進まないものだが、レガシイワゴン(AWD)なのでどんと来い、である。

同じ道を2週間前に同じ排気量のベンツワゴンで走った。
重いモノがきちんとコントロールされている安心感、というか、挙動をクルマが十分に請け負って安全に移動する感触でいえば10年落ちのベンツの方がどっしりしている。

レガシィは、昨日読んだ雑誌の特集で伏木悦郎が、

技術の「マッチポンプ」を超えなければ旧態依然とした場所からスバルは動き出せないだろう

という意味のコメントを残していました。
これ、けっこう納得ですね。

AWDと水平対向エンジンという
「虎の子の高い技術」
がそこにあることは誰もが納得している。
でも、それだけじゃあダメ、っていうか、先に行けないんじゃない?
という疑問である。

伏木氏の論はブログでも読めるが、ざっくり自分なりに翻訳してしまうと

86(トヨタ)vsBRZ(富士重工)という図式で、エンジンが水平対向だから、という論調のスバルびいき記事があるけれど、スポーツカーつくっておいてスタビリティとかいってるだけじゃ富士重工に未来はない。

そもそもトヨタが富士重工にBRZの併売を「許した」ところの文脈も考えよう。
DSC切らなきゃ86もBRZもそう変わりはない。
ドリフト志向の86こそが、トヨタがオールジャパンの車作りを考えつつ、その上でFun To Driveと向き合ってる証拠だ……

的方向性。
まあ伏木氏はFR+ドリフト上等の還暦評論家ですから、指向性=嗜好性の論調として当然。

でもそれだけじゃなくて、富士重工のクルマ作りが、どうしても技術優先になっていて、何がクルマの楽しさなのかを見失っているんじゃないか?という問いかけとして、重要だと思いました。

なるほどアイサイトもあり、四駆でもあり、レガシィは実に安心して走れる。

でもまあ、安心して走るんだったら、電車で移動すりゃ「寝てても本よ読んでても」安心だわね。
人も荷物も1ボックスワゴンの方が乗るだろう。

さて、ベンツワゴンとレガシィワゴンを比べ直すと、お値段と、雪が降る地域性を考えれば私にとってはレガシィの方がずっと「お得」だ。

いくらベンツにスタビリディコントロール装置がついていても、FRはFR,雪道を走る上の安心感は比較にもならない。

では、レガシィは「安心」のためのクルマなのか。
長距離を疲れずに走るためのクルマなのか。

それとも走る喜びを味わうのがクルマなのか。

納車から2週間で2300キロ程度を走った感想でいえば、一番に運転の喜びを味わうクルマでは残念ながらなさそうだ。
それでもハンドルを握ったテイストは決して悪くない。コストパフォーマンスも高いクルマだと思う。普通に運転でき、静かで疲れず、雨や雪の安心感も抜群、アイサイトが付いて安全度も高まり、何よりアイサイトに付随したクルーズコントロールが良くできていて、高速長距離の疲れ具合は、ロードスターとは雲泥の差、レガシィは本当に疲れ知らずだ。

その上で、カーブを曲がったときに、運転を楽しんでいたかつての記憶が蘇る、みたいな、みたいな感触である。


ここから先はおそらく多くの人と共有しにくい個人的な感想になる。

ロードスターとレガシィは、私にとってクルマにおける二つの方向性が異なる欲望を満たしてくれる二台だということが分かってきた。

ロードスターは自分で運転する楽しさ。
レガシィはどこまでも運転する楽しさ。

たぶん体力が十分にあって、途中で仮眠するにも座席を倒せない過酷さに耐えられたなら、ロードスター1台で間に合う。なにせ屋根は開くし、ハンドルに応じて実に気持ちよく曲がってくれるし。

だが、50歳を過ぎ、なおクルマで一度に3000キロとか4000キロとかを走ろうとしたとき(十分にはそれは偏愛的というか変態的、ですよね)、ロードスターの「楽しさ」はいささか身体がついていかない、ということが起きてくる。

また、長旅を自堕落に荷物を積んで休み休み行くには、ロードスターだけではちと辛い。

そして、背景を支える文化はドイツ車とは違うし、技術優先の匂いがし、かつその技術的もいささか袋小路に入った感のあるレガシィですが、それでも、「どこまでも遠くに、快適に」っていうロングツアラーのコンセプトにおいては(その方向性における会社、そしてレガシィの未来は心配かもしれないけれど)、今この2012年春の時点のチョイスとしては、私にとっては納得のいく解だった、ということがいえる。

さて、今日はクルマではなく珈琲店の話だった。
(関係ある、と思うんだけどね、個人的には)

友人に教えてもらって、白河の珈琲(豆)店に出かけた。
雨が降りしきる中、細い道だが車の通りは割とある街中にお店があった。
駐車場は向かい側に10台分以上。

店に入ると、私と同年配ぐらいだろうか、ベレー帽を被ったおじさんが一人(ふだんは別にスタッフもいるらしい)いて、入るなり、テーブルにどん、と置かれたゴーダチーズと、食用油(名前は失念)を勧めてきた。
いさんでいわきから珈琲を飲みに来たのだが、喫茶店というよりは自家焙煎の豆屋さんの雰囲気だし、勧められるのはチーズと油だし、加えて間断なく繰り出される、店主とおぼしきベレー帽のおじさんのうんちく攻撃は、もう自分がここに何をしにきたのか分からなくなるほどの「不思議空間」である。

曰く、
「ハワイコナは誰も注目しないうちから私が豆を売っていた」
「この油は食べてよし、髪に塗ってよし(ただし女性ね)、男は髪の毛なんてない方がよろしい、男性ホルモンがあるから禿げるんだし、エロすなわちアタマがいいってことだからね、男はそのためにアタマを使うんだから、がはは」
「私は日本一上手い(珈琲の淹れ方?焙煎?)んだけどね。名刺にライセンスは刷ってあるけどこれ、ペーパーテストで取れるライセンスで、全然意味がない。」
「チーズナイフを水で洗うのは馬鹿。だから黴びちゃう」
「日本にソムリエは育たないんだよね。こんなに湿気が多い国じゃ無理。唯一北海道で森の空気を嗅いで育った人ぐらいかな、可能性があるのは」

もう、なんだか分からないうんちくの洪水である。
大丈夫か、このおじさん?!

友人からは、お店で珈琲も飲める、と聞いていたのだが、そんな空間も見当たらないし、うんちく攻撃にすっかり毒気を抜かれ、せめて豆を買って退散しようと思って

「あの、このブラジルの丸豆とキリマンジャロを200㌘づつください」

といったら、突然うんちくが停止。
珈琲のところになるとまた別のスイッチが入るのだろうか(笑)。

もうなんだかあきらめ気味に「あのー、珈琲もこちらで飲ませていただけるんですかね?」
と聞いたら、今度は力強く
「もちろん」
と一言。

レジ向かいのカーテンをしゃっと引くと、二階への階段が「じゃじゃ~ん」と登場。

「飲めるんだ……」

もうマインドコントロールされるがごとくの状態で二階へ。
階段をあがったところがサンルームになっていて、奥はテーブルが3つか4つ。南西側には流しとガス台、それにカップなど簡単な厨房になっていて、確かに珈琲も飲めそうだ。
しかし印象は、
「珈琲好きな友達が、実家の二階を改造して珈琲屋さんのようなものにした場所」
に招待された感じ、とでもいえばいいのだろうか。
本棚には無造作にご主人のものとおぼしき本がどさどさと積み重ねられている。

もはやおどろきもしないが、ご主人は注文もなしにお湯をガスにかけて階下へ。

ただ、さりげさく灯を入れたオーディオは真空管アンプ。
そこからまったりした女性ジャズボーカルが流れてきて、これは実にヴィヴィッド。

ご主人は下で豆を挽いて来て、階上に戻ると、お客のテーブルのところで、ネルドリップ珈琲を淹れてくれる。

この泡の盛り上がりは芸術品のようであったことはぜひ書いておかねば。

実際の様子はこちらの画像でどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=13z1P7tBBH8

何が「旨い」のか、は人それぞれの個人的「匙加減」だ、という言い方がある。
嗜好品であればあるほど、その傾向は強い。
あるいは、お金を出せば出すほど、それなりに美味しくなる、という考え方もある。
私達はそういう二つの傾向性に、十分に慣れすぎてしまった。

でもね。
この主人の様子を見ていると、そういうことじゃないんだな、と分かってくる。

お金を儲けるものだけが偉いわけじゃない。
こだわりの強さだけが旨さを保証するわけでもない。

ここの主人の挙措全てから、好きなものをつきつめて「贅沢」な「生」を生きているというリアルが、こちらに伝わってくる。

いわゆる「普通」の感覚でいえば、「へんてこりんな人」の「へんてこりんな人生」、かもしれない。
私の中の「普通」は、間違いなく彼を「笑って」しまう。

すくなくても、人をたじろがせる「偏愛」をあられもなくここの主人は客に差し出してみせる。

しかし、その奇妙なこの主人の「感染力」は、断じて頑固な蕎麦職人の「こだわり」とは一緒ではない。
ここの蕎麦はとにかく旨いから、こだわり頑固主人だけど我慢しよう、というようなこととは絶対に違う。
頑固職人は技術や腕をその基準とする。
それは、まるで富士重工のようなのですよ(笑)。
好きですよ、私は。

でも、頑固な技術への固執は、ある瞬間から開かれた広い場所に出ていく感じを失ってしまう。
すくなくても、ある種の共同体を前提としたり、ノスタルジーに寄りかかった「頑固」は、その原初的な志とは異なって、いつのまにか閉じた「正しさ」を演出してしまいかねないのだ。自らの志を裏切ってさえも。


それに対して、ここのご主人は十分に「へん」だけれど、それは「開かれた偏屈さ」だ。
そしてそこが決定的に重要だ、と私は思う。

ある種の正しさ、規範、同一性に還元されない「疎外」された「贅沢さ」、といえばいいだろうか。
ユダヤ人共同体から破門され、それに対して反論の手紙で応えた結果、ナイフで刺されることになった、その外套を一生手放さなかったスピノザのような、といったら牽強付会だね(笑)。
でも、「疎外」は共同体への回帰や同一性への希求を「結論」とする必要のない、肯定的な「贅沢」でありえることの証左が、このご主人のほほえみの中に示されているような気がしたのだ。

彼の淹れてくれた珈琲を味わい、縦横無尽に広がる蘊蓄話を楽しみ、柔らかなオーディオの音を聞きながら、その全てが心地よい。
気鬱な雨の午後の暗さがいつのまにかすっかり吹き飛んでいた。


「贅沢な人生」の一つを垣間見たような気がした。
理想、というにはちょっと「奇妙な」テイストではあるのですがね(笑)。









待望の國分功一郎氏「スピノザ入門」講座に行ってきた。

2012年04月10日 23時43分26秒 | 評論
 1年間國分先生のスピノザ講義が聴けるかと思うと、それだけで幸せな気分になれます。
 (第1回目の内容詳細はメディア日記の方を参照のこと。)

一点、興味深かったのは、講義終了後の質問。

國分氏が「できたときにわかる」・「分かるときには分かる」、の例として「自転車乗り」や「水泳」の習得という身体訓練を挙げたのに対して、

そういう身体訓練の場合、手の角度や足の角度をこうして、といった支援・助言が可能なので、ちょっと違うのでは?と質問が出たところだった。

時間の無いところでもあり、噛み合った応答にはなっていなかったようにも思うが、そのあたりこれからじっくり講座の中でそのあたりも聞いていきたいと思うポイントがいくつか見えて、面白かった。

一つは、「身体」の問題だ。スピノザは「コナトゥス」(自己の力能)を私達は自らの内に持っている、という。
この、ある意味では神=自然の「顕れ」でもある「コナトゥス」と身体の関係をどう捉えていくのか。

体験的理解、とは内在的理解、というのに近いようにも思う。
この内在的=体験的な現象の根底に「神様」というか「根源的法則性」というか、そういう風に二つに分けない「表現」された「神の摂理」みたいなものを見る、ということだろうか。

このスピノザの「分かる」+「分かることが分かる」という理解の二重性(そしてそれは無限遡行しない!)は、実は「表現」の問題(ドゥルースにそういう題名の論文があったけれど、その関係もまだよく掴めてません)にもなるんじゃないか、という興味も湧く。

実は國分氏の出した例は、身体内部におけるGの制御、という側面をはらんでいて、私のいうクルマにおけるスポーツ論(論にもなってはいないが<笑>)と他人の空似程度には関係しているかもしれない、とも思う。

身体は自己にとってまず第一の「他者」でもあるだろう。その自己と他者の幸福な出会いの典型的な体験例が「自転車乗り」と「水泳」の習得だったりもする。

単なる身体運動の内面化、ということでいえば、けっこういろいろなスキルというか指導のための言語支援は蓄積がある、とも言える。でも、そっちの方向にこの話を引っ張っていくと、あんまり生産的ではないかもしれないね。

でも、他方、スポーツのコーチングには、「喩」が必須の力だったりもするだろう。
それはスピノザの「知性」とはどこで重なり、どんな距離があるのか。
この辺りも興味は尽きない。

スポーツのコーチングのことばには「喩」が満ちている。
○○を××するように、とか▲▲を描くように、とか、へそを何センチ向こうに、とか、具体的な部分によって全体の動きを「喩」として提示したり、比喩によって運動の形を先取りして提示したりすることは決して稀ではない。
一緒にいった友人(小学校の先生)に教えてもらったのだが、いわゆる「法則化運動」というのは、そういった体育のコーチングのアイディアから始まったのだそうだ。

ここで繰り返し書いてきたクルマの運転は果たしてスポーツか、というテーマにおいても、重心が自分の身体に近くなると、自分自身の身体運動のごときものとしてクルマの動きが感覚される、ということが一つのポイントになっていた。
これは「喩」というより、その逆方向の「手応え」というか、自己身体感覚の「拡張」という「結果」の説明なのだが、そんなことさえ、スピノザの哲学のお話とどこかで交わっているような予感を抱く。

とりとめない感想だが、とにかくとても面白かった。

一緒にいった友人のサイトがこちら(「考えるネコ、走るイヌ」)。よろしかったら是非飛んでみてくださいませ。休眠中の福島在住アスリートが福島で考える、というサイト(不正確な紹介だなあ<笑>)。とにかく、面白いです!




「スピノザ入門」第1回 (その5『知性改善論』の方法論

2012年04月10日 22時57分11秒 | インポート
「スピノザ入門」第1回 (その5『知性改善論』の方法論)

のメモをメディア日記にアップしました。

朝日カルチャーセンターでの國分功一郎氏の講座のメモ。
講座は年間12回が予定されている、その1回目です。
例によって不正確な忘備に過ぎませんのでそのつもりでご笑覧を。

宮城県沿岸部をドライブしてきた。

2012年04月06日 03時23分48秒 | クルマ
塩竃→松島→志津川→気仙沼→陸前高田

と、宮城県沿岸部を先週末、クルマで北上した。
大変な状況でした。

志津川町の病院跡


こちらは有名な防災無線を最後まで発していた建物。



陸前高田では、こんな風にまだ道路脇に巨大な船が置いてありました。



こうして写真に撮ると、それだけが凄い状態みたいですけれど、石巻から北の南三陸にかけては、沿岸部の町は本当に大きな被害を受けているのが分かりました。
志津川町も、気仙沼も、陸前高田も。
そして海に面した町には、人の居住は難しい面もあって、住宅も病院もお店も役場も、高台に避難したまま仮設のプレハブやアリーナでなんとかやりくりしている状況が続いています。
志津川町はそれでも、役場機能や病院の機能が、4/1から仮設から少し広い専用の建屋(仮住まいに変わりはないのでしょうが)に移転する、というお話でした。
陸前高田は瓦礫の撤去が志津川や気仙沼よりも進んでいる印象で、それだけに沿岸部の市街地がいっそう「がらん」とした感じを受けました。

とにかく、私がクルマで走った沿岸部数十キロに限っても、南三陸鉄道はほとんど波にやられて寸断状態ですし、海に面したところはほとんど全てにおいて人間の営みが無に帰してしまっていました。

旧に復することはほとんど不可能に近いかもしれない、そんな想いさえ抱きます。
復興は町の再現ではあり得ない。
また津波が来るかも知れないというリスクを無視して、それはできるはずもありますまい。
では、どうすればいいのか。
復興の計画は進んでいるのでしょうが、1年経って、ようやく主な瓦礫の片付けができた、という程度の進捗状況です。

プレスもかけていないのに潰れた自動車の置き場が町にはまだ何カ所も残っていますし、コンクリートや鉄骨の建物はそのまま崩れるにまかせたままです。写真にある大きな船などは道路にそのまま横たわっています。

私が復興ファンドに出資した気仙沼のお店跡にも立ち寄りましたが、きれいに片付けられていました。
果たしてどこにお店が出せるのか、それも分からないです。

私自身、福島はそれに加えて原子力発電所の事故があるから、また別の話だ、と無意識にこの一年考えてしまっていたところがあったかもしれない。

確かに「同じ」ではない。

でも、比較できないほど、それぞれに甚大な被害をうけた深刻な状態である、ということにおいては変わりないし、その衝撃についていえば、
「人為の裂け目」
が延々と海岸線沿いに続くこの光景は、原発事故とはある意味正反対でありながら、人の営みの「裂け目」を示してしまった、という意味では、その表層において通底している。

見たことも聞いたこともない津波に備えることの難しさを改めて思う。

被災地ツアー(びっくりしましたが志津川の現地にはそういうのがあるんです!)の語り部の方の話によると、志津川町では津波の発生は不可避だと認識し、一〇年以上前から5メートル級の津波に備えた町作りをしてきたのだそうだ。
写真の防災センターもそれに備えたものだったとか。
しかし、実際に届いた波の高さは15メートルにも達した。

こういう種類のものは、コントロールや対処が非常に難しい。
というか、この震災以前には、仮に予想する人がいたとしても、1000年に一度の規模の災害は、果たしてコストの計算や予測において人々を説得する材料になり得たのかどうか。

原発においてはコストが優先された。
最も危険な原発すらそうなのだから、経験論的な「想定」の域を超えていると見るべき「事件」だったといえそうだ。
だからしょうがない、とは無論思わない。
しかし、この一年後の状況を目の当たりにすれば、1000年に一度の地震や津波がコントロール可能だ、とたやすく信じることもまた、到底不可能だろう。

難しい。きわめて難しい。
できるのは、これからどうするか、を考えて行動する、ことに尽きる。

不完全な情報の中でゲームのプレイヤーとして振る舞わねばならない神ならぬ身の私達は、「それでも海端に住む」、というような究極の選択をも含めて、「開かれた」=「裂け目の中に示された自然」と向き合って行く以外にない。

快適に整備されたインフラに守られ、ライフラインを無条件に共有されて生活する、ということが当たり前ではなくなったこれらの「町」の実質的中心である沿岸部は失われてしまった。
原発事故で住めなくなった「町」と同様、そのある種「架空の町」を、意識の中だけでなくどう保持し、更新しつづけていけるのか。

答えの見つからない問いが、いつまでもアタマの中をグルグルとかけめぐっている。



環境概念とクルマの運転

2012年04月05日 17時30分42秒 | 大震災の中で

昨日、クルマの乗り方を忘れてしまった、という話を書いた。
無論運転の仕方を忘れたわけではなく、道を忘れたわけでもない。

お気に入りのクルマを走らせると、その乗り味の違いが、ある種の戸惑いをもたらすのだ。

今までも父親の車をたまに運転したり、息子や妻のクルマを運転したりしたことはある。レンタカーを借りたこともあるし、新車の試乗もたくさんした。
だが、そういうときにはこの「わからなさ」や「戸惑い」に襲われることがない。いくら運転したところでそれは「よそ」のクルマなのだ。
よそゆきを意識していれば違和感は起きない。違っていて当たり前なのだから。

ちょうどいくら食べ物を口に入れてもそれは予め予期された異物であるため、異物感は感じないのと同じように。
しかし、歯を治療して詰め物を入れたり入れ歯を装着したとき、私たちは言いようのない違和感を抱かされる。いずれ数日後には消えてしまい、あたかもそれが自分自身の一部になっていくことは予想されるのだが、それに成れるまではどうしても違和感や戸惑いを隠せない。

クルマと入れ歯はちがうといえばいえる。
しかし、自分のクルマ、となると事情が違う。

クルマが自分自身の前に開く世界の様相が明らかに異なり、しかもそのいずれもが自分自身の挙措の延長線上に定位されているため、不思議な齟齬の感覚、ズレの感覚が生じるのだ。

クルマの運転はだから、決して機械の操作ではなく、自分自身の身体の「延長」としての運動=スポーツに外ならない。

クルマは、自分の身体運動における環境とのインターフェース、と考えるべきか、あるいは擬似的な身体、ととらえるべきか、はたまた身体に運動をアフォードする環境可能性条件、ととらえるべきなのか。

ロードスターに慣れた身体と、レガシィに慣れた身体は、別の「生き方」を生きている。その切り替えが瞬時にはできない。

別のモノ、別のコト、でないからこそ、切り替えの遅延が起こる。いずれ必ず消えて行く違和感なのだが。

自分の家の匂いや、自分の家のオニギリの感触。数え上げれば、自分に近い環境の「標識」はたくさんある。

身体という境界をめぐる「分からなさ」の手触りは、いずれにしてもそこにスポーツがたち現れることの理由を、また一つ示してくれたのかもしれない。





レガシィの魅力(納車1000キロでの暫定的結論として)

2012年04月04日 22時27分53秒 | クルマ
昨夜、暴風と雨の中、ロードスターを久しぶりに乗ってみたら、面白いことが分かった。

今度はロードスターの乗り方を忘れてしまっていたのだ(笑)。

いや、屋根さえ開ければすぐ思い出します。露天風呂のの如くユルイ楽しさを。
しかしゆうべは暴風雨。それは叶わない。

で、屋根を閉じたクーペ状態で濡れたカーブに突入したら、
「あれれ?」
レガシィを乗ったときの、カーブを予想以上の高速を維持したままスッとフラットに曲がってしまうアノ感じとは全く違うのである。

油断をしているとどんな風に回るか分からない感じなのだ。
自分でどう曲がるか、どう走るかをいつも考え、クルマの反応を感じながら、そして風も友達にしながらドライブを楽しむのがロードスター流だった。

レガシィはそれとは明確に異なる。
クルマの高いポテンシャルによってコーナーを抜群の安定感で駆け抜けてしまうのである。
普通のクルマとは、コーナー速度があきらかに違う。
それは、ドライバーに伝わってくる安定感・安心感が違う、ということだ。

確かに、ロードスターを初めて乗ったときも「これほどコーナーが曲がりやすいクルマは初めてだ!」と感じた。
だがそれは、自分で操作する楽しさ、自分の力量に応じて楽しむタイプの「曲がりやすさ」だったのかもしれない。

ディーラーから借りた試乗では、こういった違いはなかなか分からない。

今日はレガシィを乗り出して、夕方から山沿いのカーブが楽しい道を小一時間走ってきた。
今度はちゃんと特性が分かっていて、使い分けをしながら走ることができた。

楽しい。抜群に楽しい。
運転が上手くなったように錯覚する。

でも、昨夜の雨の日のロードスターの時のびびり具合を考えれば、腕ではなく、クルマの力量と路面コンディションの関係だ、と分かる。
ドライならロードスターも少々無理が利くけれど、濡れたときはびびっておくべきクルマだ(すくなくても素人の私の運転の場合)。

私の貧しい力量では、レガシィの方が間違いなく(緊張せずに)中速カーブを速くクリアできる。
そしてそれは、頼もしいし、悦ばしい。
スポーツパッケージの足回りはどんな風なのだろう、と想像してみたくなる瞬間でもある。

また細かいことを言えば、ロードスターはコーナーに入った(ハンドルを切る)瞬間すでにもう楽しいけれど、レガシィはそのプロセス全体が結果として楽しいみたいな感じとでも言えばいいだろうか。


レガシィの燃費は、1000キロ弱走ったところで、
トータル12.7km/l
高速14km/l強、
通勤のみ10km/l強、
郊外の信号のない道をスムーズに走っている状態で12km/l弱
といったところ。

排気量2000ccのロードスターが8万キロ乗ったアベレージで、
トータル11.0km
高速13キロ程度
通勤9キロ程度、
郊外10キロぐらい
だったので、燃費は2500ccのレガシィの方が2km/l弱よろしい。
(ただし今のところ全てiモードのみ)

普段は静かで滑らか。ゆったりと走る長距離を得意とする。
が、雨の時の安定感は抜群。
さらに実は「曲がる」と懐が深く、コーナリングの安定感は抜群で速度も速く、実に気持ちが良い。
燃費もスポーツカーよりはいい(笑)。
レガシィは今のところ、そういう印象のクルマである。

細かいことを気にしていると、本質を見誤ることがある。ある程度時間をかけてみて、初めて良さが沁みるように感じられてくる。
そういう個性もあるのだ。ドアを開けた瞬間から、ハンドルを握るとすぐに、エンジンをかけたとたん、タイヤが半転がりしたらもう虜……レガシィはそういうタイプのクルマではなかった。

現行レガシィの良さは、長く乗れば分かる。
個人的には(ワゴンに限ってだが)アテンザよりもベンツよりも好印象を持った。

なるほど、街乗りしていても運転が楽しいという意味ではアテンザの方が足回りの「走りのテイスト」は際立っていて分かりやすい。
高速のどっしり感と、疲れずに目的地までエスコートしてくれるもてなし感は10年落ちのベンツに「文化」を感じる。

でも、コーナーのあのフラットな安定感は間違いなくレガシィの「技術」でしょう。
まっすぐ走っている時には想像もできない魅力、ではあるけれど(笑)。

楽しみ方は一つじゃない。
それぞれの間口があって、適切にそこから入っていけば、それぞれのクルマが適切にもてなしてくれるものなのだ。


レガシィ納車!(その4)ロングツーリングで知ったレガシィの凄さ

2012年04月03日 00時11分37秒 | クルマ
ようやく分かってきた現行レガシィの魅力。

2日目の夜は、南三陸のホテルに泊まる。
翌朝から一日、陸前高田まで数十キロ海沿いにドライブしながら観た光景を、私は一生忘れないだろう。

クルマの乗り心地とか、そういう話をしてられないほど、めちゃめちゃ大変な状況だ。
なるほどテレビの映像や新聞の記事で、宮城県沿岸部の被災の深刻さは教えられていた。
でも、それは「点」の印象でしかなかった。
何十キロにも渡って(私が見た限りで、の話です。実際は沿岸部何百キロも被害区域は広がっているのでしょう)海沿いのドライブに最適な道路を走り続け、右側に海が見えるたびに、海沿いに走る南三陸鉄道が寸断され、家屋が土台だけになっており、橋が落ち、撤去しきれないビルが半壊状態で焼け野原の後のように残っている……そんな情景が続いているのだ。

いわき市でも、津波の被害の大きかった豊間や薄磯の状況は目の当たりにしていた。
それと同じ状況が、志津川の町でも、気仙沼の町でも、陸前高田の町でも、その間の入り江も、奥に行くほど高くなった陸地も、20メートル近くにまで上がった水にのみ込まれてしまったその惨状を彷彿とさせる状態で残されているのだ。
瓦礫の撤去は陸前高田が一番進んでいる印象を受けたが、いずれにしても、ものすごい情景が延々と続く。
そのことについては項を改めて書くが、週末「被災地ツアー」などと軽口を叩いていた自分の浅はかさを痛感した。

と同時に、志津川では「被災見学ツアー」にも参加したのだが、案内をしてくれた地元の人は、

「この状況をきちんと観て欲しい、そしてこれから復興する未来をまた見に来て欲しい」

という。
個人的な印象に過ぎないが、津波前の街はもう戻らないだろうと思う。
第一、海沿いに民家を建てることは事実上困難だからだ。
また、瓦礫撤去さえ終わっていない状態では、まだ先が見通せない状況が続くだろう。

津波を無視して同じ街を再建することはナンセンスでしかない。
かといって、15mもの高さの津波を「想定」した街並の再建など、素人の私には残念ながら想像もつかない。

それでも、ホテルの窓から見える南三陸の海では、早朝からずっと、海藻の養殖だろうか、海の中の仕掛けのようなもののところで作業を続けている漁船が何艘か見えた。水産加工場も、居住しないという条件で許可が出て、再建が始まったところも出てきている。

自分自身がいわきで被災する前は「災害地にいくべきはボランティアの人だけで、物見遊山などもってのほかだろう」とてっきり思い込んでいた。

そうではないのだ。

むしろ、物見遊山で結構、被災地観光ツアーで結構。
どんどん観に行くべきだ。

自分の瞳に焼き付けるほど見れば、人間の物の見方考え方は、確実に変わる。

人の心配をしている場合ではないのだが、私のようなものでさえ、南三陸の人達の「絶望」と、それでもそこに踏みとどまって生きようとする「思い」とが絡み合った「解けないパズル」のような複雑な思いのミニチュアを胸の奥に抱えて還ってきたのだから。

閑話休題。

レガシィに話を戻す。
海沿いの、ゆるいアップダウンのあるカーブの道を走っていると、昨日はあんなに戸惑っていたのに、「意外にいいじゃない?」という感じに感触が変わってきた。

インパネのびびり音も、立て付けそれ自体ではなく、ディーラーオプションのナビの液晶角度と取り付けの樹脂フレームが微妙に干渉していただけのようで、角度を変えたらあっさり音は消えてしまった。

あくまでも静かに、あくまでも滑らかに道を「滑走」してくそのテイストは、駐車場で切り返しをつい必要とする体躯の大きさはまだ慣れないにしても、他のクルマでは味わえない感触かもしれない、と思うようになっていった。

印象が決定的に変わったのは、陸前高田から種山が原へと向かう気仙川沿いの道を、山に向かって登り始めてからだった。
ゆるめのカーブが続く山道を登ったり降りたりすると、車体の大きさや車高の高さを感じさせない、地面に四つの車輪がぴたっとすいつくように曲がっていく感触が、運転者の重心に加わるGの心地よさとして伝わってくる。

これがおそらくスバルAWDならではの制御なのだろう。4つの車輪がきちんと分担して仕事をしているのは当然なのだが、そこに濃密な統一感があって、それはやっぱり力の制御が緊密で、運転者の身体と響き合ってくるのだ。

ロードスターが基本ウェイトを極力軽くした上で、中心に重量物を集約し、運転者自身の体内に重心をもってきて身体の重心とクルマの重心を重ねていった軽量回転系の点的G制御だとすれば、レガシィは水平対向エンジンという低重心エンジンの特性と4輪駆動という分散型のトラクションコントロールによって、平面の四隅に分散させ、その上でその力を合成してあくまでもフラットな「回転円盤系」の面的G制御を果たしているといった印象だ。

これは、今までどんなクルマでも味わったことのない、このクルマならではの「個性」だった。

ロードスターがライトウェイトオープン2シータースポーツという設計文化オリエンテッドなクルマだとすれば、レガシィは水平対向エンジンと四輪駆動形式という技術思想オリエンテッドなクルマ、といってもいい。
考えてみれば、どちらも、日本が世界に誇る、独自ジャンルを切り開きあるいは再興させた歴史を持つクルマだった。

種山が原の道の駅「ポラン」でふきのとうと鶏ハラミを購入し、水沢I.C.まで降りてくる頃までには、大きくなってゆったりと穏やかに乗るクルマという印象の陰に隠れている足回りの魅力を、しっかりと「肌身」に感じられるようになっていた。

AWDというカタログのお話ではなく、アイサイトのCM効果ではなく、今までのレガシィがどうか、でもなく、昨日まで乗っていたロードスターの魅力との比較ではなく、間違いなくレガシィは日本で200万円台で乗り出せる唯一の、「ロングツアラー」と呼ぶのにふさわしいステーションワゴンだと分かりました。

高速をアイサイトでゆったりと疲れ知らずで走り、いったん高速を降りたらワインディングロードを気持ちよく走る。雨でも雪でもドンとこい。荷物も乗るし、同乗の家族や仲間も楽しい。そして、きちんとその魅力の文法をわきまえれば、ドライバーも十分に楽しめるクルマになっていました。

なるほど、ガッツンガッツンとマニュアルで変速して、ターボで加速して「操作」を楽しむクルマの方向性とは全く正反対だ。
でも、いわゆるちょっと乗ると「快適」だけれど、長距離を乗るとつまらなかったり腰が疲れたりするタイプのクルマでは全くない。

この「快適」さはけっして「楽しさ」を潰した結果得られたものではないことを、2泊3日800キロのドライブで再確認しました。

加えて、無段変速のCVTは、本当に秀逸。一部のレビューでかつてこのチェーン駆動型CVT固有の高周波音が気になると指摘されていたが、耳を澄ませてみても、それらしい音には未だ出会えていない。
一つだけ付け加えておくと、気のせいなのか個体差なのかも分からない程度ではあるのだけれど、回転を落としたときに、プログラム側の問題なのかハード的なものなのか(挙措はあきらかにプログラムの迷い、と見えるのだが)、回転をひたすら落とすだけではない逡巡の動作を見せる一瞬が、速度を下げる時に特に感じられたことを指摘しておきたい。でも、それはほとんど気にならないレベルの話だ。お任せで、良い感じに仕事をしてくれます。

聞けば、レガシィは20年ぶりの新エンジンを2012年(今年)夏には搭載してマイナーチェンジをするとか。
家族や仲間と、あるいは遊び道具を積み込み、長距離運転をして遊びに出かけ、そして運転の楽しさも味わいたい、という人にとっての「道具」として、これ以上のものはたぶんないんじゃないかな。

レガシィはとっても高度な技術で、こちらの運転技術を越えた「上手」さを与えてくれるクルマです。
へたくそな私でも、確実にコーナリング速度が人生史上もっとも高くなりました。

クルマの「力」によって、高いスピードでフラットに曲がれてしまうこの感覚は、たぶんレガシィだけじゃないかなあ。
クルマをいじるにも、緩さよりはストイックさをクルマが求めてくるような気がします。

ロードスターも、初めて乗ったときは「こんなに曲がれるクルマは乗ったことがない」と感激しました。
がむしろ、ライトウェイトスポーツという側面でいえば、運転者の力量に応じて楽しませてくれるクルマ、というべきでしょう。
自分でおもちゃをいじって遊ぶ感覚、かな。

個性と出会うことは、それがたとえクルマであっても、哲学者のテキストを読むのと全く同じように大切なのだ、とつくづく思います。
いや、哲学者のテキストであってさえ、クルマの快楽と同じように大切なのだ、と逆に言うべきでしょうか。

いずれにしても、「楽しさ」に到るまでには、いろいろと迂路をウロウロしてああでもないこうでもない、と迷ってみることも大切だ、ということかもしれません。

最後にちょっと文句を一つ。

北米向けの大きなキャビンサイズとか、燃費重視の機構(燃費計とか平均燃費表示とか、SIクルーズとかも実はスポーツ走行をチョイスできる、というより、かつてはスポーツ走行一辺倒だったレガシィから、燃費に配慮できる「遅い」モードも加えました、ということだと私は思います)とか、レガシィの走り=個性を支えていた部分を「ネガ」として潰した結果、骨格の個性はきちんと消えてはいないのに、ドライバーにまっすぐメッセージとしてその「個性」が伝わらなくなってしまった恨みがやっぱりあるのではないでしょうか。

2泊3日のドライブで、その表層と深層の両方をようやく味わうことができてホッとしています。

と同時に、やっぱりクルマ自体が、かなり快適側というかDセグメント生き残り側に振った設定になってしまっていて、足回りの良さというかクルマを操作する魅力は、かなり意識して運転しないと素性を明らかにしてくれない、ということが、不安を増大させた原因だと感じます。

ツンデレじゃないけど、しっかりその素性を確かめて味わえば、新型レガシィ、なかなか、です。
っていうか、かなり「いい感じ」だと思います。

洗練された元フレンチシェフの、定食屋さんセットメニューのごときレガシイ2.5i。

腕は勿体ないほどだが、やはり旨い。
ここにこんな値段で店出してていいのか、でもコストパフォーマンスがいい。
このトンカツに謎のソースのこだわり。
つじつまあってるみたいなあってないみたいな、庶民的みたいな高級みたいな、みたいなみたいな、ね。



レガシィ納車!(その3)レガシィの楽しさはどこにある?

2012年04月02日 23時00分47秒 | クルマ
Fun To Driveはどこへいった?

今朝、フィットシャトルハイブリッドが3月下旬に納車になったばかりの同僚が

「なんだか楽しくないんだよね、運転が。結局これって、普通のクルマなんですよね」

と呟いていた。

我が意を得たり、と思った。

彼はMR-Sを下取りに出してフィットシャトルハイブリッドを購入したのだが、MR-Sに乗っていた10年間は、それが当たり前だと思っていた、というのですね。

屋根が開いて、軽くて小さくて、クルマを「操縦」する楽しさに溢れている。
でも、それは当たり前にどのクルマにも付いてくるものじゃあなかった。

私も、レガシィに求めたのは、ロードスターに求めるものではないもの、むしろ正反対のロングツーリングの安心感とか、疲れない感じとか、AWDがもたらす全天候対応の足回りの確かさとかだったはずだ。

でも、それでもついつい「クルマを運転する楽しさ」という贅沢に身体がなじんでしまっていて、「あれ?あれ?」と思ってしまうのだ。

31日の日曜日、松島観光をして、志津川に到着するまでは、その違和感が続いてような気がする。

その現行レガシィにロードスターを求める勘違いから脱して、その魅力に気づくためには、やっぱりワインディングを走らねばならなかった。

p.s.
旧レガシィファンが、新型発表時に口を極めて罵っていた(ちょっと言い過ぎかもしれませんが、そんな感じでしたものね。実際の営業はそんなに悪くなかったと思うけれど)気持ちが、とてもよく分かるようになりました。

このレガシィは良いクルマなんです。

でも、あの「運転の楽しさはどこにいっちまったの?」と言いたくなる。
「スカイラインもアコードもアテンザもどんどん大きく欧米仕様になっていった。レガシィよ、お前もか?!」と嘆きたくなる。

ロングツアラーとして、大きいことはいいことなんじゃない?ゆったり乗れるならそんなにタイトな乗り心地じゃなくても、いいでしょう。ジェントル志向結構。Dセグメントを意識した?結構……なんて思っていた私でさえ、実際長距離をやってみると「あれれ?」と思うのだから、これは無理のないところだったのだと思います。

レガシィ納車!(その2)個性が見えない!

2012年04月02日 12時57分55秒 | 大震災の中で

さて、走り出してしばらくの間、車の性格が掴めずに戸惑う。

自分であれほどじっくり考えて、試乗して、調べて購入を決めたはずなのに、いざオーナーになって運転し始めたら、乗っていてどんなクルマか自分でよく把握できないのだ。

こういうことは今までになかった。

30年前、初めて買ったファミリアの初代FFはノンパワステの操舵感がきわめて重く、感触がダイレクト。しかもいかにもFFらしい前で引っ張る感触が強烈だった。

アコードセダンの時は、リトラクタブルヘットライトのギミックと、ダブルウィッシュボーンの乗り心地(微妙に後ろの席は酔いやすかった)が印象的だった。普通のグレードだったから、ブレーキは意外にプアーだったが。

エスティマエミーナのディーゼルターボは、そのトルク感とスムーズさ、意外な回頭性のよさに最初から惚れた。

ヴィッツは乗った瞬間には「これだ」と思わせる新鮮な驚きがあった。

ファンカーゴは、ヴィッツのネガを消して、後部座席が完全フラットになる機構が面白く、二人乗車ならワンボックスワゴンにも匹敵する積載空間があった。

マツダロードスターは言うに及ばない。屋根が開けばすべてが許せる、そんな圧倒的な幸福感をたった数分で与えてくれたのだから。

ところが、このレガシィ2.5iのツーリングワゴンは、乗った瞬間、極めてジェントルで自然過ぎ、何の印象も残らないのである。

いわゆる個性的なクルマが好きな人にとってはむしろ困惑するというか、かつてカローラやコロナがそうであったような無色感を感じてしまった。

そんなはずはない。試乗でもたしかに
「大人=快適=ロングツアラー」
の感触はあった。
しかし、とにかくスバルなのだからもうちょっと何かあるはずだろう!?

燃費計に刻々と表示される数字は確かに面白く、それを気にしながら渋滞を10分ほど高速に向けて走っていたら、しまいに自分を見失いそうになった。

せっかくレガシィを買ったのに、気に入ったはずのそのクルマの個性が把握できず、なぜか燃費を気にしているオレ……。

どうかんがえてもポイントはそこじゃないだろう!

「ヤバい!これは300万円近くも出して、やっちまったのか?!」
私が買いたかったのは安価なクラウンエステートワゴンの末裔ではないのにっ!

そんな恐怖が一瞬頭をよぎった。