龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

朝市の醍醐味(週末、八戸にいってきた)。

2012年10月29日 01時27分19秒 | 大震災の中で
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目的は、朝市。
日曜日、八戸の漁港に東北最大級のが立つ、というので行って見た。

朝市だから、時間も
「日の出から九時まで」
6時半ごろに市場に着くと帰りの車と市場に入る車で一番ごった返していた時間だった。

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ぐるっと回って見ているうちに2時間ぐらいはかかってしまう。
八戸の台所って感じかな。他に「八食センター」というところもあるけれど、こちらは観光用特産品という感じ。
この八戸漁港の朝市は、本当に市民の台所だ。
車もその多くが八戸ナンバー。他県というか他地区の車は少数だ。青森ナンバーと、岩手ナンバーがチラホラあるだけ。

今はとにかくリンゴの季節。様々な種類のリンゴが、お魚と隣り合って売られている。

テイクアウトの食べ物もたくさんあるし、テーブルと椅子も用意されている店もある。

中でも特徴的だったのは、天ぷら屋さんが沢山お店を出していたこと。純和風テイクアウトですね。
サツマイモやエビ、かき揚げなどを揚げたてで食べるのは文句なく旨い。もちろんギョウザも鶏の唐揚げも、串刺しの焼き魚も、立ち食いそばも、きりたんぽも、焼きそばもピザも、草餅も、コーヒー屋さんも軒を並べている。

街中のお店が結構お店を出しているのも特徴的だ。
夜街中で見かけたピザ屋さんとか、街中珈琲店が出店してる。
パン屋さんもかなりの数が。

本当に八戸市の台所、なんです。

加えて、
「コーヒーちょうだい」
「ああ、お金いいからあんだんどごの花持ってきて」
と、お店の人同士の物々交換も!
市場だなあ、と一人で納得し、また感動していました。
リンゴを買うにも、餅を買うにも野菜を買うにも、それを作った人のごっつい掌を介してお金のやり取りをする。
リンゴなんて木箱でならんでたりしてね。

モノとお金と人の集散地、というだけのことなら、デパートだってスーパーだって同じこと、とおもってしまうかもしれない。

でも、僕たちはもう、それが実は決してこの市場と同じではないことを、身に染みて感じている。

六ヶ所村の処理施設とか、大間の原発とかを抱えている青森県は、昨日までの福島よりも、こういう自然からの恵みを直接交易できている分だけいざとなったらダメージが深いだろう。

いや、そんな脅しみたいなことがいいたいのではない。
こういう市が立つ場所、サバやイカが旨い場所、りんごの品種が沢山好みで買える場所は、とってもとっても貴重なのだということがいいたいだけだ。

漁業も農業も、高齢の人たちが支えているから、今の青森は豊かだけれど、あと二十年経ったら限界をたやすく超えてしまうよ、と、弘前の人からうかがったことがある。

そうかもしれない。

原発事故は、経済の立ち行かない地方のほそぼそとした一次産業の地区(いなか)をまず襲うことになるだろう。若者が残らない、という現実は、大災害や原発事故の前からの課題でもあったしね。
それだったらせめて原発があるうちは喰える、という(身も蓋もない話ではあるが、切実でもある)計算だって成り立たないわけではあるまい。

でも。

それでも、ものには順序ってものがあるし、大切さの順番もある。ソロバンに乗る話と乗らない話もあるし、それよりなにより、この市場(いちば)の豊かさを、私たちはもう少し真面目に考えておくべきだろう。

そう考えてくると、顔の見える「交易」の醍醐味に、実はもう私たちはとっくに気づいているのではないか、という気もする。

道の駅の流通が、既にコンビニに匹敵する、という記事を去年読んだことがある。

こういう市民に開かれた市場は、その流れでイベント的に見直されて来てもいるのだろう。多分八戸のこの日曜市だって、
市民の台所+観光資源

として期待されつつ、イベント化されてもいるのに違いあるまい。

私たち福島の民が、こんな風にすぐ市場で生鮮食料品を開かれた形でお客さんに提供し、自分たちもまたその豊かさを享受する、ってわけにはいかない。それはすぐには無理だ。

それでも。

海の幸も山の幸も、流通を封じられ、厳しい制限ををかけられてなお、それを人々に手渡したいと福島の私たちが願う以上、こういう市が立てられないと嘆くのではなく、どうやったら顔の見える豊かな「交易」が可能かを考えて動き始める必要があるだろう。

それはきっと、言葉においてもどこか共通した側面を持つのではないか。

これからは力の限りライブに生きる、と宣言した江戸っ子の山下達郎の気概と、同じ時代を私たちは生きているのだと、つくづく思う。

そのライブの鼓動が、市場には充溢していた、ってことでもあります。

ちなみに私は、リンゴを7種類(こんなにいろいろなリンゴを選べるなんて豊かな体験ですよねえ)と、長芋にインゲン(いつも買う値段の半額以下かな)、それから、ガラクタオモチャを売る店から、サンダーバード2号を掘り出して帰って来ました。

ついでにいえば、初めての市場体験は、エジプトのカイロのスーク。得体の知れないお店の人が、深い深い通りの奥まで無限に続くあの不思議な魅力。
人とモノが互いにであう、エナジーが渦巻いている場所でした。








メディア日記に『スピノザ入門』第7回(その2)のメモを書きました。

2012年10月23日 01時40分38秒 | 大震災の中で
メディア日記に『スピノザ入門』第7回(その2)のメモを書きました。

http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980396

スピノザは、存在はそれだけで完全性を備えていると考え、善悪の彼岸に立つのだが、その完全性には「度合い」があるという。

その独特の二段階の感じを味わおうというところが大きなポイントの一つです。

この存在はそれだけで完全性を備えている、っていうのは「神様」に通じる考え方ですよねえ。

でも、その完全性には度合いがあるんだっていうんです。

軽い相対主義というか、単なるなんでもありの汎神論とはこの辺りから違ってきます。面白いところに差し掛かった感が。

生態学的っていうところといい、具体的なことを想定しつつ、の合理論だというところといい、そういう微妙な筋道を丁寧にテキスト読解をしつつ整序してくれるこの國分センセの講座は、だから、興味深い、のです。

その3の部分がまた興味深いのですが、それはまた明日。




松たか子『ジェーン・エア』たぶん2009年の公演かな

2012年10月22日 23時24分34秒 | 大震災の中で
松たか子のミュージカル『ジェーン・エア』YoutUBEの画像。
このミュージカル『ジェーン・エア』の演出は『レ・ミゼラブル』もやってる人なんですね。
終わってきてからじわじわよくなってきました。

秘めた力

http://www.youtube.com/watch?v=Gl9JjbCSs7w&feature=related

松たか子、旬だなあ。

2012年10月21日 16時27分17秒 | 大震災の中で
松たか子の『ジェーン エア』を観てきた。
舞台上にしつらえた特設のステージでの観劇は始めてで、それだけでもおもしろかったが、

『ジェーン エア』

がこんなにキリスト教満載とは知らなかった。
というより、今までは、キリスト教の描写があってもそれは「時代考証」と場面設定としか考えていなかったから気にならなかったのかもしれない。

こんなにキリスト教的なはなしだったとは!

途中、家庭教師のジェーンが、フランス生まれの貴族の女の子にラテン語を教えるシーンがあって、格変化の暗記を子供がさせられるっていうのに思わず笑っちゃいました。
ヨーロッパの人にとってはラテン語の文法学習が、日本人にとっての英文法学習の無味乾燥さに相当する(っていうか、メソッドがもともとラテン語のそれ、なんだとか)って感じがよくで出ておかしかったです。

それはさておき、松たか子はすごいなあ。だってね、素敵なんだよこれが。美人とか、きれいとかかっこいいとか、なんかそういうのがどうでもよくなっちゃう。
大竹しのぶは正気を超えてる。天海祐希は男前、菅野美穂はあの存在感、でも松たか子は、なんていうか、文句なく素敵。

同じ時代に生きていることに感謝、です。


國分功一郎『スピノザ入門』第7回メモ(その1)を

2012年10月21日 11時53分09秒 | 大震災の中で
メディア日記に書き込みました。


http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980395

<スピノザは考え方のフォーマットが(現代の私たちとは)違う>

と始まった講座が、いよいよ『エチカ』にたどり着きました。

よろしければごらんくださいませ。
個人的メモですから、間違いは多々あります。そこのところはよろしくです。


昨日書いた理性=合理性に基づく演繹的記述(と見えるもの)が、決してそれだけではなく、いよいよ直感的な「知」をはらんで立ち上がる予感(^_^)/に満ちた講座です。

なんのことだ?

ですよね。

でも、すごくスリリングです。

センセの言葉でいえば、新しい言葉を作るのではなく、今まで通用していた言葉の意味を解体(脱構築といってもいい)して、その言葉は保持しつつ、なお新しい意味を再編制していくスピノザの言葉の歩みを、丁寧なテキストクリティークによって露わにして行くワクワク。

スピノザは合理主義だ、ともいわれ、無神論者だともいわれ、神秘主義的な側面もあり、神即自然とかもいわれ、個人的には、よく分からないのに惹かれる、という状態が続いていたのだが、その思考の軌跡=痕跡が、ようやく整序されて丁寧に示された感、があるのです。

『エチカ』はよく神から始まる精神の自動運動の記述、みたいにも言われ、なるほどだからモードが全然違っていて分からないのか、と一瞬納得してしまいもするのだけれど、単にそういうことではなく、その「理性的」というか幾何学的様式の記述がなぜ必要とされるのか、その前提にある「知「のフォーマットが理解できはじめた、ということです。

いきなり「神即自然」じゃないし、いきなり神からはじまるわけでもない。
個物の完全性と、世界の完全な秩序をどう捉えるか。
神についての論述が、そこを教えてもらった途端に身近なモノに感じられ始めました。

それを捨てて密教的に「分かる人には直感される」といって悟ったりはしないのですね。
いわゆる東洋的な
自然=神
とも違う。

理性的な説明だけでは足りないのであって、「分かる時には分かる」。
だから、前半の読みにくさは後半の呆気ないほどの読みやすさ(分かりやすさと同じではありませんが)と合わせて考えねばならないのでしょう。

個と世界が向き合う孤絶した臨場感、とでもいえばいいのでしょうか。

よく素人のスピノザファンは、スピノザという孤高の哲学者というイメージを消費しているだけだ、みたいな言い方をする人がいるけれど、それは哲学者の「文体」っていうことをよく理解していない「哲学プロパー」の誤謬じゃないかな。

それを、逆説的ではあるけれど、何よりもよく「読めない」文体が示している。

「直観知」

にたどり着くためにこそ、テキストに沈潜しなければ見えてこないものがあるっていうことであって、その逆ではない(ここ重要です)。

幾何学的様式を、どういう「知」のフォーマットの中に位置づけるか、っていう問題意識の有無といってもいいでしょう。

哲学の講座でそういうことを教わるって、凄くないですか?
だいたい哲学を「教われる」ってのも凄い。

その場で哲学のテキストを「読む」行為をするってことですからね。解説じゃなくて。

國分功一郎センセの講義の魅力は、そのテキストクリティークの魅力で「も」あるのでした。






スピノザ『エチカ』が読める、ということ。

2012年10月20日 14時23分05秒 | 大震災の中で
今、國分功一郎センセの「スピノザ入門」第三期講座の第一回について予習をしている。
いよいよ『エチカ』である。

これが驚くべきことに、なんと冒頭部が「読める」ようになっている。

まあそれはモチロン気のせいかもしれないし、あるいはまた私の持論である「50才過ぎ現象」の痴呆開始効果によって、余分な要素がしだいに失われつつあり、その結果、すべての要素に目移りしてしまう眼球運動に囚われることなく、凝視しようと希望する実体の像が、痴呆が進行する途中の瞬間に、(これまでの人生の精進に応じた)鮮明さで「今」立ち現れている、というだけのことかもしれない。

だが、これはそれにしても、スピノザ示すところの
「分かる人にはわかる」
現象でもあるのではないか、と、
ちょっと思ってみたくもなるような鮮明さ、で「読める」のだ。

何が分かったかって?

そりゃあ、分かる人には分かるのさ(笑)
といってはお終いですね。
つまりね、読めるようになった理由はたぶん、この演繹的に神から始めるという叙述へのこだわり、の気配を、國分センセの講座でかんじられるようになったからじゃないかな。

そしてなにより肝心なことは、それがテキスト外部の物語によってではなく、徹底したテキストの批評においてその教育がなされた(私=foxydogの上に!)という点だ。それは畠中尚志の前書きが読める、ということでもある。

だいたい以前はそれも読めなかった。

モチロン、21世紀から読む『エチカ』は、言葉の意味が分からないだけではなく、根本的に「ことば」「表現」に対する態度が違い過ぎて、素で読むと本当にがっかりするほどイライラすることがある。
でも、実有とか、実体とか、属性とか、様態とか、それが向かおうとしている方向が少しでも感じられると、急に霧が晴れてくる(ような気がするだけかも、というのはデフォルトとして)。

可能性条件の設定の身振りの気配を、脳みその裏の方で感じつつ読む、とでもいえばいいだろうか。

「幾何学的な証明」

とかいうことについてはサッパリ分からないままだけれど、単なる自動機械的な演繹の身振りが、ぐっと身近に感じられるようになった。

断っておかなければならないのは國分センセのコトバが、そのエチカの叙述の「読み」の瞬間に、そのテキスト自体と響きつつ誘うって感じなのであって、どこか別のところに説明の補助線があって、それが内容を説明している感じではない、という点。

さて、では7回目のレポートはまた後ほど、メディア日記に書きますね。




久しぶりの電車。

2012年10月20日 10時18分35秒 | 大震災の中で
久しぶりに電車を利用している。

もしかすると震災以後、初めて電車に乗ったのかも知れない。

考えてみるとこの一年半というもの、青森から京都まで、どこへ行くにもクルマだった。

もともとクルマ好きということもあるし、震災後は高速道路の料金が安いということもあり、かつまた一人で移動するということがなかったということもある。

一人旅だと電車の方が概ね安価だ。

今気がついたのだが、クルマを一人で運転するときは、コトバから離れることになる。瞬間的無人島ですね。

それに対して、対話の相手がいれば、クルマはさらに楽しくなるし、いざとなったら運転を代わってもらうこともできる。
あるいは、電車なら文庫本一冊あればコトバの中に埋もれながら居眠りもできるだろう。

クルマの一人旅はそれができない。
音楽を聞くか、運転それ自体を楽しむか。

どうも、震災前は外側に言葉のない瞬間=空間を、これほど畏れてはいなかったような気がする。

しかし、震災以後は、常に他者のコトバに触れていなければいられなくなった。

勿論、おしゃべり中毒活字フェチだから、震災以前だって言葉に触れていなければいられなかった。

いわゆる、ひとりで食堂に入って、本が手元にないときはお醤油の瓶のラベルでも読んでしまうってヤツです。

ただ、今までは、平面的な滑走というアクションの中で、表現を次々に横にズラしながら、擬似的な瞬間的無人島としてのクルマの中で、外界とは運転情報という限定されたインターフェースでだけつながり、頭の中でことばを消費し続けていればよかった。いや、ソウイウカタチデシカ言葉を「消費」する術を知らなかったのかもしれない。

今は、どこかで「裂け目」のしるしを探している。

探しているモノが、探しても届かないモノではなく、届くまで探すことになった、とでもいおうか。

いや、届かないんですがね、相変わらず(笑)。

一人ではなくなった、ということか。
それともひとりをようやく自覚した、ということか。


クルマを走らせている時間が足りないという現実的な多忙さ、もあるにはある。

クルマを運転し続けて、どこでもない瞬間をひとりでなぞることはなくなった。ゲームができなくなってしまったこととも関係があるのだろうか。
まあ、50才過ぎてオンラインゲームとかやってる残り時間はないんですが。

でも、これは残り時間の問題だけでもなさそうなのです。

どこでもない時空は、もはや、クルマを駆らなくてもそこにある。

そこを覗き込むのは、いつも「他者」と共にでなければなるまい。
そうでなければ、見る意味もない……

そういう感じ、でもある。

古典に関心を持つようになったのも故なしとしない。

一読しては意味の分からないような古典テキストを読むとむしろ安心する。

瞬間的なはやわかりをしなくても、もういいのだ。

とらいえ、全く読めなくては仕方がない。そういう意味で協同する人や先達は必要だ。

孤独が深まったのか、抜け出したのか分からないけれど、ちょっと面白くなってきたような気だけはしている。

相変わらずこうやって電車から車窓を見ながらメールを書いていると、またクルマに乗ってこの線路から外れたくなるんだけどね。

クルマは自分になれるけど、電車は自分じゃないから。

身体的「重心」の問題、でもあるかな。

この項は圧倒的に宿題。




ロードスターが帰ってきた。

2012年10月16日 00時25分34秒 | クルマ
3週間ほど知り合いに貸し出していたロードスターが戻ってきた。

その間レガシィだけを乗っていた。
その時はむしろ、ロードスターよりもゆったり乗れて疲れないし、これで充分かとも思った。

しかし、ロードスターが戻ってくると、こちらのほうに乗りたくなる。運転していては面倒も多いし疲れると言えば疲れる。
何せレガシーはアイサイトで前の車に追随してくれるし、危なくなればブレーキも踏んでくれる。無論、過信は禁物だが、楽ちんなこと甚だしい。

でも。
その疲れると言えば疲れる運転がまたしたくなるのがロードスターなのである。

運転してきていちにちが終わり、車を車庫に入れて扉を閉じた途端また乗りたくなる。
ロードスターはそーゆー車だ。
車はガタピシいうし、燃費も悪い。足回りも8万キロを走っていささかへたってきた。

それでも屋根を開けてハンドルをいちど切れば、それだけで楽しいドライブが始まるのだ。

正直疲れているとシンドい。安楽な車が恋しくなる。
でも、翌朝にはこっちに目が行ってしまうのだ。

アウディとボクスターに乗ったつもりで、廉価版のレガシィとロードスターに乗るんだ、と自虐めかして言ったりするけれど、実はそういうものでもない。

工業製品なのに愛が芽生えてしまう不思議さ。

それは単なる物神化ではなく、道具が生きることの相棒にもなるということかも知れない。


現行C型レガシィNAの走行距離が2万キロ超えた。

2012年10月16日 00時09分10秒 | クルマ
レガシィの走行距離が2万キロ超えた。
(ツーリングワゴンC型NA2.5リッターのノーマル足です。)

トータル燃費は12.8km/l。
なかなか悪くない数字である。かつてのレガシィから見たら夢のような高燃費だ(笑)。

しかし、先日急ぎの用があって少々スピードをあげて、いわき-福島間を走行した。
目一杯とまではいかないが、かなり飛ばした。
すると高速で伸びるはずの燃費が10km/l程度。

普段燃費に気を遣って高速を走ると13.5km/lはくだらない。
うまくいけば15km/l位は出る。
そうやって高燃費の走りを心がけてきたわけだが、走り方によって燃費は簡単に変わる。

当たり前のことだが改めてそう気がついた。

そういえば、先日プリウスを持っている友達と酒を飲んだ。
乗り心地はよくないし、走行音もうるさい。
しかし。遠出をしたときに燃費が25km/lも行くとなると、リッター15キロ程度の車にはなかなか乗り換えられないそうだ。

それもそうだろうと思う。

私がレガシィツーリングワゴンを選んだのは燃費の面からではなく、当然のことながら四駆であり、荷物が積め、長距離走行に向いていると考えたからだ。
ロングツーリングの足としては、申し分ない。ビルシュタイン足はだんだん欲しくなってきましたが(笑)。
福島ー京都往復とか、福島ー青森往復とかしても、疲れはロードスターよりずっと少ないし、燃費もいい。

無論コストパフォーマンスを考えれば、軽自動車が1番に決まっているが、遠出はしんどかろう。
220万円~230万円あれば、アクアかフィットハイブリッドが新車で買える。
そしてこれらなら200~300kmのドライブは軽くいける。
だが、1000kmとなるとどうか。
ベンツCやBMW3は初期投資も高いし、維持コストは嵩む。

要は用途と優先順位の問題だ。

同僚のプリウスαは320万円。
レガシィ2.5NAは290万円。差額の30万円を燃費換算すると、まあ結構乗れるともいえる。

車体が大きいのは、人を載せて真っ直ぐ遠くまで走るにはむしろいい。
ベンツに比べて足回りが繊細な感じがしてしまうのが唯一不満といえば不満。あのドッシリとした高速の安定感は、少し羨ましい。
でも、AWDの安心感はむしろ上。
結局、技術を意識させない「自然さ」まではいまひとつ。

そこがまたスバルらしいといえばらしいのかな。
いささか信念をもって?技術的にやりすぎてる感触とでもいえばいいか。
今レガシィに足りないのは明らかに「動物性」だろう。

一方、レガシィファンには怒られるかもしれないが、走りはロードスターの方が動物的でずっと楽しい。
私は個人的にそこはマツダロードスターで補完するからいいのだけれど。
でも、インプレッサがいい感じだし、BRZもでたし、「動物性」はそこで確保すればいいということか。
でもなあ。それはもっと大きな会社のやり方じゃないかしら。レガシィは作りすぎの感じも。

まあ、なんだかんだいってもレガシィに乗るとロードスターにのりたくなり、ロードスターを乗っているとレガシィにのりたくなる。
ロードスターもゆったり乗るし、レガシィもゆったり乗るんだけど、リラックスの場所が違うから面白い。

技術における人間性と動物性について考える上でも。


音声入力の凄さ3(iOs6)

2012年10月09日 02時05分18秒 | iPhone&iPad2
しかし、これだけ入力が便利になると、のべつまくなししゃべり続けた物をアップロードしてしまうのではないかという危険を感じる。
誰も聞きたくない実況中継のようなものだ。

しかしそれほどの快適さを、この機能は持っている。
第一、キーボード打つよりずっと楽なのだ。肩がこらない。寝転がっても打てる。いや打てるではもうないのだね。
アイフォン4はまだ地図が満足に機能していないと言うことなので、 OSをアップグレードしていないが、この機能があるとするならば、アイパットの重さから比べればiPhoneは片手で持てる。
完全に、寝転がりながら文章が作れるということだ。

アプリケーションのディクテーションソフトとは違い、 OSレベルで直接入力ができるのはとてつもなく便利だ。
あ、これはiPhone5じゃないと対応していないのかなぁ?


音声入力の凄さ(iOs6)

2012年10月09日 01時52分42秒 | インポート
この文章は文字通りつぶやきながら入力している。これがなかなか正確なのだ。
今入れた正確だけは選択が必要だけれども。「」 。などもそのまま入力できる。
これは、慣れてくるとiPadでガラス面の擬似キーボードを叩いて入力するよりも便利かもしれない。
siliという音声ガイダンスはあまり使い物にならないけれど、このディクテーションソフトというのかな、しゃべったままメールの本文を入力してくれるソフトはなかなか快適です。
本当に、静かな所で入力できるのなら、キーボードよりも思考を妨げずに書ける分面白いかもしれない。
ただし、喋るほうがいいのか、キーボードのほうがいいのか、はたまた、手で書いたほうがいいのか、にわかには決めがたいところでもある。
うわー、でもこれだけのものがしゃべっただけで入力できるとなるともはやこれからは、こうやって喋って入力するようになるんじゃないかなぁ。
ちなみにこれはiPad ios 6の機能です。


音声入力の凄さ2(iOS6)

2012年10月09日 01時46分54秒 | iPhone&iPad2
以前、ドラゴンディクテーションというソフトの入力変換率の正確さに驚いたことがある。
このiPadの新しいOSはキーボードにマイクの印が付いていて、それを押すと、喋り出せば自動的に変換されるようになっている。
ちょっと複雑な表現をすると、ついて来れないということはもちろんある。例えば「改行する。」とは入力出来るが、
カイギョウとだけいうと行が変わってしまう(笑)。

しかし、とにかく面白い。こーゆーものは、速度と正確さの兼ね合いなのだろうな。

ちょっとぐらい違っていても、面白い表現として何とか意味を組んでくれようとするところもなかなかに可愛い。
どうせキーボードで打っても、結構修正は必要なものである。

だとするなら、こうやって喋っていってからちょっと直す位のつもりで入力するなら、むしろこの方が効率が良いかもしれない。

昔ペリーメイスンシリーズを書いたE.S.ガードナーが、ほとんどテープに入力しそれを秘書が文章に起こしていたと言う記事を読んだ記憶がある。
こう言うディクテーションソフトを使うと、いつも小学校の頃読んだガードナーのことを思い出す。
口述筆記というやつだ。うわ、口述筆記も出た(笑)。

ちょっと前まで、メールを音声入力でなんて言うのは馬鹿馬鹿しいと思っていたが、そのまんまこうやって入力できるのだから、馬鹿馬鹿しいなんて言っていられない。

実は300人分の作文をどうやって入力しようか考えあぐねていたのだが、このソフトを使って入力を始めてみようかと真面目に考えている。こりゃ、いけるね。

あとは、雑音にどれだけ強いか弱いかが勝負どころかもしれない。
もう一つ、考えなければいけないことがあるとすれば、できるだけ同音異義語を使わないことかな。

おっと、堂本異義語、同梱偉人を、どうp5、どーん異義語……なんとしても「同音異義語」が変換できない(爆笑)。
同ω異義語、同音異議語。
をを、ゆっくり喋ったら、 6回目でクリア。

別のゲームのルールになりかけている。



219歳の週末

2012年10月08日 23時54分43秒 | 社会
週末、85歳の伯母と80歳の母を連れて温泉旅行をしてきた。
総勢219歳のお泊まりである(笑)。

松島の海は穏やかで部屋の眺めもよく、露天風呂からも松島のパノラマが一望できる、すこぶる快適な週末だった。
とはいえ、高齢のお二方ゆえ、「歩く」ことが既にもう大変な難事業。

一人は車椅子、もう一人はその肘掛けに掴まりながら杖をついて歩くという状態でお風呂場に向けて部屋を出発したが、ときどき休まないと歩きの方の足が限界になってしまう。

タンデム走行可能な(つまりは165歳を縦に並べて押せる)車椅子が欲しくなった(笑)。

しかし、足下はおぼつかないが口元は元気である。
合計165歳トークは、対象の生死老若男女を問わず冴えわたる。
戦前のことから昨今の近所の噂まで、あっという間に瞬間移動しながら話は止まるところを知らない。
超高速連想ゲームに付き合っているかのようだ。

血圧が高かったり、歯がなかったり、足が悪かったり、ガンを抱えていたり、血糖値が高かったり、耳が遠かったり、それはそれは薬を飲んだりさまざまな道具を使ったりしなければならない状況だ。

だが、3人が口を揃えて同意したことがある。
それは、補聴器のありがたさだ。

眼が見えなくなればだれでもコンタクトレンズか眼鏡を掛ける。
ところが、それに比べると人は一般にまだ耳が遠くなることに対しての意識が相当程度低い。

実は、耳が遠くなると、世界の「気配」は耳が聞こえていたときと比べて1/10ぐらいになってしまう。
「1/10」という数字には無論根拠はないが、かなり控えめに言った数字だ。
「1/100」といってもいいぐらい、それはそれは大変なハンデになる。
それなのに、年寄りが嫌がる・面倒がるといって補聴器を強く勧めない若者は多い。
そして年寄りもまた、生活を縮小していく「覚悟」をすればいい、と思って、補聴器の装着を真剣に考えない。

だが、たとえばこの219歳サミットも、補聴器がなければ成立しなかった。

どうか、身近に耳が遠くなった人がいたら、補聴器を強く強く進めてあげてください。
今の補聴器は、かなり性能が上がっています。
身近な人とのコミュニケーションの最後の砦の一つ、聴力が補えるのであれば、面倒がらずにチャレンジする価値はあります。

私は、父親が衰弱して無くなるまでの3週間、毎日彼を「観察」しました。
脳が決定的な損傷を受ける障害の場合は私には分かりませんが、そうではない場合、認知能力が低下することは、決してただちに知的能力の低下を意味しません。そこを勘違いしている人が結構いるかもしれない(特に若い人の場合)と危惧します。

先に衰えるのは、情報の出入力と処理の能力なのです。記憶であろうが、外部の情報であろうが、知的能力を司る意識にたどり着くデータが少なくなっていくのであって、核にある「意識」が混濁するのは最後の最後であるように思われます。

いや、厳密にいえば、入り口までデータは到達しているのに、肝心の知的処理能力が衰えている、ということももちろんありえます。私はその辺りの脳科学のシステムについては分かりません。

ですが、「意識」は、混濁するまでは空転してでも動き続けている。
刺激を与え続け、それを肯定的に処理できる環境があれば、次第に全体的な能力が失われていくとしても、それはよりゆっくりとより穏やかな変化に止まる。

少なくても、見ることや聞くこと(そして食べることも!)について、私たちは高齢の人の傍らにあって、よりその支援に敏感であるべきでしょう。

生きることは、外部とのインターフェスを整え、内部記憶とのインターフェースを整えて、環境と切り結んでいくことかもしれません。
ま、当然高齢者だけの問題じゃないんだけどね。

いろいろ考えさせられる週末でした。


大滝秀治、逝く。

2012年10月05日 21時28分57秒 | 社会
大滝秀治が亡くなった。
北海道で作られた(と思うけれど、舞台が北海道だっただけかもしれない)「うちのホンカン」シリーズ以来のファンだった。

「うちのホンカン」は、八千草薫が妻、仁科明子(当時)が娘役で駐在所勤務の警察官を大滝秀治が演じるという、これは私にとっては人生史上最高の配役の一つ(今でも!)。
三人とも大好きでしたから(笑)

これを超えたのは、ーこれも死ぬほど好きな役者、岸部一徳とのCM共演(キンチョウ)ぐらいかな。
偏屈だったり、真面目だったり、短気だったり、不器用だったりするのに、不思議な存在感がある彼の演技は、本当に得難いものでした。

最後に種田山頭火の芝居をやりたかったという。
これも好きな俳人。

見たかったなあ。

最後に見た新作は、刑務所内の中学校?の話。介護に疲れて妻を殺害した老齢の生徒という、やっぱり風変わりな役が素敵でした。
どの作品で観たかはあまり覚えてないのに、でもいつも映画やTVで見ているような印象がありました。

残念です。
でも十分仕事をされた、ということでお迎えがきたのでしょう。
これからしみじみ寂しくなりそうです。