龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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相対的貧困層のこと(オリンピックの最中に)

2012年07月31日 03時17分14秒 | 大震災の中で
村上龍の経済に関するメールマガジンを購読している(無料登録)。
JMM [Japan Mail Media] 『村上龍、金融経済の専門家たちに聞く』 

今日届いたテーマは「貧困」について、だった。ちょっと考えてみたいので、

そこに投稿されていた信州大学の真壁教授のコメントを引用する。
(引用開始)
貧困に関する定義は、それぞれに国や機関によって色々なものがあります。一般的
に使われる貧困層についての定義は二つあると考えます。一つは絶対的貧困です。こ
の定義は、1970年代に世界銀行が使い始めたと言われています。2000年代に
入っての定義では、年収370ドル(約29000円)以下、あるいは一日1ドル
(約78円)以下という絶対的な水準を設定し、その水準以下で生活している人を貧
困と定義します。

 もう一つは相対貧困という定義です。この定義は、当該国の国民全体の中での相対
的な評価によって貧困の概念を決めます。ですから、当該国の所得分布の中で、どこ
に位置するかによって貧困の状態を定義します。具体的には、その国の全国民の所得
から税金や社会保障費などを差し引いた可処分所得の分布を作り、その中間値の半分
に満たない人たちを貧困と考えます。

 厚生労働省が発表した「平成22年国民生活基礎調査の概況」によると、平成21
年の国民一人あたりの名目ベースの年収は250万円となっています。そのため同年
を例にとると、わがわが国では年収が125万円に満たない人が相対的な貧困という
ことになります。
(引用終了)

この定義によれば、ずっと指摘され続けていて根本的な解決をみていない「パート社員」の収入は、そのほとんどが相対的貧困の枠内に収まることになる。

ってことは、日本の子育ての中心的役割を担ってきた女性の再就職は、貧困層の収入しか得られないことが当たり前の状態で推移してきているってことだ。

世帯収入を考えるとことは単純じゃない、とかつては考えていたこともある。
でも、それは事実上男の収入に頼れっていう社会的シグナルに過ぎない。

若い男性に非正規雇用が増えたとたん、問題が顕在化しただけで、非正規雇用の問題はずっと昔から女性問題だったのだ、と上野千鶴子がとうに指摘している。

そういうことだ。

現在、自分の子供も、この貧困層のの中にいる。

無論、親である私たちの収入を「世帯」として括ってしまえば、彼の収入が「貧困層」にあることは当面、致命的な問題にはならない。
だが、私たちの現役収入が終わったとき、働かない老人の方が年収125万の貧困層にはならず、働いている若者(たとえば息子達)が貧困層になるという現実が我が家にもやってくる。

(年金開始も遠くなるから、間に無職が入ればそういう逆転は遠ざかりますが<苦笑>)


結局若者の層と、いったん仕事を止めて子育てに入った女性層が、この貧困層ど真ん中になる。

子育てシングルマザー(年齢不問)と、子育てシングルファザー(若い人中心)が、「貧困」な国=日本ということになろうか。

この状態一つとっても、日本は黄昏の国を生きていることが分かる。

「働かない老人の年金を削って、若者に収入を与えろ」
って単純な話じゃないけどね。
もうすぐ年金生活者になる自分の立場を考えたら、口を拭っていた方がいいのかもしれない。

でも、これはどう考えても「まとも」じゃない。

この「黄昏」感を醸し出す経済の現況は、単に「景気」の問題ではないだろう。

アメリカの相対貧困率が17%、日本の相対貧困率が14%と、先進国の中ではかなり高い。

貧富の差が大きくなりつつある現実は、収入だけじゃなくて、貯蓄とか資産とか、経済・社会システムが全として若者と女性を幾重にも「攻撃」しているように思われてならない。

原発反対の声を上げるように、社会的な「声」を上げて、変更可能なシステムの改変(それこそ政治が担うべき課題だろう)を求めていく必要がある。

結果の平等自体が必要なわけじゃない。

結果の偏りが、あきらかに社会的システムによる偏った結果としての不平等の再生産だから問題なのだ。

原発立地の問題も、米軍基地立地の問題も、実は誰が「損をこかせられるか」という「二流地域」探しの様相がある。

それを「国内植民地」といった概念で開沼博は示した。

同様に、国民において「損を引き受けさせられる」べき「二流市民」探しが放っておけば必ず起こる。
それが若者だったり、働く女性だったり、十分な年金のない国民年金オンリーの老人層だったり。

微細なところから大きなところまで「権力関係」が張り巡らされているのが近代以降のこの空間だとして、その歪みを引き受けるのは常に、政治的に立場の弱い者になる。

デモをやってる暇もない、ような人々。

でも、意思表示をすべき時が再びやってきつつある、とも思う。
かつての労働運動や争議とは違う形で。

世代間闘争(年寄りの年金を奪って若者にばらまけ的な)の問題(だけ)でもあるまい。
貧乏人の奪い合いほど、誰かを利するものはないわけだし。

今、宗教改革の辺りの社会思想の入門書をパラパラめくっている。
ルターもカルヴァンもクロムウェルも、教皇権力と王権、農民や商工業者、紳士階級、貴族など、さまざまな立場の政治や暴力や権力が渦巻く中で、生きていたのが分かる。

熱い。野蛮だ。
内戦や抗争で互いに全面的な血をみる闘争、から遠ざかって久しい立場から見ると、凄いとしかいいようがない。
でもまあ、日本の戦国時代あたりだから、そんなものなのか。

17世紀は、そういうすったもんだの末に神様が後景に退いたころ、即ち言ってみれば、宇宙の晴れ上がりならぬ「社会(民主的な)社会の晴れ上がり」の時期にあたる。

21世紀初頭の「今」も、欧米近代優位の「霧」が晴れ上がりつつある、と見てとれないこともない。
それはもう、社会のOS切り替えっていう大きな波として捉えるべきだ。

とすればバージョンアップで再加速を目指すのか、別のOSに乗り換えるのか。
私たちは社会的なOSを一人で創ることはできない。

でも、どのOSで自分を走らせるか、どんな「社会基盤」とか「ルール」で自分を「走らせる」か、は選べないこともない。

現状最適化を目指して「就活」や「自己啓発」をすることも「あり」だが、そこから降りてまったり「デモ」するのも「あり」だろう。

オリンピックの金メダル報道を観ていて、そんなことを思った。

女子柔道の57キロ級、眼光鋭い加藤さんが金メダルを取ったそうだ。
おめでとうございます。ロンドン五輪では初金メダルですね。

でも、金メダル取ろうが初戦敗退だろうが、大きなお世話なんだけどね。彼らは皆日本のトップアスリートだし、世界のトップ「クラス」アスリートであることも確かなんだし。

素晴らしい身体の「美」を豊かに味わいたいものです。

一時期、バブル崩壊してからは日本の応援も「緩く」なって良かった良かったと思っていたんだけれど、今回のロンドンオリンピックは、ちょっと息苦しさのぶり返しがあるようにも思う。
気のせいなら、それでいいのだけれど。

「黄昏」を生きる「鬱」な美学というか、スタイルも、(じいさん予備軍だから、かもしれないけれど)それはそれで大切じゃないだろうか。

でも、社会を半分降りようとしている「視線」から言えば、余計なお世話かもしれないけれど、この「相対貧困」の層を下支えする政策は、基地問題、原発再稼働問題と同じく、国の将来を左右する課題だと思うなあ。

人の力が社会の活力に繋がらないシステムだからダメなんだよね。
それは老若男女を超えた課題。

人の活力をどう社会システムに生かすか。

年寄りだって働けばいい。悠々自適に働きたい。
人生を半分降りる第二ステージの有り様を、社会は模索すべきでしょう。
社会は、とか他人事じゃなくて、私もまた、若者と子育て女性の「相対貧困」を前にして、どんな「働き」をすべきなのか、を問わなくちゃならんです。


週刊読書人の上半期収穫

2012年07月30日 20時16分14秒 | 書くことについて
週刊読書人の上半期収穫アンケートの中に
トマス・ホッブズ『哲学原論』伊藤宏之・渡部秀和訳(柏書房刊)
が挙げられていた。

ホッブズの研究者は論文書くより、『リバイアサン』以外の主著を訳してくれよ、と周りから言われていた、とのこと。
業界筋の話は知らないが、「我が意を得たり」といったところ。

序文に、21世紀初頭の今だからこそ、読まれなければならない、とある。

その通りだと思う。

私は「近代社会理論」なんかに関心はない。
ただスピノザが読みたい、読めるようになりたいだけだ。
でもそんな素人でさえ、この本の「価値」は分かる。

前のブログの続きになるが、優れた訳というのは、原著に対する明晰な解釈がなければならない。

無論自分勝手であさっての方角の解釈じゃ困る。
でも、現著者の抱える課題や、時代が抱える困難を踏まえた上で、なお、単に言語的に間違っていないのではなく、原著者と問題意識を共有した上での原文に忠実な「訳」が欲しいのだ。

もしかすると原著者さえも著作が完成するまでは輪郭をつかみ得ていなかったかもしれないような「世界像」を、こちら側の言語で、決して単に「代理表象」的に引き写すのではなく、もう一度その問題を日本語で生き直してもらわなきゃならない。

そうでなければ明晰な解釈にはならない。

まだ読み始めたばかり(っていうか1500ページもある哲学書だからいくら読んでも終わらないと思う)だが、その予兆に胸が震えた。

語学的な批判、哲学プロパーの側からの批評をぜひ聞きたいものだ。
でも、この素敵な感触は、じわじわおいしさがにじみ出てくるような気がする。








ホッブズ『哲学原論』渡部秀和/伊藤宏之訳の凄さ(2)

2012年07月29日 18時59分12秒 | 大震災の中で
翻訳のクリアさ、ということについてもう少し書いておく。

言い古された議論の方向に二つある。

一つは、翻訳は不可能だっていう話。
もう一つは透明なのがいいって方向性。

ただしここで考えるのは、哲学的テキストの場合に限る。

日常の会話レベルで言えばもはや多国語同時翻訳が携帯レベルで可能になっているから、問題ではなくなりつつあるだろう。

テツガクテキテキストとは、端的に言って、何かを説明したり証明したり啓蒙したりする種類のものではなく、むしろその逆に、自明性が高い、と無前提に前提されていることに疑義を提示し、答えがないどころか、問い自体が成立していない段階において、前提と答えを一挙に提示しようとする
「読めないテキスト」
のことだ、と取りあえず考えておく。

自慢じゃないが日本語しか操れない(それだって怪しいけれど)素人が、哲学的な思考をその本態とする本を翻訳で読もうとするときの、あのありえない感じを、私はもう何十年となく感じ続けてきた。

最初はこっちが頭が悪いんだろう、知識がないからだろう、と思う。

初学者なんだから当然だ。

それで「早わかり」の本を別途購入し、その著者の別の本を、最初の本が分からないまま(いや分からないからこそやむを得ず)渡り歩いて読んでいくことになる。

加えてテクニカルタームというか、業界用語がわからない。
時代が違うと字面は同じでも意味するところが違うことがあるぐらいは分かるけれど、そのあたり訳者がどこまで包括的に「理解して翻訳」してくれているのかも分からない。

もう、翻訳で哲学書を読むなんていうのは徒労なんじゃないか、としまいには思うようになるわけだ。

ま、それは多分一つの正解なのだろう。

そうやって、専門家の世界を垣間見ようとする人は、ドイツ語だったりフランス語だったり英語だったり、ラテン語だったりを学んでいくことになる。

哲学は語学かっ!?
半ばはそうともいえる。

でも、そこには陥穽が口を開けている。

素人だって本気で読みたかったら原典に当たる努力次第ぐらいはしてもいい。
それはそうだ。
早わかりばかりの人生は、暇つぶしとしても今ひとつ盛り上がらない=つまらないものね。

だが、では翻訳はデキノワルイ啓蒙のお先棒にすぎないのだろうか。
そうではあるまい。

自分がネイティブとして使っている言語に、その専門のテキストをきちんと翻訳して自国民にそれを提示し、批評を請うのは、プロパーとしての最低限の義務だろう。

そこで行われる実践に要求されるのは、単に右の言語から左の言語に同時翻訳する携帯の便利さのレベルではない。

自分がその著者の哲学と向き合い、自分の言葉でどれだけ突き詰めて向き合えるか、が問われている。

そういう意味で、今回のホッブズのこの翻訳が本邦初訳であるのは、渡部/伊藤両氏の大きな手柄であることは疑えないとして、ちょっと嫌味をいわせてもらうなら、在野の小学校教師(決して差別的な意味ではありません)の努力を待たねばならなかった日本の社会思想=哲学の人たちの怠惰ではないか、という疑いが拭えない。

力のあるものは、その力能を自分の業績のために使うべきではあるまい。
ましてや業界ギルドの都合で力の発揮される方向や人材が左右されるべき時代でもないだろう。

問題を元に戻せば、哲学書の翻訳は難渋を極める仕事であろうこと、想像に難くはない。

文献を渉猟して、関心ある主題を解釈する方がどれだけ楽か。

でも、実は、その哲学と向き合うには、まずそのテキストと向き合わねばなるまい。

そして、ネイティブではない<ラテン語とかネイティブいないしね(笑)>者は、自分の言葉でそれを捉えねば読む意義はあるまい。
たとえ啓蒙的な意図で編まれた翻訳作業であっても、その読むことそれ自体が、哲学的営為に他ならないのではないか。

そういう覚悟を持って、10年の長い時間このホッブズのテキストと向き合いつつこの仕事を続けて完成した訳者の哲学的営為に十分な尊敬が払われるべきだし、今後ホッブズの研究者は、謙虚にこの営みを受け止めて、きちんと批判するところから、豊かな日本におけるホッブズ研究を生み出していって欲しい。

私にはホッブズを研究している時間はないから(笑)。

でも、この著作を無視してはスピノザだって「読めない」ということぐらい、私のような素人だって分かる。

テキストと格闘しているのか?!
全ての読みは、そういう翻訳の困難を抱えているのでは?

そういう根本的な問いをこの本は私に突きつけてくる。

やる気のある人、腕に覚えのある人(どんな人だ?)は、二万円払ってこの本を目の前においておくといい。

それは何も17世紀の哲学や社会思想に関心があるかどうか、現代の社会思想を勉強するかどうか、の問題じゃないと思うよ。



ホッブズ『哲学原論』渡部秀和/伊藤宏之訳の凄さ。

2012年07月29日 15時02分59秒 | インポート
週末、
『哲学原論・自然法及び国家法の原理』柏書房刊
(一冊本20,000円)



の訳者の一人と同席できる機会があった。友人の友人ということで、無理を言って一緒にお酒を飲ませてもらったのだ(私はとんぼ返りだったのでノンアルコールビールでしたが)。

実に面白かった。

17世紀半ばイギリスで思索と著述をしていたホッブズと、オランダで哲学していたスピノザ。
比較して話をしているだけで、いろいろな面白い課題・論点が次々と浮かび上がってくる。

この著作、訳業それ自体でも大きな価値があるのだけれど、仕事が実にクリアであるという点が、特筆に値する。

それは例えばこういうことだ。
中世のいわゆる「神学論争」の面倒くささ、不可解さの感触をビビッドに伝えてくれる山内志朗の『存在の一義性を求めて』なんかも同じ。

ホッブズの哲学の前提にある人間観、世界観が、この著作ではおそらくトータルな形では日本で初めて示されたことになるのだろう。
その訳のお仕事のクリアさは、今後ホッブズに関心のあるプロパーばかりでなく、一般の読者にとっても、大きな価値を持ってくるだろうと考えられる。

大体この厚さだ。そう簡単には読了できまい。
そして、これが本邦初訳だということは、哲学プロパーの怠慢をこそ意味しているわけだから、学者たちの評価だって高がしれているだろう。

手前味噌になるが、私のように17世紀の別の哲学者に関心があるような種類の周辺読者にとって、あるいは改めて今の日本において権力論、人間論、広い意味での社会哲学を組み立て直そうと志す者達にとってこそ、福音になるはずだ。

10年、20年たって真価が理解される仕事になるかもしれない。

それがこの福島の地から、この時期に(実際の訳業は10年以上の粘り強い営為から生み出されたものですが)世に出たことの意議も大きい。

誰にでも買って読め、と勧められる「物体」ではありませんが、図書館には入れてもらっておくべき一冊です。
内容については、じっくり読みながら、メディア日記にぼちぼち感想を書いていきます。
そちらも読んでいただければ幸いです。

ソフトバンクの 録画対応デジタルTVチューナー(2)

2012年07月29日 14時23分39秒 | iPhone&iPad2
ソフトバンクの 録画対応デジタルTVチューナー(2)
休日なので丸一日家にいて、本を読みながら本の裁断を続けている。
で、このipadで見るTVチューナーはメチャクチャ利用価値があることにジワジワ気づきつつある。

もちろん風呂でも(カバーは要るが)台所で食事を作りながらでも、ごろ寝しながらでも、テレビが見られるのは助かる。便利だ。

でも、そんなことなら携帯ワンセグでもできたし、小型TVなんて昔からあった。

何にも革命的なことは起こっていないといえば起こっていない。
いまさらテレビを家中で見られるからでなんなんだ、である。携帯だったらipadよりよほど軽い。

でも、テレビもwebブラウザも、私たちの生活に標準装着された世界の覗き穴だ。
だとすれば、携帯じゃあ小さすぎる。パソコンじゃ面倒すぎる。テレビでは重すぎる。

ちょうどライラの冒険シリーズの第2巻で出てきた神秘の短剣(空間を切り裂くと、もう一つの平行世界への裂け目ができる。ナルニアにいける洋服ダンスの携帯版です)のようなもので、それにはある程度の大きさが必要。

タブレットはその絶妙なバランスだと思う。

つまり、ことここにいたって、本とwebとTVが、同一メディアになった、ということです。
タブレットはあくまで「短剣」にすぎない。

向こう側のコンテンツに、ここから自在に行き来できるのが、凄い。

TVの大画面とか、携帯のコンパクトさとか、PCのキーボードとかは、たしかにタブレットより便利だ。

でも、適切な平行世界の覗き穴のサイズは、脳味噌的にこの程度のサイズで十分だし、逆にこの程度のサイズは必要だったってことでしょう。

2012年における平行世界の覗き穴の最適解。
(それは本であっても、映画であっても、ホームページであっても、YouTubeであっても、TVであってもいい)

それがこのipadだったのですね。

だからこそ、Googleもマイクロソフトもタブレットを次々に投入せざるを得ない。

正直、文字を入力するにはBluetoothキーボードが必須。携帯するには正直重いし大きい。映画を大迫力で見ようと思ったら物足りないのだ。

むしろ、このタブレットは、脳味噌に情報を与えるのに最適なサイズ(本のサイズは、教会の図書館に収められていた時代から考えれば、グッとコンパクトになり、世界中で共通している。あの本の見開きサイズが、これ、なんだよね)だったということでしょう。

本を裁断していて、物理的なサイズの共通性にふと、思い当たりました。

速度と画面はもう十分。
iPadの課題は値段と重さだね。

この種の端末は、絶対貧乏でもお金持ちでも持てるべきだ。
お金に換算する必要のない必須メディアです。









録画対応デジタルTVチューナー(新発売)の使い勝手

2012年07月28日 18時30分22秒 | 大震災の中で
ソフトバンクの
録画対応デジタルTVチューナー(新型)
を早速購入・設定してみた。
iPhoneとiPadで家の中なら自由にTV視聴・録画・再生ができるという。

今回は、本体チューナーにプラスして、
HDDユニット(500ギガ同梱)

付きで24,800円。

ちなみに当然ながらHDDは交換可能(ただし専用っぽい)。

ハードディスクユニットはなくてもいいと思ったが、セット特価につられました。

設置はごく簡単。

開封して、同軸アンテナケーブル(混合)を本体に繋ぎ、LANケーブルを差したら電源を入れて本体設置はおしまい。

iPadの方も、録画対応デジタルTVで検索し、App Storeから無料ソフトをダウンロードすれば、後は自動でやってくれます。

◎の点。
・ネットのことを基本的に知らなくても視聴出来るようになっている。
簡単接続モードだと特に何もせずに設定できます。

・部屋に限らず家中どこでも視聴可能(30m以内、とマニュアルにはあります。Wi-Fiが届けばOK)


・画質もハイクォリティー。きれいです。
(高・中・低と三段階に設定可能。もちろん録画時間にも影響)

・ながら見モードがある。
画面が縦の時、上限額2分割してTVを観ながらのWebブラウジングが可能。意外と出演者とかの検索をしたいとか、知らない言葉を調べたいなんてことは多いので、これはかなり便利。

寝転がった暇潰しの道具としては最高級クラスのオモチャです。

×の点。
・チャンネル切り替えが遅い。
・複数端末の同時視聴ができない。
・シングルチューナーだから、裏録画は不可。
・自宅Wi-Fi環境でのみ録画再生可能。
iPadやiPhoneにダウンロードして外での持ち出し再生はできない。

☆結論
私は個人的に部屋のTVとレコーダーの場所をスキャナーと裁断機に譲ったので、iPadでTV視聴ごできるのは、スペースメンデル大助かりです。
ベッドでごろ寝視聴のおまけもGood。

手軽なiPad視聴を考えている人にはお勧めです。
設置が簡単だし。

番組の持ち出してができないので、そういうアクティブユーザーにはお勧めできません。



400冊裁断した。

2012年07月25日 15時50分26秒 | iPhone&iPad2
書籍の電子化が400冊になった。
一週間100冊のペース。
ということは一年で5,000冊だ。

物置の床を空けるためにかける労力としてはちょっと大変かも(苦笑)。

でも、全部を一度に捨てる訳にもいかず、かと言って全部をこのままにしておくのも限界。
スキャナーと裁断機購入というオモチャ効果で5,000冊処理できればそれはそれで「現実的」かもしれない、とも思う。

まあ、5,000冊が実現可能かどうかは措くとしても、1,000冊は現実味を帯びてきた。

ザックリと本をピックアップしつつ、捨てられる(もしくは売りに出せる)本も多少分類していければよい。
かつて読んだ本、読もうとした本と向き合うのは、懐旧的な意味合いばかりではなく、面白いものだ。

今は開高健の箱にさしかかっている。
エッセイは読み返さなくてもいいが、釣りの本はむしろまた読みたいと思う。
ベトナムの「暑さ」も、もう少し暇になったら読み直そう。
彼の女性像には今は興味がなくなったけれど、それでもそこにただよう「退屈感」は、もうちょっとみておいてもいい。

もうすぐ蓮實重彦の箱になる。
30年ぶりの蓮實はどうだろう。小林秀雄全集は裁断できないけれど、蓮實重彦の本は「切れ」る。
石川淳の全集はふたつあるけれど、古い方を裁断するかどうか迷っている。

今日び、古い個人全集なんて(選集がでたら尚更)誰も買わないもんねぇ。

太田蜀山人の全集は「切れ」ないけれど、三田村鳶魚は「切れ」る。
鴎外・漱石は、青空文庫もあるので切らなくても読める。
絶版になったSF文庫とかは、価値の問題ではなく電子化して手元に置き、生きているうちに読もうと思う。

買い置きして読まなかった推理小説は、果たして今後手に取ることがあるのだろうか。
暇つぶしが必要ならブックオフでまた100円で買えばいいのだ。
でも、なあ……

ともあれ、好きな本を手近に置いてあれこれ考えながら時間を過ごすのは、何のたしにもならないけれどすこぶるたのしいものである。


同じ時代を生きるという意味、もしくは違う時代と出会うという意味

2012年07月25日 03時19分48秒 | 大震災の中で
ここ数年、スピノザのテキストを身近に置いている。

ただし、読んでいるというのは躊躇われる。
ページを繰っても「読めない」ものは読めない。

書簡集や『国家論』は読めるが、『デカルトの哲学原理』や『エチカ』は正直歯が立たずにいた。
今年度、『スピノザ入門』の講座を受講して、ようやく『デカルトの哲学原理』の輪郭がぼんやりと理解できはじめたところ。

そして今日書きたいのは、ホッブズのことだ。
今、仕事が信じられないほど忙しいのに
ホッブズ『自然法および国家法の原理』
を読みはじめた。

先生にスピノザとデカルトを並べて講義してもらった、自分なりの応用編、ということになるだろうか。

これがなかなか面白い。
「分かる」
ということの意味が変わってくるのが興味深いのだ。
何かを「知る」ということの意味を、身体的に経験しなおしている、といえばいいだろうか。

最初、スピノザのデカルト解説である『デカルトの哲学原理』をよんでいるときには、何がなんだか分からなかった。
つまり、デカルトが言っているのか、スピノザが言っているのか、スピノザのデカルト理解なのか、はたまたスピノザがデカルトを「書き換え」ているのか、何がなにやらさっぱり分からないのだ。

加えて冒頭から神の存在証明である。

面白すぎるのに分からなすぎる……そんな状態だった。
スピノザに先行する哲学者として大きな存在だったデカルトだから、少なからずスピノザに「影響」を与えたはずだとか、スピノザによるデカルトの「乗り越え」が存在するはずだ、とか、そういう「ストーリー」を前提にして読みたくなるのは、正直無理のないところだろう。

でも、そういう「物語」だけでは、テキストは読みきれない。

無論「今」それを読むことは、この読まれている「今」において理解されるしかない。
私(たち)のような「素人」が古典を読む、ということは、図々しくまた乱暴にも、古典を「今」において拾い読みする(ということは多くのモノを捨てて省みない)ことになる。それは不可避だ。

でも、それにしても、そのテキストが、現場でどう書かれていたのかを知っておくことは、「時代背景を踏まえた正確な理解」を求める研究ではなくても、私達の読みを「豊か」にもし、私達が「今」において考える上でも有益だ。

古典を「素人」が読むときのおもしろさと難しさはそこにもある。
性急に「正解」を求めていくとしんどい。

場合によっては、
結局時代を超え得るのは「天才」だけで、あとの凡人は、埃にまみれて過去をちまちま漁る「学者」になるか、「今」に併せて「古典」を単なる材料として切り刻むかしかないよね……

っていうあきらめみたいなものが漂いかねない。

でも、今読み始めている
ホッブズ『哲学原論・自然法及び国家法の原理』伊藤宏之・渡部秀和訳
は、そういう不安を過度に感じさせない。

安心して読める。
それは畠中尚志のスピノザの訳にも感じられることだ。
17世紀の思想家のテキストは、それ以前のテキストよりも、それ以後のテキストよりも読みやすいってことなんだろうか?
自分の問題意識が(ということはこの本の訳者の辞にもあるように21世紀の問題意識も)、不可避的に17世紀に向かっている、ということなのだろうか。

よく分からない。

しかしこの疑問というか感触は、山内志朗『存在の一義性を求めて』を読んでいても感じたことである。

読む行為が、自分が読む、というところから少しだけ離れる感覚、とでもいえばいいだろうか。

古典を読む、ということはつまり、その「差異感」というか「離れ感」というか、そういうものにいったん読書主体を「泳がせる」感覚に近いのかもしれない。

翻訳にその志があるかどうか。どの分からない「分からない感じ」を言葉に載せて伝えるか、といってもいい。
翻訳は当然、「読めない」ものを「読める」ようにするものだろう。

同時に、テキストを読む行為は、「謎」や「問い」・「ズレ」と豊かに出会うその「場所」を通り抜けていくことでもある。

私達は古典を読むとき、簡単に「時代を超え」て出会う、とも感じるし、同時にそこに「今」の課題を見いだしもする。

そうか。

古典の他者性をどうテキスト読解において把持しつつ読むか、という課題もそこにある、ということかもしれない。

となると、翻訳がいい、というのはどういうことなのだろう、とも考えさせられる。

極めてクリアで腑に落ちるのに、「分かる」とは限らない、この感じ。
老後の楽しみの本質=近傍に、そろそろとにじり寄っている。

その楽しみにふさわしいテキストに出会えていることに、感謝する以外ない。

藤あさみさんのブログ

2012年07月20日 00時41分25秒 | iPhone&iPad2
藤あさみさんのブログにあるこの記事、納得でした。
「わざなう」
http://touasa.cocolog-nifty.com/wannazau/2007/05/scansnap_8053.html

1,書籍の山の解消にはならない
2,透明テキスト付PDFの便利さ
3,スキャンデータとモバイルの相性の悪さ
4,意外に使える名刺OCR
5,こまめなお手入れが必須
とまとめてあります。ぜひ参照のほどを。

ただし、私が今使用している環境
新ipad・scansnap s1500・裁断機ブック40の組み合わせ
だと、

1,書籍の山の解消にはならない、っていうのが少し変わってきたかもしれない、と感じています。

超音波の重なり検出があるので、安心して大量連続スキャンができること。
新しいiPadは画面がキレイで(重いけれど)、拡大してもスキャンデータさえキレイなら、十分読書に耐え得るクオリティになっていること。

この2週間ぐらいで300冊超を自炊してみての感想です。蔵書の総数がどのぐらいかまだ掴めていないのですが、とりあえず500冊は手が届くところに来ました。
全部を自炊するつもりはないので、5000冊もやれれば上出来。ということは10%ぐらいは1ヶ月以内に楽勝で終わるってことです。まあその半分の2500冊だって、だいぶ省スペースにはなるはず。

「書物に刃物を入れるなんて」

って人は、ぜひ筆字から活字に変わった時のことを思い出してほしいです(っていっても、グーテンベルグの時代に生きていた人はいないんですが)。
ただし、私も裁断&電子化するのは文庫本と新書、それに社会学系の現状分析本が主です。
全集本とか、哲学テキストとか、全巻揃いのものとかは、とりあえずは本棚の肥やしのまま。

ただ、かな~り便利なんですよね、閲覧に限って言えば。

なにせ、本を何冊持ってもiPadの容積と650gの重さで済むわけですから。
(PDFだから、テキストを一応検索可能な索引付けすることができますし)


藤あさみ(とうあさ)さんも、最近のブログでは新型iPadの購入で、電子化した書籍の「読書環境」は整った(重いけど)って書いてました。

同感です。

ちなみに、この藤あさみさんのブログにお邪魔したら、なんと私が最近購入したヒラリー・ハーンの「SILFLA」というアルバムのレビューがあってびびびびっくり。

そして
『無限振子 精神科医となった自閉症者の声無き叫び』Lobin H.
のレビュー。自閉症スペクトラムと診断された精神科医のお話だそうです。

要チェックのブログになりました。



書籍電子化の副次的効果

2012年07月16日 11時50分54秒 | 大震災の中で
本を裁断して電子化し始めたのは、震災の影響だ。

こう書いて見ると

「震災の影響だ」

っていうのは実に便利なことばである(苦笑)。

「小人閑居」した結果のほとんどは、「震災の影響」で深く考えるようになった、という文脈で処理可能だからだ。

ま、「震災の影響」はまんざら嘘ではない。

考えの基盤=思考のOS(オペレーションシステム)=思考起動の前提となる「インフラ」的なるもの

がどうにも震災以前のものでは立ちゆかなくなった、という感覚はある。

震災があったから単純に何かが変わったとは思わない。

少なくても「思考」の道筋の立て方の根本が、外側の事件一つでそうそう変わるわけはない。

ただ、思考の「前提条件」は間違いなく同じではなくなった。
変わったのが単なる思考の「対象」・「要素」ではないところは注意しておきたい。

前提条件が変われば、もし思考のプロセスに変化はなくても、その過程を経て出てくる解は変わってくるだろう。

私の場合、それに父親の死と犬の死が加わって、自分の加齢意識と併せて、

「ご隠居準備条件」

が整ってきた、といえそうなのである。

その結果、
「日暮れて途遠し。道中重い葛籠を願わない」
ってことになる。隠居所の一間(ひとま)に入る本の量はざっと1000冊程度、と見た。
「本に囲まれた」感が欲しくて床から天井まで三方の壁を本で埋め尽くしても、2000冊ぐらいが無理のないところだろうが、そんな改装費も勿体ない。
だいたいそんな風じゃ危なくて寝起きもできやしないだろう。
隠居所条件に外れてしまう。

で、電子化の決断になるわけだが、その結果、本に対するフェティシズムがバーチャルな領域に離陸することになった。

「一冊も本を捨てられない」
から
「一冊残らず電子化して残したい」
へ。

何が変わって、何が変わらないのか、単純には言えない話になるわけです……。

さてその結果、1冊80円で書籍の電子化を代行するる自炊業者(今もあるのかな?一応ネットではヒットしますが)のバイトみたいに、せっせと休日(今も脇でスキャナが動いています……あ、紙が詰まった……)と平日の夜間、割と勤勉に古い本を持ち出しては

裁断→スキャナ→紙の廃棄→電子データの二重バックアップ

という作業を延々と繰り返している。

これは意外なことに(っていうか当たり前なのだけれど)、嘗て買った本を全量手にとって見直す(読み直す、とは行きませんが)作業にもなっていることに、今朝改めて気がついてびっくりした。

これは、かなり面白い作業です。

読んでいない小説、つまみ食いして放って置いた評論、買っただけの特集雑誌、読み終えた愛読書、なくしたと思っていた本などなど、偏った趣味・傾向の再確認も含めて、いろいろな再会・再確認・再発見が次々に押し寄せて、「隠居準備条件」を整える大きな手助けになりそうだ。

スキャナさえ動きつづけていれば、その脇で無駄なく「立ち読み」ならぬ「裁ちながら読み」ができる。
しばらくは物置の段ボールの山を崩していく作業で深い満足を得られそうだ。

しばらくは心配ないにしても、もし自前の本を全部切り裂き終えてしまったら、夜な夜な巷に出て新しい本を切り裂きたくなってしまう、なんて欲望に駆られやしないだろうか……

そんな風に考えてしまうほど、本の電子化は、茶碗洗いや洗濯と同じような「快楽」になりはじめている(笑)。
ま、自分のうちの洗濯が終わったからといって、他人の家の洗濯をしたくなったりはしないんだろうけど。
でも、他方、洗濯は死ぬまで繰り返されるけれど、本の「切り裂き」には数に限りがある。

同じようで実は違う快楽だしねぇ。

とりあえずは、この作業に飽きてしまう前に、できるかぎり物理的な本の占有容積を縮めておきたいものです。







可能的命題から潜在的命題へ

2012年07月14日 15時36分33秒 | 大震災の中で
昨日職場で、OBの経済学者(中央大学准教授)武田勝さんの講演を聴いた。

いろいろ興味深い話はあったが、

「学問(就中経済学は、かな)とは「潜在性」と向き合うものだ」

という言葉がいちばん印象に残った。

先週おなじみ國分功一郎先生のスピノザ講座で、スピノザがデカルトのテキストを読むときに起こっている事件についても

「デカルト哲学に潜在性している命題、潜在的命題を明らかにすることによって、顕在化している体型を破壊する力を持つ」

と解説していたことと響き合ったのだ。

可能的命題についてなら、二十歳のときに石川淳から教わった。
差異についてなら、その後のポストモダンで聞きかじった。
現象や限界についてなら、ヴィトゲンシュタインやらカントやらレヴィナスやらで見知ったし、隠れているものを暴く物語だったら、文学と付き合っていれば自然と理解もすることになる。

そうではなくて、(テキストクリティークとしての)学問について考えたとき、この「潜在性」は重要なポイントだと思った。
可能的命題を線状的に追求していく「賢さ」ではなく、潜在的命題がどこからか分からないのに突如やってくるのを「待つ」能力。
そしてそれと出会ったら、獲物を狩る動物のように逃さず捉える力。
「潜在性」
に瞳を凝らす、というのは、そういう比喩がふさわしいように思う。

もしかすると、積み重ねられた「当たり前」の先に論理を伸ばしていく側からみると、荒唐無稽なOSを自分で記述し、それを走らせる中で箱庭を構成するように見えてしまったりもするかもしれない。

単にインフラを当たり前と思うのじゃなくて、確かにインフラは必要だけど、それがどんな仕組みに支えられているのかを探っていくと、別のありようも見えてきてしまったりする、ということだろう。
震災以後の暮らしの中で、私たちはインストゥルメンタルな世界像ばかり追いかけてはいられない、と実感している。

「潜在性」

について、もう少し肉付けしていかなくちゃ。


メディア日記に

2012年07月14日 14時15分31秒 | 大震災の中で
國分功一郎「スピノザ入門」の第四回のメモをアップしました。
http://blog.foxydog.pepper.jp/

今回はデカルトのテキストを読むスピノザのテキストを読むドゥルージアン=國分センセを「読む」
みたいなことになっていて、いろいろややこしいことになっています。
主題自体は簡単、でもあるけどね。
つまりは、
『デカルトの哲学原理』とい本で、スピノザは

デカルトにおける
コギトの存在証明(Cogito ergo sum)

を、

コギトの状態描写( Ego sum cogitans)

に読み変えてしまった。


ポイントは、
一体それはなぜ?
それはどういう意味があるの?
それはデカルトの思想なの?
スピノザの思想なの?
誰かの思想ってどういうことなの?

というあたりです。
よろしかったらどうぞ。

テキストを読むというかたちで哲学をきちんと初学者に教えてくれる國分センセのスタイルは凄い。
でも、その享受には少し練習が要るかもね。



書籍電子化のための道具(1)ScanSnapS1500について

2012年07月07日 06時42分11秒 | ガジェット
本の背を裁断して電子化するための必須アイテムの一つが、
連続両面スキャンができる

FUJISTU ScanSnap S1500

☆購入1週間の現況
100冊程度通した現在(2万回弱)、トラブルなくスムーズにスキャン中。
厚い紙質だと100P(50枚ぐらい)、薄めの書籍なら150P(75枚程度)は一度に連続セットが可能。
薄手の新書だと1回でスキャンできる勘定になる。
文庫や単行本は2回か3回に分けてセットするとよい。

☆スキャン上の注意。

1,背表紙の糊がついていないこと
2,しおり・書籍伝票・広告の紙などが入っていないこと
3,解像度の設定を適切にする。

以上3点が満たされていればほぼノントラブル。
注意したいのは3のファイルサイズ。

・文字のみでipad画面を使用の場合
  白黒ファイン(白黒200dpi)で十分。

・拡大して読みたい場合
・保存データの質にこだわる
  スーパーファイン(白黒600dpi)がよい。

なお、自動判別だと文庫の紙を「カラー」判別してしまうことがある。
そうなるとデータ量が増えるので注意。

☆その他注意すべきところ
背表紙ギリギリまで印刷されている漫画よりは、左右ページの間に空白のある書籍の方が、裁断しやすい。
文字データ中心だとファイルサイズも小さくできる。

紙送りのゴムローラーは10万回ぐらいまで、紙送りの小さな樹脂板は5万回まで対応。


本棚が空いていく快感

2012年07月06日 20時25分53秒 | iPhone&iPad2
本棚が空いていく快感-書籍電子化の効果-

100冊ちかく裁断&電子化を進めると、本棚が3段近く空いてくる。
部屋にある本棚(横積み縦積み前後重ね等々)の本を数えるとざっと800冊ぐらい。
身近に置く本の量としては主観的には必要最低限、といったところ。

同僚の本好き夫婦に聞いたら「二万冊は超えるけど、数えてない」とのこと。
それに比べれば私の蔵書はおそらく全部合わせても数千冊程度だからたかが知れているのだが、それにしても、本の置き場には苦労してきた。
引っ越しの時に処分してはみるものの、なかなか捨てられない。いちばん問題なのが

「捨てるか捨てないかを分類する」

という作業である。

1,片付けているうちに惜しくなり、気がつくと棄てる本がなくなってしまう。
2,見ているうちに忘れていた本と再開し、片付け途中で読み始めてしまう。
3,整理を忘れて分類に走り、本棚の並べ替えで終わってしまう。
4,途中で飽きて収拾がつかなくなる。

だいたい上のいずれかになる。本に限らない片付けの難しさだ(笑)。

ところが、書籍の「裁断&電子化」の作業は、

1,魂を吸い取って保存するので、棄てるという「惜しさ」に捕らわれずにすむ。
2,本の裁断は1分程度、スキャンも数分あれば終わるので、本を開いて「読み出す」危険が低い。
3,整理は後で電子化されたものにキーワードを割り振ればいいので、その場では整理の必要もない。
4,裁断機や連続スキャナ、ipadなど、ガジェットを扱う楽しみがあるので、途中で飽きない。

というメリットがある。

最大のネックは一度書いたように、本に刃物を当てる瞬間だ。

自分が持っている書籍に対するフェティシズムと、しっかり向き合うことが必要である。

「本の背を切ってバラバラにした挙げ句に棄てるなんて」

本好きなら誰しもそう思うはず。
雑誌ならいざ知らず、単行本の背を裁断するときには確かに、

「ああ、これでおれは地獄に落ちるなぁ」

というか
「ルビコン河を渡ったな、こりゃ」

と、「尻小玉を抜かれる」ような脱力感があった。

まあ、別に無理して書籍の電子データ化をすることもないのだけれど(笑)。

でも、電子データ化を始めてから、軽い本は数十分から1時間程度でざっくり読めてしまうことを知った。

つまり、読み方の手順が変わった印象がある。

一文字一文字リニアに(線状的に)目で追っていくのではなく、ざっくり画面ごとに読む、というのに近い「読み方」になった。

それがいいのか悪いのかは分からない。

たぶん、善し悪しではなく、そういう風になった、ということなのだろう。

その読み方によって情報の「速度」は確実に上がっている。
当然、逆に脳味噌の中における情報の「熟成」度合いは低くなることも予想される。

つまり、そういう読み方ができる本は電子データ(PDF)で読めばいい、ということだ。

私の場合、社会学系の本のほとんどは、その手の本だった。

ちなみにまだ小説は1冊も電子化していない。
小説を裁断する「敷居」は、社会評論より高いらしい。

哲学テキストは、二冊購入していたスピノザの『デカルトの哲学原理』1冊だけを電子化した。
もっと手軽に持ち歩きたいとも思うけれど、「テキスト」としての哲学は、裁断&取り込みした挙げ句、なんだかもう一冊同じ本を買い直ししてしまいそうだ。

小説はためらうけれど、そんな気持ちにはならない。
このあたり、今の自分のテキストに対するフェチ度合いが露わになって、これもまた面白いのだが。

とりあえず、小説は繰り返し謎ときをさせてくれるテキストだし、哲学テキストは繰り返される謎そのもの、に近い。

その二種類は電子化して大量高速にスライドして読むものではなさそうなのである。

喜んで裁断&スキャンをやってはいても、どうやら全てをスキャンしてタブレット(ipad)で読みゃあいい、ってものでもないらしい。

但し、住宅事情の面から言えば本のジャンルなんぞは問題にはならない。
ひたすら本の置いてあった場所が空けばそれが「正義」ということになる。

そこでは、絶対的に電子化が「正しい」振る舞い、ということだ。

どうなんだろうね。

でも、これだけ便利で場所を取らないのであれば、書籍形式で本を購入するという行為は、筆で字を書くことが特殊が芸術や儀礼になったように、特別な意味を帯びていくのかもしれない。
そんなに遠い将来じゃなくて、ね。
でも、だから本はなくならないんだろうね。
書籍はその社会的意義を変質させつつも、世界に対する「裂け目」でもあり「封印」でもあり続けるのかもしれない。

世界とはこのとき、無意識といってもいいし、とりあえずは他者といってもいいのだけれど。








書籍の「自炊」の話(4)具体的手順

2012年07月02日 22時23分24秒 | インポート
1,書籍の背の裁断

1、本の表裏の表紙2枚を鳥の羽のように広げ、その二枚だけを逆向きにして、表紙に繋がっている最初と最後のページを少し表紙から半ば剥がし気味にする。

2,裁断機の外側にその表紙二枚だけを出し、糊の付いた背のところを、活字にかからないように裁断すべく、調整してセットする。

3,背表紙がのり付けされているので、裁断機の刃が本に当たると、のり付けされた部分がゆがんで、後半のページが「逃げる」。すると、上の方の最初に切れるページは十分活字から離れているように見えても、後半のページは背表紙側に着いた部分が「逃げる」ため、油断すると裁断の線が活字にかかる危険があるので注意する。


4,裁断が終わったら、間に広告やしおりがはいっていないか、背表紙の糊付け部分がきりはなされているかを確認する。
万一のり付け面が残っていると、二重送りになったり、最悪はページがジャムって破れてしまうことがあるので確認は絶対。紙を捌いて、繋がっていないかどうかチェック。

5,スキャナをPCにつないで双方の電源をつける。

6,スキャナの差し込みトレイに、1回50枚~70枚(両面なので100ページから140ページ程度)を下向きの裏向きでセットする。このとき、ScanSnap S1500の場合、解像度はモノクロ150dpi程度で十分。少なくてもipadで読む分にはお釣りが来るぐらい。
 最初文庫本を知らずにカラー自動判別で読み取ったところ、黄色っぽい紙の文庫はカラーと認識されてしまい、前ページカラーの旅行ガイド並の100Mbyteにまでサイズが増えてしまった。
しばらくしてからそれに気づき、全部やりなおす結果になった。くれぐれも活字本の場合はモノクロでサイズ節約を心がけるとよい。

7,パソコンに保存する形式は、ScanSnapに着いてくるOrganaizerというソフトでPDFとして読み取る設定にしてある。
スキャナで読み取った画像は、「絵」として扱うことも勿論可能だが、1枚1枚バラバラの絵として扱っていては、書籍として収集がつかなくなる。PDFという形式は、複数枚を一冊のまとまり(本)としてあつかうフォーマットなので、これを選ぶこと。
 パソコンでも携帯でもタブレット端末でもPDF形式なら間違いなく対応しており、それを後で編集したり検索したり、手書きを加えたり、消しゴムで消したり活字をデータで書き直したりと、さまざまなソフトも出ているのでPDFに読み込むのが正解。

8,ipadの場合は、パソコンと違って本体に読み込みさえすればどのソフトでもPDFファイルが読めるわけではない。
 この辺は善し悪し分かれるところだが、ウィルスなどや内部の不整合を避けるため、同じPDFファイルでも、アプリケーションごとに読み込む必要がある。だから、基本どのPDFリーダーを使うのかは、選択のために時間を掛ける必要がある。
(ソフトによっては他アプリケーションで取り込んだPDFを閲覧することができる場合もある。そのあたりの手順も含めて、ipadは自分なりに決めておくのが吉。

アンドロイド端末の場合はもっと自由度が高いのかな?
触ったことが無いので分かりません……。

9端末について
 メーカー販売の電子書籍リーダーの場合は最初からソフトは決まっているのかもしれないので、そのあたりの使い勝手を選べる点ではipadかアンドロイドのいわゆるタブレット端末の方が有利。

 索引も自由に付けられるソフトもあるし、マーカーを引けるもの、上から手書きデータをかぶせられるものなど既に沢山ソフトがある。

 ただし、電子書籍リーダーは単機能だから重さは軽い可能性が高い。

 その辺り、安く提供されれば楽天やソニー、アマゾンのキンドルなど複数の電子書籍端末を手元に置くのも選択肢の一つ。

10読み取った後あとはPCにファイルができる。

 それを端末に転送する必要がある。方法は主に二つ。

 ア、evernoteとかDropboxなどのクラウドサービスにファイルを置き、ipadにダウンロードする。 
 イ、ipadをUSBケーブルでPCに繋ぎ、i-Tuneというソフトを立ち上げて、PDFリーダーソフトと関連づけをして、ipad側に転送する。

 アの方法は外出先でダウンロードできるという利点あり。
  だが、クラウドサーバーの容量は無料だと限界もあるので、必要なものをある程度絞って置いておく必要がある。
 イの方法は直接PCと繋ぐので、作業ができるのは自宅のみだが、転送は高速である。

 それぞれ一長一短あるが、比較的失ってはいけない大切な書籍データの場合は、PCにのみ置いておくよりは、クラウドサービスにも保存しておく方が安全。

11バックアップ
現在はwi-fiでもアクセスできる1テラのネットワーク接続のHDDが休眠状態だったので、PCとそのサーバーもどきHDD二カ所に書籍データを置くことにしている。


12ファイルサイズ
 文庫版の「差異と反復(上)」ジル・ドゥルーズ(河出文庫?)で30Mbyteぐらい。あ、結構大きいね。
 スピノザの「デカルトの哲学原理」で14Mbyte。
 なんだろう、新書の「上野先生、勝手に死なれちゃこまります」は6Mちょっと。文庫は意外と大きいなあ、ファイルサイズ。
 でも30Gで1000冊は入るから、十分ちゃ十分ですね。

現在とりあえずお試し4日間で48冊終了しました。


裁断自体は1冊2~3分。スキャンは5分程度。前準備や後処理もありますから、なんだかんだと今のところ1冊10分ぐらい。流れが掴めればもう少し速くできるようになるかもです。


ただし、スキャナが動いている時は片手間の仕事になりますから、webサーフィンをしたり、それこそ本を読みながら裁断した本のセットと排出処理をしていけばそれほどの手間でもありません。
このブログを書きながら、だったり(笑)。

今ざっと書斎の中の本だけを数えたら、800冊弱でした。平日の夜で10~15冊ぐらいは電子化できますから、休日頑張れば週に100冊ぐらいはいけそうです。とすれば、書斎の本の半分を電子化するのに、さぼりながらでも1ヶ月ぐらいあればなんとかなるってことでしょう。
まあ、蔵書全体となると数千冊にはなるんでしょうが、手元に残すのは書斎の本棚に入る600冊から700冊程度で十分(他に全集とかオールタイムベストの古典は別の場所にありますが)、と思い切ることができそうです。
のこりの数千冊を古本屋に出すものとスキャンをかけるものとに分けていけば、虫干しにもなるし、一石三鳥ぐらいにはなりそうかな(^^;)。

そういう「計算」が立つというのも、この本の電子化の副次的な利得かもしれません。