龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

仕事の優先順位を付けるのが大切だ、という話を最近

2010年05月31日 22時22分33秒 | インポート
仕事の優先順位を付けるのが大切だ、という話を最近よく聞く。

なるほど。

しかし、テーブルの下で火が燃えている時に、テーブルの上の優先順位ばかりを考えていては全部燃えてしまう。

問題は、解決に至る「問題」を自分が処理する対象としえているかどうか、の判断ができないところにあって、
単に「優先順位」の問題ではないことが多い。

それもまた「優先順位」の問題だ、と繰り込み発言をしてしまえば、その通りなんだけどね(苦笑)。

きな臭いのに、火元が分からない場合。
あるいは、取り返しのつかないことが起こっていそうなのに、自分はその「解決方法」から遠く隔てられているという無力感にさいなまれている場合。

そんなときは神様について考えたくなる。
必ずしも神頼み、じゃなくてね。

開かれているっていうことは、限定されたテーブルの上の話じゃなくて、むしろその下でくすぶるまだ見えない火種について考えること、なのだろうけれど、残念ながら神の加護なき「考える」行為は、実在を保証されてもいなければ、本質につながっているとも限らない。

逆に言えば、見通しのつく範囲内で「世界」をコントロールすることが「成果」だというのも、なんだかなあ、という気がする。

さて、ではこれから、どんな「仕事」をしようというのか。

とりあえずは今晩中に燃え広がらないと信じて、ベッドに入ることになるのだろうけれども。


たとえば「プライム・ムーバー」という単語

2010年05月30日 12時20分07秒 | インポート
たとえば「プライム・ムーバー」という単語が、アリストテレスの「神様」的存在に付けられた名だ、というのを最近初めて知って、びっくりした。
私がこの言葉を初めてしったのは小学生時代、
アイザック・アシモフのSF、ファウンデーションシリーズ(全3巻<当時>)
だったからだ。
ファウンデーションという、人類の銀河文明崩壊を防ぐべく天才博士が密かに作った「集団」の、会議における第一発言者(ま、首相みたいなものかなあ)を作中、プライム・ムーバーって呼んでいて、それをわざわざ訳者が指摘して読者の注意を喚起していたのです。
40年たって、それがアリストテレスが説く、世界の根本動因(第一動者)のことだったなんて、SFのレトリックはなんてまあ哲学好きなのだろうと改めて思った。
wikiで調べていくと
ヴァン・ヴォークトの『非Aの世界』のAは「アリストテレス」のことだ、とかあって、これもびっくり。

私個人としては、山田正紀のデビュー作『神狩り』の冒頭、ヴィトゲンシュタインの有名な言葉
「語り得ないものについては、沈黙しなければならない」
が書いてあって、これはたぶん中学生ぐらいの時だったけれど、明らかに「哲学」って「謎~」と惹かれていくきっかけになった記憶がある。

だからなんだ、ということはありません(笑)。
しかし、世界を問い直す、という身振りをエンタテインメントとして選ぶか、ガチでやるか、の違いはあっても、そういう場所、人、身振りが好きです。

一ついえること。
それは、用語を「正しく」定義しようとしたり、「歴史」的な配置に腐心したりする「正しい」学問(むろん、学問はホラ吹きとは違いますから、そうでないと困りますが)に興味があるのではなく、むしろ「間違えること」=「誤謬」を完全には回避しえないという前提を持ちつつ、自分の立っている状況においていかにその「見直し」をし続けるか、ということに興味が収斂しつつあるなあ、ということです。

でも、理性の行使としての「学問」には岡惚れしてるんですがね。たぶん、評論とか哲学の本を読む動機なんてそのあたりにしかない。

他方、エンタテインメントを読まずにいられないのは、「誤謬」について学問は注意深すぎるのよね。
大風呂敷なしに正しいことを言われても、ほとんど蛸壺状態になるわけで。

啓蒙をエンタテインメントとして消費する、っていうのは、だからある意味でとても分かる。
学問的にはかなり居心地の悪い面を持つであろう啓蒙的言説。
(確かに自分も多少なりと専門の分野に関わってくると、「早わかり」的言説は困るなあ、ミスリードだよ、と思うことは多い)
でも、その生産と消費をもふくめて「誤配」「誤謬」は必然なのですよねえ。

哲学→SF
の確信犯的誤配と、雰囲気だけちょうだいするエンタ精神を入り口にして、どこまで哲学に遡行できるというのか。
ま、生きているうちにはたどり着かないと思うけれど。でも、それでも哲学に岡惚れしていないエンタテインメントは、ちょっと悪いけれど読む気がしないです。つまり、世界像がやわなフィクションは、もう、初老期以降の私には不要ってことかな。

ガジェット好き、ということ(3)

2010年05月23日 14時59分53秒 | ガジェット
つまりは、知り合いが携帯を変えようかな、と言った一言で、
私はi-phoneがほしくなってしまったけれど、どう考えても具体的継続的必然的にi-phoneを使うシーンを想像できない、ということについて書きたかった。

たぶん、もう少し若かったら、そのままスペック確認小僧になって、カタログ渉猟を始めていたかもしれない。
今でも、何かほしいモノがあれば、カタログを見比べたりはする。

旅行などもそうだ。ペンションやホテル、温泉宿をネットで検索して、観光地の情報も併せて調べながら、時系列的に宿を並べていって、最終的には数種類の宿予約ネットを開きつつ予約していく。
実際の旅行という「現実感」は、そういうシミュレーションのなれの果て、ちょっと嘘をつくと、もう楽しみがあらかた消費されて失われるために登場するかのようだ。

それでも旅行は体験という消えモノだから、消えていってもおかしいとは思わない。
だが、いわゆる玩具的なものは、買った瞬間から愛着が増すと同時に、機能性としてはガラクタ度が蓄積していく、ということが起こる。
すぐに携帯を変える、という、電話会社さんの思惑に対応した従順な振る舞いをしてしまう石化したオーラの残骸のようなものに惹かれる自分の魂のありようを、実際に購買行動に移る前に、衝動が弱まってしまうようになったため(年を取った、ということか)、あらためて冷静に考えるようになってしまったのだ。

これは、50代になって物事が昔より見通せるようになってきた、という最近の実感と、どこかでつながっているような気がしてならない。
つまりは、衝動的購買欲求のエンジンの初期ブーストが長持ちしなくなってきたのだ。
年を取ると短気になる、という。
その気力持続の「短さ」が、逆に結果的に「待てる」という状況を成立させているとしたら?

いいものを少し、適切な形で。

そんな老後を過ごせたらいい、と漠然とは思うけれど、それが単にi-phoneの衝動買いを思いとどまることによって成就するわけではないことぐらいは、私にも分かる。
じゃあ、どうすればいいんだろうね。

10代のころ、先が見えない焦燥の中でいつもグルグル考えていたことを思い出す。
年をとってもグルグルは変わらない。
でも、ちょっと中身やスタイルは変わってきているような気もする。

むしろ、原稿用紙や便せんに、万年筆で字を埋めていこうか、そんな風にも考える。
「遅速度」をかけてもいいのかもしれない。
多くを望まず、どんな「痕跡」を示していくのか、という意味では。
i-padなんてとても便利だけれど、論文や表現がまるごと検索できる検索データベースとして膨大なテキストが用意されてからでも、十分かな、とも思う。
「正雇用」という20世紀後半的社会的活動の現場から、もうすぐリタイアして「個人的」場所に「帰ろう」という意識の中では。

他方、<今>の中で動いている自分にとっては、次々と現れる端末を「ガジェット」として戯れ続けることが、時代の「痕跡」に触れ続けること、でもあるような気にもなる。

役にも立たないものばかり買い続けて、ゴミしか残らない……。
そういうゴミを追いかけつつも、自然の中で山菜を食べて、時代のゴミとは別のことも考える。
そうやって生きていくしかないのだろうね。



ガジェット好き、ということ(2)

2010年05月23日 14時43分45秒 | ガジェット
さて、でも、文房四宝的賞翫は、文章を書くということとは別次元だったりもする。
万年筆のコレクターが文章の大量生産者でもなければプロの執筆者でもない、というのは当たり前のことだ。

むしろ、書きたいことに向けられた欲望の激しさは、書く道具など飛び越してしまう、ということもある。

一方、表現することは「他者」に向けられた欲望でもあるから、現実的道具や流通の形態に大きく依存してもいる。
むろん、その「他者」が誰か、っていう話になると、自分だったり、死んだ人だったりもして、現実の電子ネットワークの形態とか文房具とか、端末ガジェットの問題とはほんとうに別の宇宙の話にもなるんだけどね。

そうはいっても実際に表現の欲望を外部化し、痕跡として示すのには、アルタミラの洞窟に出向いて狩りの対象とかを書くわけにもいかないだろう。

誰かにメール一つ送るのでも、いろいろさまざまな要素が絡むのだなあと思う。

ガジェット好き、は別にコミュニケーション好き、でもないのだけれど、カタログ好き、家電好き、携帯好き、PC好き、カメラスペック好き、などの人たちの心には、微妙な「ガジェット」好きのにおいがするのも事実。

コミュニケーションのなれの果てとしての「ガジェット」好きは、あの子供が電話のまねをして遊ぶ「ごっこ遊び」とはまた違った意味で、離陸してしまい、モノ化してしまった「元コミュニケーション的」あるいは「元実用品的」オーラの名残り、というか石化したオーラ、に惹かれているのかもしれない。

そういうものに惹かれる人と惹かれない人との間には、けっこう明確に線が引けそうだ。

携帯が壊れてもいないのに、携帯端末の新品カタログを2分以上見ることができるかどうか。
カタログ萌えから、購買に至るところのドライブ感も、現実的実用性やコミュニケーション自体の重要性からは離陸した、「便利感」という幻想それ自体と戯れつつ、幻想のデータベースとしてのカタログ内部に収まらずに物品を購入してしまう小さな「破綻」への道筋も、興味深いといえば興味深い。






ガジェット好き、ということ

2010年05月23日 14時31分52秒 | ガジェット
「文房四宝」の昔から、文房具ヲタクの話題には事欠かない。
昔→筆、硯、墨、、紙

近代以降は万年筆&原稿用紙。

戦後は手帳&ボールペン・シャープペン。

ちょっと前ならPC
(デスクトップ→ラップトップ→モバイルPC)

今はネットワーク端末
(ポケベル→携帯電話→ネットブック&スマートフォン→i-pad的なるもの)

といったところか。

個人的には、携帯電話では量が書けない、という不満があったけれど、Twitterの140字などを考えると、表現するなら140字以内、みたいな道具と流通の要請によって表現のパッケージの量的スタンダードが決まっていくこともあるのだなあ、と思う。

だらだら長くかけばいいってものでもない。そんな長いものを、誰も読まないだろう、ということか。


大井沢に行ってきた

2010年05月23日 13時04分07秒 | 温泉
男友達と、大井沢の民宿に泊まってきた。

山形県にある月山と朝日連峰の間を流れる寒河江川沿いの民宿。
今の時期は山菜が美味しい。
月山の春スキーもまだまだできるらしいが、スキーを「折って」からはや10年、そちらの方は雪を眺めるだけで終わってしまった。

それにしても、平地では30℃近い暑さなのに、雪解け水をたたえた寒河江川が見える民宿の窓からはいってくる風は、あまりにも爽やか。値千金のものだった。

翌日は朝日連峰の方にクルマで向かったが、大井沢から国道287号線まで出て行く渓流沿いの山道は、一歩間違えば深い川に転落しそうな細い道で、なかなかのスリルでもあった。
このあたり、冬のスキーも夏の釣りも、単なる避暑のキャンプでも、いい場所だな、と思う。
福島市から高速で2時間ほど。時間的にも手頃だ。

「毎年たっぷりの雪に降り込められるのがokなら、これほどいい場所はないよ」
と、地元生まれの民宿のおかみさんが言っていたけれど、その通りだと思う。
51歳でサラリーマンを辞め、民宿を始めて10年、なのだとか。
大井沢にあった奥さんの実家の隣の土地を坪1万ほど(地元の相場では超高かったとか)で200坪買って始めたのだそうだ。

50歳の坂を越えたところ、決断、だなあ、と他人事でなく思う(苦笑)。

さて、自分はこれからどうしよう。
清流の里を吹きすぎる風に当たりながら、しみじみ考えてしまった。
そういう「時間」を週末に持てる幸せを感じつつ。



積年の疲れが出てきたか……

2010年05月17日 20時57分13秒 | インポート
 どうにもこうにも体が言うことを聞かない。
 男子にもあると最近話題の更年期障害か。
 中古の体だからしょうがないけどねっ(怒→奴……)。

 週末は土曜日の夜から月曜日の朝まで、31時間中起きていたのが3時間弱。後は眠りこけていました。
 今日(月曜日)はなんとか過ごせたけれど、夜になるとまたしんどくなる。

 「今」仕事が辛い、というのなら、そこを乗り越えればなんとかなる、と思える。
 でも、たぶんそうではないのだ。
 しばらく続いていた以前のサイクルから、今度の仕事場の内容やペースに戻すと、溜まっていた疲労と、ペースの違いのズレと、加齢とが、否応なく体の症状になって出てくる。

 慌てずに、ゆっくり生きろ、ということなのだろう。
 
 仕事も遊びもほどほどにってことか。

 ま、とりあえずは休みながら、だねえ


すてきな場所に帰ってきた

2010年05月10日 20時23分53秒 | インポート
二人乗りの、屋根がない小さなクルマに乗っている(マツダロードスター)。

4月になって、地方小都市の中心から20キロほど離れた海沿いの場所に引っ越しした。。

仕事場は、地方小都市の中心から10キロほどの温泉場。
従って、通勤の往復20キロは、当然ながら(比較的)田舎道である。
しかも、今の場所は雪がほとんど降らず、年間日照時間は東日本有数。

ぐっと、通勤時の運転が楽しくなった。
カーブを一つ曲がるだけで、こんなに運転が楽しいとは。
後輪駆動は、前輪でハンドルを、アクセルで後輪をコントロールする感じがあって、「自分で走る」感覚がFFより自然に味わえる。
加えて、重量配分が前後50:50に近いから、自分を中心にくるくるカーブを回る感触。
「自分で動く」感じが、こんなに楽しいとは。

バイクを運転する人が「走る」のを楽しみにする気持ちが分かってくる。

通勤の往復20キロが至福の時になりました。






評判の悪い首相の沖縄訪問

2010年05月09日 12時40分59秒 | 社会
鳩山首相の米軍普天間基地移設問題の対応が厳しい批判にさらされている。

私個人としては「よくやった」という感じなのだけれど、日本国中、そういう人は多くないのかな……。
「よくやった」というのが言い過ぎだとすれば、時代の大きな転換点に立っている、と言い換えてもいい。

自民党の政治が稚拙だった、というのではない。
かつて、沖縄に有無を言わせず米軍基地を置き、それを保持することは、政治的な現実の中ではほとんど選択の余地がないことだったのだろう。

今は、具体的な「軍事的抑止力」を踏まえた国際政治の舞台に、日本も否応なくプレーヤーとして舞台に上らねばならない時期にもなり、国民もまたそれが沖縄であれ鹿児島であれ、黙って堪え忍ぶようなことはしないだろうし、官僚のシナリオを介して政治家が地元との根回しをしてすむ時代でもなくなった。

また、こういうある種の「NIMBY」問題(注)について、国民レベルで考えていく必要が出てきている、ということでもあるだろう。
国(中央)VS県(地元)という単純な対立ではすまない。
鳩山首相の「愚かさ」を、ではいったいどんな「首相」の振る舞いと「交換」すればいいというのか。
その答えは決して簡単ではないだろう。

育ちがよく、あまり深く考えずに他人の言葉を受け入れる身振りをし、結局対応しきれない「無能な誠実さ」を持つ首相をこの時期私たちが持った歴史的事実を、むしろ評価できる方向に持っていきたい、と思っているのは、これも私の他にどれほどいるのか分からないけれど……。個人的な「好み」もあるのかもしれないけれど、時代が彼を「選んだ」ことは間違いないんじゃないかな。
「つけ」を先送りするのではなく、その単純な解決方法がないという「現実」を、身をもって指し示した、という意味で。


そろそろ私たちも、「政治的」な場所に一人一人が立って思考するべき時代に入った、ということだと思う。
沖縄の人が反対するのも当然。徳之島の人が反対するのも当然。
じゃあ、どうすればいいのか。「政治や軍事の専門家がうまくやってくれよ」というだけでは、すまないと思うのだけれど、どうなんでしょう。




注:「NIMBY」とは「not in my backyard」の略。「必要性は分かるけど、うちの近くは困るよ」という住民の発想のこと。
かつては地元民のわがまま、といったニュアンスを含んで否定的に使われることも少なくなかった。しかし、現在では全体の不利益がある特定の地域や市民にのみ負担されることの「不公平さ」をどう乗り越えるか、という課題として用いられる言葉。

沖縄の米軍基地問題は、国際関係の外交問題も抱えているので、それ自体が「ゴミ処理施設」「原発」などと同列には論じられない側面もあるが、一方では「NIMBY」的問題として分析・検討・対応が必要な側面も持つと考えられる。


バドミントンの試合を見た

2010年05月07日 20時52分13秒 | 教育

バドミントン男子ダブルス地区大会決勝の試合を見た。

迫力に圧倒された。

お互いの意図を十分に察知しつつ、時にはそれを力でねじふせ、あるいはその裏をかこうとして、高い技術を駆使してシャトルを打ち合うその姿は、とても美しかった。

スポーツの試合はコミュニケーションだとつくづく思う。

さしたる意図なくシャトルやボールを打つ(蹴る・投げる)のは論外としても、自分だけの「つもり」では試合にならない。
誰でも経験があることだと思うが、力量が拮抗し、ある程度相手の意図が読め、あるいは意図の読めない程度が同じぐらいの方が、ゲームは圧倒的におもしろい。

適度に読め、適度に読めない「敵」こそが「楽しいゲーム」を作る。

そしていうまでもないことだが、高い技術を持つ選手同士は「美しいゲーム」を作り上げていくだろう。

選手は個々に、さまざまなレベルの課題を持つ。いっぺんに「美しいゲーム」は求めるべくもない。
だが、ひとつひとつの課題を自分のものとしてクリアしていくと、その先にはこういうゲームができるのだ、という思いは、後輩たちを感動させ、勇気づけるのだろうと思う。

私自身はスポーツをやったこともないし、持続的な練習、修練を続けたこともないけれど、「ことば」について、「表現」についてなら、苦しんだことがないわけではない。

ある面では、必ずしも遠いところではないのかもしれない。
スポーツも一つの表現であり、表現もまたある種の身体に隔てられた場所を超え出ていこうとする運動である、という意味では。








眼も駄目だが「歯」もとれた……

2010年05月06日 22時50分32秒 | インポート
連休最終日、朝食をとっていたら、奥歯がとれた……。
休みが終わって、仕事が始まる直前に取れる歯っていうのは、「休みたい」心の象徴かっ、と思う。
もはや土台にするのも難しいほど削られてしまった奥歯なので、しょっちゅう取れるのはしょうがないのだけれど、なんとなく凹む。

考えてみれば、連休前に取れるよりはましか(苦笑)。

そして歯医者さんの予約を取るときのあの気鬱な感じ。病院の予約って、どうしてああも人の気持ちを沈ませるのだろう、と思う。
むろん、病院の予約を喜々としてする人なんてそうはいないんだけどね……。

さて、歯を治して連休明けを元気に過ごそうー!(……むりむりむり……)




眼鏡が合わない……

2010年05月04日 18時41分13秒 | インポート
どういうわけか、最近になって作った眼鏡が合わない。
昔の眼鏡の方が安心してかけられるのだ。

考えたくないことだが、おそらく「老化」が、急激な眼の能力の変化として現れつつあるのではないか。
目の前の変化に合わせて眼鏡をいくつか作ったものの、遠近両用の、時間をかけて合わせた高いやつがむしろいけない。

単純な老眼鏡はまだまだ使えるのに。

Sigh……。

どのあたりで視力の変化は落ち着くのだろうか。乱視も入っている不便な眼だが、本を読むのに支障がでるのは困る。
本当に困る。

視力の状況に応じて変化に対応してくれる眼鏡、なんてできないかしら。