龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

『ビヒモス』第一編を読んで。

2014年02月04日 12時00分18秒 | インポート
いろいろポイントがあるが、三つほど。
一点目。
当時のワイマール体制における「権力」のグダグダした配置がとても他人ごととは思えなかった。
それ以外の政治勢力たちが自分たちの主張や利害にその主張を縮減してしまっているときに、少数派にすぎない国民社会主義者(ナチス)は「遵法(じゅんぽう)性」を執拗なまでに唱えて政治活動をつづけ、その延長線上で議会軽視、自由主義の排撃、民主主義の否定を主張し続けていったという点がひとつ。

合法的に権力を奪取した、といういいかたは雑駁なんだな、とわかってくる。

でも、間のボールを拾わなくなった今の日本においても、合法的であれば何をやっても良いという「勢いの良い」勢力に、その「間」のボールを拾われてしまう、ということが起こるんだな、と教えてくれる。
政権に入った時点でなお、少数派なんですよねナチスは。

二点目。

次に、その「合法性」という見せかけの裏側で、アーリアン化(すなわちユダヤ人排除)が、政治的にも経済的にも法律的にも文化的にも周到かつ計画的に進められていることに慄然としたという点。
アイヒマンは、構造的に作成されたのか、と思わせられる分析が胸を苦しくさせる。
合法非合法を含めて、あらゆる手段をためらいなく打って行くその「効率性」。熟議の遅い速度に慣れていると、ー目が慣れないうちにやられちゃうということが起こってくる。

その記述からは、アイヒマンというアイコンや国家主義というアイコンだけでは語りきれない国家規模のもの凄さが伝わってくる。
淡々と分析されているだけに怖い。

もっと言うと、この著者の言に従えば、これを主導しているのは「国家」ですらない。

国民社会主義、おそるべし。
ここでは国家とか合法性はほとんど隠れ蓑という感じだ。

新NHK会長やそれに関連する首相の答弁も、「合法性」を語る姿勢「遵法」の姿勢においてはこの文章における国家社会主義者たちの言動と比較参照すべき問題があるように思う。

それは同時に、ワイマール体制をある種の(良きにつけ悪しきにつけ、絶対的であろうが過渡的であろうが)自明の前提としていた当時の諸勢力と、自分たちを比較して見る必要がある、ということでもある。


また、アーレントが、アメリカという国についてはよく言及しているのだけれど、それだけでなく、考えて見たいと思ったことがある。

アーレントがシオニズムに対して距離を取り、アイヒマン裁判の不当性を主張しつつなおイスラエルという国の存在を認めるのがちょっと謎だったけれど、これをみていると「国家」を持たない「集団」がいざとなるとどんなにか酷いところに「合法的」に追い込まれていくかがよく分かってきて、だから、アーレントをまた「国家」を軸にあいてあらためて読み直さねば(ってほど読んじゃいないんですが)思いました。

三点目。
カール・シュミットとニーチェが言及されているけれど、この思想家たちは、国民社会主義者たちがドイツを動かして行くことになったワイマール体制の崩壊とナチズムというシーンでどんな役割を果たしたのか、について興味を抱いたという点。
ニーチェはどうにも肌が合わずにまともに読んだことがなく(声高にニーチェが好きだってひとに苦手な人が多かっただけなんですが)、これからさきも興味は湧かないような気もするけれど、この時期のドイツにおけるニーチェ受容の文脈でなら読んでみてもいいかな、と思うようになった。
カール・シュミットは、いろんな人が引用していて、無視できないのは分かる。この『ビヒモス』の書き手でさえ、シュミットには一目置いてる感のある微妙な表現をしている。
このあたり、素人が手を出す必要もないのかも知れないが、すごく興味深い。

カリスマ心理の章は、まだヒトラーの分析がなされていないので(後で出てくるのかな?)、ピンとこない。
ルターとかカルヴァンの受容などとかは勉強にはなるが、この本でなくてもいい。

しかし、とにかく日本人は今読んでおいていい本のベスト10ぐらいに入るんじゃないか、という一冊。
個人的には橋下徹の分析にも役立つ。
もちろん、国民社会主義者と彼が何か思想的に通底しているとかいうざっくりした話じゃありません。
ただ、
権力とは何か。
遵法性とはどういうことか?
国家とは?
議会とは?
といった問題を考える上で、この本と橋下徹の言説とはどちらもとても役に立つサンプルだ、という意味です。

なぜフランツ?ノイマンの『ビヒモス』がクリアな分析なのか。

2014年02月02日 11時34分11秒 | インポート
もしくは國分先生が推薦する本の特徴。

Facebookで書いたんですが、こちらにも。

この本、私なような「素人」でも読めます!

なぜなら、論を進める上での問題の設定と分析の方法が明晰なんですよ。

ワイマール体制をアメリカにいて外側から客観的に(しかも第二次大戦当時に!)、しかも、亡命する前はその体制の政治の真っ只中にいて内情を正確に把握していた人ならではの分析です。

師匠(國分先生)オススメだけのことはあります。

師匠がネット上で敢えて勧める本は、やっぱりをを!ってなります。
もう一冊(関係ないけど)すげえって思ったのは、スピノザとホッブズの聖書解釈を17世紀の政治情勢や宗教的現実を踏まえて論じた、

福岡安都子さんの
『国家?宗教?自由』

です。これも凄い。

何がすごいって、何せまず17世紀における現象の分析をガッチリと、可能な限りリアルに踏まえた上で論じているわけだから、(ちょっと言い過ぎかもしれないけれど).結果として、その問題においては素人であってさえ、明晰に思考の歩みを共有できる可能性がある、という点がすごいのです。

そういうクリアさは、師匠(國分先生)自身の著作(たとえば『スピノザの方法』や『ドゥルーズの哲学原理』)とも共通している明晰さです。

そしてそれは、誤解を恐れずに言えば「圧倒的にわかりやすい」ことでもある。

いわゆる「早分かり」をリミットを取ると「今」の情勢の前提を暗黙に前提し、それに依存した
展開になりかねない。

ありがちなことだ。

國分さんの紹介する本は、議論が可能になる条件を自ら構築しつつ、その対象の中に踏み込んで、しかももうひとつのありがちな「その対象の専門家しかわからない」ところで満足するのではなく、チャンと私たちの生きる「今」に帰ってきてくれるのです。

ただ情勢に合わせて言説を紡ぐのとも違い、一方専門家しか分からない些細な「正解」に立てこもるのでもない場所への往還。

その「往還」を

知性の活動のリミット=「菩薩遊戯」

と仮に呼ぶとするなら、本当に至福のテキスト、かもしれません。

ちょっと「盛り過ぎ」かな(笑)
でも、ポイントはそこだと睨んでいます。

「つながりすぎる社会を生きる」浅田彰×千葉雅也

2013年12月11日 22時01分21秒 | インポート
朝日新聞の文化欄に、千葉雅也『動きすぎてはいけない』出版を踏まえて、浅田彰と千葉雅也の対談記事が掲載されました。
以下の全文を読むには朝日新聞デジタルIDが必要かも知れませんが。

「つながりすぎる社会を生きる」浅田彰×千葉雅也

http://digital.asahi.com/articles/TKY201312100317.html?_requesturl=articles/TKY201312100317.html&ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201312100317


http://digital.asahi.com/articles/TKY201312100317.html

タッグチーム國分×千葉の意義(1)

2013年11月22日 12時14分46秒 | インポート
プロレスにはタッグマッチという戦い方がある。
というか、あった。子供の頃テレビでプロレスを観た時、このタッグマッチに心を奪われた。
小学校の時、これに匹敵するほど「心を奪われた」体験を挙げるとすれば、手塚アニメ『ビッグX』の変身シーンぐらいだろうか。
ウルトラマンや巨人の星も凄かったし、『ウルトラセブン』は今でも尊敬しているけれど、プロレスのタッグマッチほどではなかった。

タッグマッチとは、青コーナー赤コーナー二手に分かれ、それぞれ2人づつ(稀には3人)レスラーが配されていて、リングに立つのは一人づつ、で戦うのがルール、というプロレスの試合形式だ。
片方のコーナーが正統派なら、もう一方のコーナーは悪役(ガイジンチームが多い)。そして正統派(こちらは主として日本人)は強いヒーローとー比較的打たれ弱い選手がタッグを組む。

ヒーローが悪役にやられて弱い方が助けることもあるし、弱いレスラーが虐められて、そののちヒーローがそれをフェアプレーでやっっつけ返すこともある。
悪役も観客もふくめて、そのドラマを享受するイベントだった。

二人の関係を観ていて、今朝ふと、あのタッグマッチの興奮を思い出した。

正統派レスラー、ベビーフェイスはもちろんこの場合國分先生だ。タッグを組むのが千葉先生。
弱そうなところを出して、國分先生の出番を提供する。

ここで注目しておきたいのは、二人の論について、複数の人が(千葉さん自身も)「並行的(平行的)」と読んでいることだ。
非意味的切断とか、ア?ポステオリな倫理をいう、むしろドゥルーズにおけるヒューム的側面、つまり切断の側から主として論を展開する千葉さんが、一元論的に発生から論じていくスピノザ主義者の國分さんとの間で、自説が相方と「平行的(並行的)」だ、というのは大変興味深い。

僭越ながら、このタッグは絶対要注意、というか要注目だと感じる。

今、池袋リブロの二人の対談の流れで、翌日の表象文化論学会でのお二人の書評パネルディスカッションもメモにまとめている。
ここでのヒール役は、「フーコー主義者」と、ちゃんとリングネームを掲げてサービスしてくれる佐藤嘉幸先生(筑波大)。
「フーコーがマルクス主義でどこが悪い~」
と雄叫びのサービスもあげてくれています。
最後には、
「千葉さんの革命はエステティックなものか」
との乱闘フラグも(^_^)。
無知な聴衆の私はエステティックがわからずに、千葉さんの怒りパフォーマンスで内容を想像してましたが。
美学的ってこと?
それは革命についての場外乱闘シーンだけれどね。

佐藤先生は千葉さんの本を、「ヒューム的切断とベルグソン的な連続性の二面性を、それぞれの側面おいて二重化した戦略をとる」
と評している。
同じパネラーの堀千晶さんもそこを「戦略」と読んでいる。

國分さんは、そういう研究「主体」からの発話とは全くことなった表現で、このタッグの相手の「キズ」を迎えるのだ。
詳細は本日付の日経新聞の書評を参照されたい。

http://mw.nikkei.com/tb/#!/article/DGXDZO62701050W3A111C1MZC002/

ようやく、この中間領域に「表現」があたえられた、と感じるのは、わたしだけだろうか。

それを國分功一郎氏
「新しいことばの創造」
「新しい論述水準の創造」
と呼び、千葉雅也の本のことば達を称揚する。

タッグの意義の一つが、ここにも現れている。
(この項続く)






千葉雅也×國分のドゥルーズ対談が二本!

2013年10月25日 05時34分58秒 | インポート
2013年11/8(土)、11/9(日)と連続で、千葉雅也先生と國分功一郎先生のトークがあります。
聴いておきたいなあ。
池袋リブロ11/8
http://botanyfree.appspot.com/www.libro.jp/news/archive/003709.php

表象文化学会11/9
http://www.repre.org/conventions/8_1/

前者は千葉雅也『動きすぎてはいけない』の出版記念イベント、
後者は二人(國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』を含む)の書評イベント、という表題の違いはありますがいずれにしても「生成変化と原理」両方から光が当てられた「ドゥルーズの楽しみ」を、味わっておきたいものです。
震災後、朝日カルチャーセンターで行われたお二人の対談で、
「僕は二元論ですが、國分さんは一元論です」
と千葉さんが冗談めかして言っていたのを思い出しました。


このホッブズ本の訳者注解を読むべし!

2013年07月28日 10時34分02秒 | インポート

伊藤宏之・渡部秀和訳 トマス・ホッブズ「『哲学原理』『自然法および国家法の原理』柏書房の訳者注解を読もう、という記事を

メディア日記龍の尾亭に書きました。

この本の注解を読め!伊藤宏之・渡部秀和訳「『哲学言論』および『自然法および国家法の原理』」柏書房刊
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980438

労作です。
そして超便利!ホッブズ辞典として売り出したいぐらいです(しかし、需要はないだろうなあ……)。
みなさん図書館で一読を(福島県郡山市のジュンク堂にも売ってます)。


「ドゥルーズの哲学原理」第1回講座メモ をアップしました。

2013年07月13日 12時36分22秒 | インポート


メディア日記龍の尾亭に

國分功一郎先生の「ドゥルーズの哲学原理」講座第1回メモ

http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980433

をアップしました。全4回の第1回目です。


例によって間違いも含んだ忘備録にすぎませんが、『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)の読解補助メモにはなるかもしれません。
よろしかったら。



「ドゥルーズの哲学原理」を受講する前に (1)「真理への欲望」(フーコー)のこと

2013年06月16日 11時49分00秒 | インポート
「ドゥルーズの哲学原理」を受講する前に
(1)「真理への欲望」(フーコー)のこと

國分功一郎「ドゥルーズの哲学原理」を受講する前に

國分功一郎先生は、昨年度朝日カルチャーセンターでスピノザの通年講座(12回)を実施しました。
今年は年4回、ドゥルーズについての講義。

その講義メモを今からまとめようとしているのだけれど、今回はその前に、個人的な話をちょっとだけ。

講座内容はすでに岩波書店の雑誌『思想』に連載されているし、6月19日には『ドゥルーズの哲学原理』として出版もされる。

わたしがここでいそいで細かく書く必要はない。

スピノザ講座の場合は、後半のエチカ論についてはまだ本が書かれていない先生自身の思考の前線のライヴだったから、たとえメモが不備でも、急いで書いておく意義が多少はあったけれど。


むしろ私個人としては、ドゥルーズにたどり着くまでの道筋をまとめておくことも必要かなと。

もしお暇でしたらしばらくお付き合いを願っておきます。


スピノザを集中的に読み始めたのは、2006年の10月からだ。

その頃私は、フーコーのコレージュ・ド・フランス講義と文庫のフーコーコレクションも読んでいる。
萱野稔人の『国家とは何か』を読んだのがその2005年。彼はフーコー研究者だから、そのあたりからもう一度哲学を読むことが習慣になり始めてきたのかもしれない。

年齢的には40歳代半ば。

文学からもう一度哲学へ、という自分の中での嗜好の変化を改めて自覚するのはもう少し後のことだが。

しかしそれにしても、アマゾンの履歴は、ほとんど「致命的」と呼べるほど決定的な情報だ。

今日検索してみて初めて実感した。
私自身が全く覚えていない「読書歴」を、ほぼ完全な形で時系列(月毎)で教えてくれるのだから。

これをみただけで、私と面識がない人でも、

「そうか、きみはそんな奴だったんだな」

と私の無意識の「系譜」を分かってしまうだろう。
まあ、一銭の得にもならないからこれで犯罪は構成しにくいだろうけれど、かなり決定的な情報であることは間違いない。

さて、フーコーは、大学の頃から断続的に触れてはいた。
そのなかでも、たしかコレージュ・ド・フランスの就任講義だった『言語表現の秩序』は、私の理解の範囲内でさえ(つまりは短かったってこと)衝撃だった。

いわゆる「真理への欲望」のはなしですね。

いってみれば「真理厨」だった私の頭の中のヒダヒダがひっくり返された瞬間だった。


蓮實重彦の文芸批評経由で、フーコーもデリダも読んでいたが、高校の倫理の授業では哲学といえば実存主義までだったから、基本、フーコーもーデリダもいくら読んだって意味が分からない。
もちろん、フロイトもマルクスも全く読めない。

当時流行していたポスト構造主義的なラインナップの中で唯一分からなくても読めたのがラカンであり、現象学ではメルロ・ポンティだった。
あとは昔からお気に入りだったヴィトゲンシュタインですかね。

今となってみると、
「立てられた問いと対象との距離感」
が短ければ、かたられようとする答えは分からなくても何とか付いていけるけれど、対象が何で、それに対する問いがどうなされているのかが両方とも分からないと、とにかく読めない、ということだったのだろうと思う。

無論、早分かりの解説本は読んでいたが、まだ時代も後期近代を生き始めたばかりだったから、自分の生きている今を十分には相対化できておらず、早分かりが早とちりを招く危険が大きかった。

(早分かりって、いちばん大きなフレームだから、正確性を問わなければ案外大切だと思う。これも今にして思えば、だけれど。ただ、渦中にいると早分かりがちっともわかりやすくなかったりしてね)

大学を出てもなお「真理厨」だった私にとっては、

例えばメルロポンティの「間主観性」とか、
あるいはラカンの謎めいた「主体」の虚構性=構成性の指摘だとか、
またヴィトゲンシュタインのように前期と後期で全く異なった世界像を提示して「意味」の零度みたいな場所を指し示しあるいはその世界像の輪郭をなぞり示そうとすることばの身振りとか

を(彼らがはたして私の中の稚拙な問いを問うているのかどうかは問題ではなく)、自分の「問い」を問うためのフィルターとして、彼らのテキストの指し示す「意味」を「使用」していたのだろう。

ただ、そのときうっすらと半ば無意識に感じていることがあったとすれば、頼まれもしないのに彼らが彼ら固有の問いを問うその欲望が、「真理への欲望」に還元しきらないものだとするならば、彼らのテキストはどこからどこへ向かっているのだろうか、という問いでもあったかもしれない。



「奪われた野にも春はくるか」鄭周河のこと

2013年06月09日 16時51分44秒 | インポート

NHKこころの時代「シリーズ私にとっての3.11」「奪われた野にも春はくるか」写真家鄭周河を見た。

http://monodialogos.fuji-teivo.com/ubawaretanonimoharuhakuruka/comment-page-1#comment-2189

これはすばらしい番組だった。

同じシリーズで徐京植の番組の方は、切れ味が鋭い分だけズレがちょっと辛いモノローグになっていたのに対して、鄭周河のドキュメンタリーは、あくまで静かに、しかし深いところで対話=共振しているのを感じた。

できれば、二つを見比べてぜひ感想をお聞きしたい、と思うドキュメンタリー二本でした。

どちらも、南相馬市在住の佐々木孝さんという方のブログ「モノディアロゴス」からの引用です。
徐京植との対話の中で、
「ステイトでもなく、ネイションでもなく、カントリーなんだよね」という佐々木さんの声が響く。

おそらく、東京で大学の先生をしていた彼にとっての南相馬は、ずっと人生を生きた場所ではあるまい。
しかし、きっと、生きた時間の長さだけで「お国」が決まるというわけでもないのだ。


モノディアロゴス
http://monodialogos.fuji-teivo.com/

も、一度ぜひ訪問されたし。




第2回「エチカ福島」セミナーのお知らせ

2013年06月09日 01時55分06秒 | インポート
「エチカ福島」第2回セミナーは
6/22(土)13:00~、
福島県津美術館講堂で開催されます。
資料代は500円(美術館の常設展示チケット付きです)。

今回は、地域アートプロジェクトの活動を続けている新潟大学の丹治先生の報告をいただき、

「福島でつながる」

ことの可能性と意味を考えたいと思います。


日本は一つとか東北は一つ、といった大きな括り方や単発のイベントでは、福島の中に走る無数の分断線の存在を踏まえた上で繋がっていくことは困難だ、と私たちは考えます。

私たちは、身近な人たちとさえ簡単には繋がれないもどかしさ、ズレを抱えて生きています。

そのズレをなかったことにはできない。


その「差異」=「分断線」を抱えたままで、どうやったらもっと「緩く」、もっと「根底的に」、響き合うことができるのかを考える必要があると思うのです。

丹治さんは、新潟の町中でも、過疎地域の限界集落でも、地道に、丁寧な活動でその「場所」におけるアートの活動によって人々が出会い、繋がる「時間」と「空間」を組織しつづけてきた、プロフェッショナルです。

私たち「エチカ福島」が彼の話を伺いたいのは、大きなフレームを最初から当てはめてしまうのではなく、身近な、今この身体を抱えたこの場所と時間から、人と出会っていくという小さくて大切な「場所」について思考し行動しつづける実践者だからこそ、なのです。

ぜひ、6月22日(土)は、福島県立美術館の講堂においでください。
13時~16時まで、福島における地域アートの可能性、そしてそこを起点とした、福島に共に住む者たちの「ともがらのことわり」(エチカ)について、ゆっくりと話をしてみませんか。




小さい「嘘」が世界と出会うとき

2013年04月28日 08時18分41秒 | インポート
どこかにお出かけの方、多いんでしょうねえ。

いいなあ。

今日は籠もって原稿を書きます。

でも、これがなかなか書けないんだよ。

プロフェッショナルな書き手は別として、文章には書けるときと書けないときがある。

特に、まだ存在していないものやことについて書くことは、難しい。

存在しない事象を想像すること自体は、さして困難ではない。

嘘をつけばいいのだから。

嘘をつくためには自分が追い込まれればいい。
ギリギリになれは、リアリティのある嘘の一つぐらい、誰でもそれなりにひねりだせる。

あるいは、既にそこにあるものや既知の手順で料理するのであれば、練習すればなんとかなるものだ。
とにかく食材やレシピが用意された料理、入試問題などががそれに当たるだろう。


本当に難しいのは間の裂け目を見つめ続けること、そしてその瞳を閉じずに「可能」を書ききることだ。
追い詰められた瞬間のリアリティをその場しのぎで終わらせずいかに持続していくか。そしてそれを「世界」といかに出会わせていくか。

それは新しいレシピを一から創造していくことにちかいのかもしれない。

やれるものならやってみろ。

もちろん、「一から」というのは比喩にすぎないのであって、ベタで全く一から世界を立ち上げる行為は、無人島で他者と対話する、ぐらいの狂気をはらむ。

いつかどこかこの世界と出会っていくようなものだからこそ、それは「可能」と呼び得るわけだし。

6月の「エチカ福島」で、地域とアートの出会いを組織しておられる丹治先生をお招きするのもそこがポイントだからだ。

緩くていい。小さくていい。

むしろ芥子粒のような小さな「皺」や「裂け目」から始めるからこそその営為は、単なる想像とは決別して「可能的相貌」を現すだろう。

世界と出会う、とはきっとそういうことだ。

そう言うことが書きたいんだけど。
そういう風に書きたいんだけれど。