ふたば未来学園高校のSGH研究発表会に行ってきた。
1,はじめに
2020年2月4日に実施された福島県立ふたば未来学園高校の研究発表会を見てきた。
とてもおもしろかった。
資料詳細はこちらを。
https://futabamiraigakuen-h.fcs.ed.jp/blogs/blog_entries/view/111/18fa56de30489ff7c88909f0fad8d892?frame_id=29
福島県立ふたば未来学園という学校は設立経緯が普通の県立高校とは異なり、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故の被害・避難を受けて、地元の町の要望と国の政策との両面を受けて立ち上げられた、「政治的」な高校だ。
加えて今年度から中学校も出来、原発事故地域周辺に作られた初めての中高連携の学校ということになる。
予め確認しておくと、設立当初は地元住民の子どもたちの受け入れという役割も大きかったが、次第に地域の人の師弟の割合は減っていき、現在新しく始まった中学一年生においては、地元地域子弟の割合は2割台まで減っていると説明された。
だから、生徒の実質からいえば、必ずしも
「東日本大震災の被害を直接に受けた地元地域の子弟による学校」
というわけではない。
そうはいっても一方、一般に理解されている前述の成立の経緯から言えば、善し悪しは別として「国策学校」、政治的な意義に裏打ちされた予算や政策の「意味」を持たされている学校でもある。
元公立学校の教員だった者(私)から言わせれもらうならば、正直なところ、本当に「難しい」舵取りを強いられる「仕事」だろうな、という印象をもつ。
校長先生や(副校長さんは国からの人だから確信犯なんだけどね)
先生方、生徒たちは色々大変なんじゃないかなあ、と推察。
ともあれ、設立から5年の節目に当たる今年度(SGIの研究発表とはいいながら)、設立5年目の現況報告といった意味で受け止め、参加させてもらった。
2,興味深かったのは3点
①おもしろポイントその1
校長の説明と質疑
広島県から視察にきた方(わざわざ遠方からきてそれどうなんだろうかと個人的には思うけれど、真面目な人なんだろうね、きっと)が、この総合学習三年間8単位で、
「(受験に)間に合うんでしょうか?」
という質問をした。それに対する校長の応答がふるっている。
「さあ、どうなんでしょうねえ」
「もしかすると足りないかもしれませんね」
だった。やるな、校長先生。
総合学科的な研究発表で、総合科目をやって受験に間に合うのか、というのはそれ自体場違いな質問だろう。
だが、現実に総合学科に在籍していても大学進学したい生徒はいる。そうすると範囲が終わらなかったり、頻出の知識事項にふれないまま受験を迎えることになるのは確かに心配だ。
それもまあ分かる。
間に合いますよとも間に合いませんよとも言わず、あたかも他人事のように応接する校長にエールを送りたくなった。
つまりさ、決定的に手間がかかるわけよね。総合的な学習とか、プロジェクト型の授業って。だから、単位の奪い合いという発想をしている限り、
「総合の学習なんてじゃまだ」
という発想はなくならない。
そしてそれは総合学科だから間に合わなくてもかまわないという話でもなくて、そういう中身をやりつつ、個別に進路対応をしていくということでもある。
実際、校長は補足の説明で、必要な場合は個別対応になりますね、とも付け加えている。
校長の話でもう一つおもしろかったのは、5年間の感想として、「生徒たちがいい子すぎる」と言ったのが印象的だった。「権力(のあり方)についてももう少し考えてもいいのに」とも。
県の方では、最初この学校の設置に必ずしも前向きな意見ばかりではなかったとも聞く。中学校の併設にも慎重な意見があったとも。
結果、「地域の要望」&「国策」として原発事故被災地域に作られた学校なのに、現実には地元の子どもは減る一方。
そんな中で運営される豪華な施設と充実したカリキュラム。力を入れた人事交流(この学校を勤務すれば、出身地域以外2地区10年以上回らなければならないルールの適応外になる)によって、成果も求められる。
とてもまともな神経ではやっていられない状況なのではなかったかなあ、と想像する。
だから、校長が「いい子すぎる」とつぶやいたのは、生徒に対する評言に止まらないのではないか、とも思えた(考えすぎかな?)。教員の人たちも、もうちょっと緩くやってもいいかも……っていうのはよけいなお世話か(笑)。
②おもしろポイントその2
公開授業中、教室の入り口でネイルの手入れをしていた二人の女子生徒
校長の概要説明が終わると、授業公開の時間になった。豪華な校舎は廊下に人がいるとすぐ分かる病院=監獄の形式ではなく、三角形が組み合わされた棟ごとに角度のついた作りになっていて、見通しが悪い(それ自体はいいことなんですが、場所がわかりにくい)
。
いたるところにオープンスペースもあり、吹き抜けもあり、普通の学校とは違う、いい感じだ。
そんな中、高校2年の教室でグループごとに今後のプロジェクト(発表?)の作業計画をたてる授業を見学したところ、入り口の女子生徒二人が、爪に液体を塗って、ネイルの手入れをしていた。
つい教員根性を発揮して「君たち何をしてるの?」ととがめたくなる光景だ。
全国規模の発表会で、視察にきている大勢の教育関係者の前で爪を塗っているんだから、けっこう肝が据わっているものと見えた(笑)
他方、研究発表会だからという大人の事情で体裁だけ整えてもしょうがない、という「大人側」の姿勢もちょっと見て取れる。
生徒にたいして「規律訓練型」の教育を生徒にさせるタイプの「教員向け規律訓練」を有形無形に受けたわたしのような
教師なら、お尻がむずむずしてくる光景だ。
だが、教師も生徒も、そんなことに動じる気配はみじんもない。
私にはコレが爽快だった。
「だよな」
って感じがした。
おそらく、それも含めて見てもらいましょうってことなんだろうなと思う。
ちなみに、同行してもらっていた大学院生(現職マスター)はさすがだった。
丁寧に、
「きみたち何をしているの?」
と聞いたところ、
「お年寄りにお化粧とかネイルとかしてあげるととても喜ぶという経験をして……」
という説明が返ってきた。
まあ計画の時間だからその練習ってこともないのだろうが。
校長の言葉が、彼女たちの姿と少し重なって見えた。「いい子たちばかり」が不安だとしたら、この子たちのパワーを使うようなタイプの授業者を集めればいいんじゃないかな、とも思った。
もし、そういうことにエネルギーを割く時間が不足しているのであれば、校舎に下りるお金の数十分の一でいいから人的資源に投入したらいいのに、とも。
確かに、放課後の協働スペースでは、NPOカタリバの人たちが常駐しながら生徒たちとふれ合っている。個別進路の対応や、授業・プロジェクトにうまく参加できない子たちのフォローもしてもらえそうだ。
でも、そこ「ななめの関係」(南郷副校長)とかいって済ませてていいのかしらん、と、入り口のネイル少女たちを見ていて思ったのも事実。
授業規律・規範の面から言っているんじゃなくて、彼女たちのパワーの方が実は大きくて、今のところ負のパワーかもしれないけれど、それとどう向き合うかが原発事故と災害とどう向き合うか、にも(教員のたちの姿勢としては)つながるんじゃないかな、という感想を持った。無責任に言うことでもないのですが。
③おもしろポイントその3
生徒発表
SGHと探求学習の成果といえば、やはりこの生徒代表の発表だろう。
発表は二つあって、一つは木戸川の鮭を使ったフレークの商品化で、もう一つは地域交換留学というプロジェクトだった。
(詳細は資料を参照のこと)
これは発表もさることながら、それに対する質問がおもしろかった。
前者に対する質問は、
「鮭の獲れる時期」が限られていると分かったときにどうやって諦めずに商品化までこぎつけたのか、そのときの諦めなかった理由をききたいというもので、
発表者はそれに対して「諦めるのは悔しいから」、といった返答をしていた。かみ合っているようないないような微妙なやりとりだったけれど、それがおもしろかった。
この探求学習は一種のプロジェクト学習でもある。特にこういう商品の企画を考えるときには、とにもかくにもプロジェクトを実現する事が重要だ。
今までやったことのない企画だから困難が出てくるのは当然だし、過半は「困難」を解決する仕事、ともいえる。
諦めるのは悔しい、私たちにも冷凍保存鮭の「分け前を」
といった市場参入への「欲望」は、きわめて適切な(笑)姿勢ではなかっただろうか。
他方、それを語る彼女の語り口は、質問者の求める「なぜ」というプロットの問題ではなく、(この高校生にとってはむしろ)「物語」(こうしたらこうなった)という水準の「語り」なのかもしれない、とも思った。
そう言う意味でおもしろかった。
最後の発表は、原子力防災探究ゼミ「地域交換留学生」についての発表だった。
全国の高校生と双葉郡の高校生をつなぐ交換留学生のプログラムを実施することで、他人事ではなく「自分事」としてこの災害を受け止めてもらう、というものだった。
それに対するフロアからの質問がまたふるっていて
「どうやったらその交換留学生が自分事として受け止めたと分かるのですか」
というものだった。
すると発表者は
「行動ですね」
と間髪を入れずに応える。
「具体的には、最初のアンケートでは一行しか書いてもらえなかったが、最後のアンケートでは、詳細かつ具体的に書いてもらえるようになった」
考え方が変わるということでは必ずしもなく、同じところに戻っていくのであっても、その過程があるということが大切、との指摘もしていた。
資金のことについても、補助金を求めたり、クラウドファンディングをしたり、といった状況をきちんと説明していた。よくできました、という発表だったと思う。ある意味痛快でした。
3,最後に
この高校は繰り返しスタッフも指摘しているように、他地区から意欲ある生徒が応募してきて真剣に学校を利用しながら成果を出している生徒、スポーツ環境に魅力を感じ世界を目指している生徒、行き場所・生きる場所が見いだせずにとりあえずこの学校に入学はしたものの自分を出せずポジティブに活動できない生徒、と多様な生徒が併存している学校だ。
小学校や中学校のように、時間事に生徒の活動について、包摂を前提に授業経営をしていくのは難しい側面がある。
もし私がこの学校の教員だったなら、一体ここで何ができるのか、どうしたらいいのか、を自分の頭の中で考えていくと、簡単に解は出てきそうもない。
ただ、こんなにお金をかけて、こんなに研究を背負って、こんなに地域を背負って、国の政策まで担って、学校というものは経営しなければならないものなのか、という疑問はどうしても残る。
もっと貧乏で規模が小さくて、いろんな大人がいて、大人たちが新しい「包摂性」「公共性」を備えたスタッフとして活動できる、そんな学校を作る(できなければ誘致でもよい)方がなんぼかいいんじゃないか?
そう思う。
解の一つは、たとえばたまたま1月25日に訪ねた
南アルプス子どもの村
にある。ふたば未来に投入されたお金があれば、子どもの村規模の運営なら数十年可能じゃないかしらん。あるいは寮費の補助をしてもよい。
ふたば未来学園は、原発をベースロード電源として維持する方針の現政権にあっては、むしろ「オルタナティブ」な政策側面を持っている。あまり政治に関心のない人にとってもそれは自明のことだろう。
安倍政権に押し込められながらも、教育の自立性をまあまあなんとか保とうとしている文科省教育行政の予算獲得の旗印の一つなのかもしれない。
だがこのやり方は、原発行政の「ドーピング」政策に他人のそら似程度には似ているという気もしてくる。
つまり、教育って当たり前だけど、内発的な志向をのばしていくのがその自由にとっては大切で、それは子どもたちが互いに互いの近傍に立って、その複数性を前提として彼らたちがプロジェクトについて公共的に議論しながら深めて行く必要があるわけで、それが総合的学習の理想型であるとするならば、もはや国策と地域復興みたいなところはより少なくして、貧乏になりながらも腕に覚えのある、ということは哲学のある教師を全国から集めてくる方がいいのではないか?という思いが湧いてくるということだ。
今年から入った中学生に道徳じゃなくて哲学対話の授業をはじめた、と校長の話にあった。
すばらしいと思う。
でも、重要なのは生徒に哲学対話させるにしても、教員たち自身がまずはゆっくり彼ら自身の「哲学」を問い直してみることの方が大切なんじゃないかな。
スタッフの給料を上げたり、あるいは昇進させてあげたりするより、むしろやりたい教育ができるって方が魅力的だと思うけどな。ここだけ20人学級とか(教員の3倍加配とか)。楽させていいから、成果を、みたいなね。
忙しくしないで。
お金を投入するとエビデンスとかうるさいからなあ、今時は。
以上、勝手な感想でした。