龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

九州に行って来た(15)由布院って

2010年08月27日 03時49分20秒 | インポート
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熊本から高速で大分へ向かう。
南北にやたらと長い東北地方を旅する感覚からすれば、九州は車で動きやすいところ、という印象。
島原半島から熊本へのフェリーも超便利だし。
多少の渋滞があっても、高速道路の料金は、もっと安くていい。なにも一律1000円とか無料とかだけの極端なものではなくてもいいから、安心して安定的に長距離が走れる料金体系を切にのぞむ。
でも、何千キロもいちどに走る(しかも遊びで)のはマレ、だろうからなあ……。

さて、九州の旅の最終宿泊は、由布院、である。
到着時点で午後8時半。
おおよそ街は静かになっていた。
幸い一箇所だけうどん屋さんがまだ開いていたので、飛び込む。「時空」というオシャレなお店。
美味しかった。讃岐で修行した、とのことだが、私の讃岐うどんの印象、太めで腰のある麺というイメージとはだいぶ違い、細麺で、あっさりした感じ。しかし、うまい。
こっちはやっぱり、比較すると蕎麦文化ではなく、うどん文化なんだなあ、と勝手に納得。

翌日由布院の、なんていうんだろうお店屋さん散策地区みたいなところをうろうろする。
プチ美術館みたいなところとか、工芸品店とか、美味しい食べ物屋さんとか、小物ショップとかが、散策地区に点在、あるいはならんでいる。
遊び場所に
リゾート地区軽井沢-那須系
門前地区太宰府-善光寺系
散策地区嵯峨野系
とあるとしたら、
三つ目っぽいですかね。

まあ、こんな形で自然にお店が集まるわけはないから、コンセプトを持って地区を運営してるんだろうけど、頑張ってるなあ、という印象。

結局ここで買ったのは、ジブリグッズ。
こういうショップは他の観光地にもあるけれど、品揃えが独自で魅力的でした(笑)






入院体験記(16)無事退院しました(^^)

2010年08月23日 21時58分13秒 | 身体
10日間に4000キロ走り、10日間は病室の中に籠もって沈黙していた。

これだけ大規模な動と静のリゾートなんて、初めてかもしれない。
ま、もっとお金とお暇があれば、外国のリゾート地にでもいくんだろうけど。

旅行をしても手術入院をしても、おおよそコストは1日1万5千円。

高いのか安いのか分からないけれど、人生の大きな転機になるかもしれない。

30年間仕事をしてきて、これだけ休んだことはない。

のこりは7年半。どんな仕事をし、どんな風に引退準備をしていくのか。
あるいは、残りの人生をどんな形で進めていくのか。

そんな個人的なことも考えつつ、同時にこれかrら日本はどうなるのだろう。
若い人たちにとって、あるいは老人にとってどんな未来絵図が待っているのだろう。
そんなこともじっくり考える機会にもなった。

また明日から日常に戻ってしまえば、その中で考えたこともいつのまにか忘れてしまうのだろうか。
入院体験記は今日で終わりだけれど、この夏のお休みで思いついたことを、これからしばらくゆっくりと反芻
しながら考えて行きたいと思う。

とりあえずは明日からフルタイムで仕事なんですけどね。
病院のベッドの上で10日も過ごすと、日常生活(しかも暑い!)復帰がまずは最大の課題だなあ……。




九州に行って来た(14)熊本城の石垣は「美」!

2010年08月22日 19時08分30秒 | インポート
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阿蘇から高千穂峡に行って、また阿蘇に戻り、
野菜バイキングレストランで敢えて阿蘇野菜に舌鼓を打ち、その後熊本に戻って熊本城を見たのち、高速で大分県の由布院へ。
そんなに阿蘇がいいのか、といわれれば、そうだ、と言っておきたい(笑)。

ちなみに漱石の『二百十日』の冒頭、阿蘇の宿で男二人が夕食を食べる場面、野菜ばかりだ、といって腐るシーンがある(笑)。
阿蘇野菜はその当時から有名だったのかしら。とにかく安くてうまい。野菜は1200キロもクルマで持って帰るわけにはいかない。その場で食べる以外にはない。それだけに、野菜バイキングの印象も強かった。

それに、なにやかにやと理由をつけつつ、クルマで阿蘇山の中をあっちへいったりこっちへ来たりとうろつきまわって走るのは、間違いなく爽快です。

その後、本当は山の中の道を通って阿蘇→大分県まで行きたかったけれど、ゆっくりしすぎたせいで夜道になってしまうことから断念。
夜、ひたすら移動するなら慣れない山道より高速道路が安全なので。
で、せっかくだからと熊本城を見学。

城の知識とか全然ないけれど、石垣の生み出すカーブの美しさは、今まで見たどの城よりも迫力があった。この石垣の曲線を観て触るためだけにでも、訪れる意味はある、と個人的にはにはおもいます。
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城の周りはその夜花火大会だとかで、人出がわんさか。その中で、ある種の女の子たちが「チームワーク」良く、花柄甚平を来ていたのが「印象的」でした。どこのだれがこういうことをおもいつく んですかねえ。
浴衣の花柄そのまま「ジンベエ」なんですよ。
おっさんじゃないんだから、ステテコもどきの花柄をわざわざ来なくてもいいのになあ、と思いました。
ま、流行りならしょうがない。一刻も早くおわってほしいと祈るのみ(苦笑)。


入院体験記(15)例えばのTwitter

2010年08月22日 11時18分45秒 | インポート
茂木健一郎のフォローをしていたら、次のようなtweetが流れてきた(ほんのちょっと前)
引用開始--------------------
フロー(1)よく、緊張していることを集中と勘違いしがちだが、そうではない。理想的な状態とは、集中していると同時にリラックスしているチクセントミハイの言う「フロー」状態である。

フロー(2)ボルト選手が、100メートル9秒58の驚異的な世界新記録を出した時の走りを見ていると、笑って楽しみながら走っているように見える。このように、集中しているがリラックスしている時に、人は最高のパフォーマンスを発揮する。

フロー(3)スピードスケートの清水宏保選手によると、世界新記録が出る時には、主観的にはむしろ「流している」感覚がするほどリラックスしているのだという。実際に世界新記録を出したトップアスリートによる、貴重な証言である。

フロー(4)フロー状態において、人は、最高のパフォーマンスを出しつつ、その時間の流れを深く楽しむことができる。理想のあり方として、そのような至福があることを知ることで、自分の努力の黄金律とすることができる。

フロー(5)フロー状態になるためには、課題のレベルと、自分のスキルのレベルが高いところで一致していなければならない。スキルが及ばなければ、緊張しがちになる。課題が低いと退屈する。課題とスキルの高レベル共鳴がフローを生み出すのである。

フロー(6)新しい課題に取り組んでいる時は、スキルが低いから、どうしてもつまづいたり緊張する。そのような、「山登り」の苦しい時間帯をくぐり抜けると、ある時、ぱっと「フロー」の平原が開ける。いつかは「フロー」に入ることを楽しみに、地道に研鑽を積まねばならない。

フロー(7)英語などの外国語習得においても、最終的に目標とすべきは「フロー」状態である。途中の過程においては、苦しくぎこちない。しかし、スキルを上げるに従って、次第に英語を使うことが「蜜の味」になるフロー状態が近づいてくる。

フロー(8)フロー状態をつかむと、最高度のパフォーマンスで仕事をするということと、人生を楽しむクオリティ・オブ・ライフの命題が、自然に一致する。仕事をしつつ、それが人生の愉楽になる境地に達することができるのだ。

フロー(9)課題とスキルを高いところで一致させるためには、常に「もっと上」を目指す向上心がなければならない。トップ・アスリートがフローを経験できるのも、絶えざる克己心があるからだ。

フロー(10)日本人初のオリンピック金メダリストとなった三段跳びの織田幹雄さんは、「身体を躍動させること」自体が喜びであると語っていた。ここにもまた、フロー状態を知る一人のトップ・アスリートがいる。

フロー(11)課題とスキルが高いレベルで一致し、集中しているけれどもリラックスしている。最高のパフォーマンスを達成しながら、蜜の味の時間が流れる。日々の営みの中で、そんなフロー状態を経験できることを目指し、楽しみとして目の前の努力をしよう。

以上、フロー状態についての連続ツイートを、シンガポールからお届けしました。
引用終了------------------
これ、全文引用になっちゃうかなあ。tweetの著作権でどうなっているのか分からないけれど。

でも、この茂木健一郎のいう「フロー」状態は、欲望の二項対立を調整しつつ、システムを持続可能なものにすることによって快楽エンジンを搭載し、成功にいたらしめる、という意味では、先刻書いたダイエット法にも通じるものだと思う。

茂木健一郎という人は脳みそにおける「快楽エンジン」作動についての人かど学者さんだからね。

Twitterの効用は、動いている他者の「脳みそ」
の「今」から溢れてくる言葉をリアルタイムで享受し、自分の「フロー」と共鳴させられるところかな、と一つ発見。
異質なものをどこまで取り込むか、というどんなメディア、システムでも同様の課題を、Twitterだけが乗り越えられているわけではないが、オープンだってところは、悪くない。



入院体験記(14)もしくはダイエット成功のカギ

2010年08月22日 10時09分15秒 | インポート
医者から血糖値が高いと言われ、6月からダイエットを始めた。
本格的にやるのは二回目である。

一度めは「睡眠時無呼吸症候群」と診断され、体重を落とさないと50歳の坂を超えられないと脅されたとき。

そして二度めは今回、「血糖値を下げないと将来重篤な症状を招きますよ、壊疽による下肢切断とか、人工透析とか、失明とか」といわれて。

一度めは83キロ→69キロまで約14キロ成功。
今回は途中経過だが、73キロから67.5キロ、なんとか目標の63キロまで届きそうなところまでやってきた(笑)。

しかし、10年間で2回しか成果が上がっていない、ということはあとは100回ぐらい失敗しているということだ。しかも二回目はリバウンドを乗り越えるのが主目的、みたいなものだし。

思うに、ダイエットを成功させるコツっていうのは、一般的に仕事を成功させるやり方と変わらないのじゃないか。

1、差し迫った危機
2、深刻さの認識
この二つは舵を最初にグッと切るために必要。
いつでもできる、なんとかなる、と思っている限り、何も変わらない。


3、困難さの自覚
4、持続のための手だて
簡単ではないとわかることは大事だが、困難さはあきらめも招く。
短期的なノリで解決できる種類の問題ならそれはお祭りプロジェクトになる。そういうダイエットもあると思う(失恋ダイエットとか、失職ダイエットとかガンダイエットとか。本末転倒させることによって、副次的に問題を解決させるやり方ね。でもこんかいはそちらはパス)。
しかし、基本的には持続可能でなければ仕事の達成はおぼつかない。

どうやったら続けられるか、がほぼダイエット成功のカギを半分握っている。

5、目標の細分化
6、快楽エンジンの搭載

いきなり10キロ、とか考えるのは失敗のもと。ちょっとでも動き出したらその小さな火種を大切に絶やさず、身近な目標を繋いで次第に大きな炎にしていくことが大切。

また、そういうチマチマした計画・実行・
確認が好きな人は細分化自体を自己目的化して楽しめる。
そういう人はそれでもいい。
あるいは、目に見える成果が大切な人は、毎日体重計に乗るのもいい。
あるいは、運動の繰り返しは身体が快感を覚えるようになる。
卵ダイエットとかりんごダイエットとか、真偽の別はともかく、ただ抑圧的に制限するだけじゃだめだよね、という部分的真実を利用したものだろう。食べたい、という欲望をある程度肯定しつつ継続性とリズム(ちょっと栄養バランス悪いとおもうに、けどさ、常識的にはね)を短期的には獲得できる。
でも短期的なお祭りダイエットに近い。


7、リズムを作る
8、バランスを取る
継続が必須の仕事(ダイエットはその典型だが)の場合、リズムを作ることが絶対に必要。

急に頑張って絶食したり、逆に猛然と食欲に負けて食欲の鬼と化したりするのは効率が悪い。
無論、入院食事制限じゃないんだから多少のカロリー接収に高低があるのは当然。
それをこえた週ごとのリズムとかバランスを重視し、収支決算の帳尻を合わせつつ、リズムを作っていくと精神的負担を習慣が幾分か肩代わりしてくれるようになる。
リズムは無意識的なものだが、習慣付けを心がけることは可能だし、バランスも、その瞬間瞬間は過食と拒食を往復運動するものだとおもって、自覚的に匙加減をしてやるのがよい。
もしこれが自覚的にコントロール可能でない場合は、病院にいってみるとか、仕事を変えるとか(笑)、転居するとか(爆笑)、別のものにコントロール不可能な現実の重さを転嫁して、別のバランスを獲得するのが良作。
ただしこれは仕事を成就させる、という主題から離れ、メンタルケアの領域に入るので今回はこれもパス。

9、再帰的な自己確認をシステム化する


このあたりが面白さのポイントなのだが、巷で一時期流行った記録型ダイエットがこれ。食べたモノを記録するだけとか、体重を付けるだけ、とか。自分自身をコントロールするのがダイエットなのだからその自分自身の置かれた状況、つまりカロリー接収の収支決算を知らないで「立て直す」ことは仕事を「気合」と「カン」に頼ってやるようなものだ。

今回私は女子栄養大学のデータを利用したiPhoneの無料ソフト、
「ネスレココロとカラダのバランスレシピ+体重コントロール」
を利用。
同じくiPhoneでも、日経トレンディでは有料ソフトの
「アンチメタボ(プレミアム版)」450円
を推奨している。こちらは万歩計、カロリー計算も可能な運動時間タイマーなどが付いている。

ネスレの無料ソフトで十分だが、むしろ記録することに細分化された楽しみを見出すタイプの人は有料ソフトがむしろオススメ。

このあたり、道具は自分自身の快楽タイプ、
どんな風だったら楽しく続けられるか、を見切ったものが仕事を成就できる、という一般則が当てはまる。
道具はなんでもいいよっていうような傾向性があるとしたら、そういうことをも含めて、道具の選定は大切。
なぜなら、ある意味で、再帰的に自分自身を知る手立ての先端にあるのが道具だからだ。

10、自分や仕事ではなく、そのシステムを肯定する

自己確認か他者帰属か、の二者択一は行けません。

「食べたいvs痩せたい」
は既に失敗への坂道を転がり出す第一歩だとつくづくおもう。

foxydog的哲学によれば、それが邪悪なのは
「世界を半分だけで生きる」
思想だからです。思想はタダなんだから、欲ばればいい。まさか食べたいか痩せたいか、どちらかだけを選ぶのが思想的に「慎ましい」なんては思わないですものね、誰も。

その見かけの二項対立を調整しながら、新たなバランスにジャンプするのを手伝うためにこそ、しすてむへの信頼が重要になるのだと思います。

仕事に必要な「社会基盤」(というと大げさだけれど、関係性のマネージメントをする土台)が、システムへの信頼でしょう。
食べたい自分と痩せたい自分との交渉ごとを買って出る無鉄砲さ。
そしてその無理難題を解決しようとする無鉄砲さを支えるパトロン。

そういうのを全部「自分」一人でやろうとすると混乱のもとですし、多重人格ごっこみたいに疲れてしまいます。既に病気の兆候が現れているからダイエットごっこでメンタルヘルス遊びをしてしまう人は別として、そういうことを「分裂」しないでなんとか目標達成に向けて軟着陸していくために、交渉役に徹する自分(門番)の、無力だけど大事な役割に、信頼をおいて上げることじゃないでしょうか。
この分裂した内部キャラを調整しながら奔走し、
自分は無力だけど目標達成のために必要な役割を果たす「門番」を、人は今の時代「龍馬」
と呼ぶのだと思います。

ダイエットシステムの龍馬(欲望ドラゴンの前に佇む無力な門番)に幸あれ。



入院体験記(13)退院の前日読書

2010年08月22日 08時40分19秒 | インポート
朝から読書を誓っていたのに、Twitterを覗き、こうやってBlogで遊んでいる。
「携帯も持たせると勉強しねえからな、奴らは」
という学生さんと変わらない。べつに携帯のせいじゃないんだが(苦笑)。

どこでだれとどんなメディアで、どんなことをしながら出会っていくか、ということが違うだけだ。

俳諧連句の座を求めつつ作品のために「漂泊」という虚構を生きた詩人芭蕉や、自分の人生=人性を外に投げ出してまで「何か」を求めた山頭火や尾崎放哉のように生きる=死ぬまでのこともない。

どこでバランスを取らざるを得ないのかは、正直背負っているものの質にもよるだろう。

サンデルの言うカントよりは射程距離が長いつもりで言うのだが、「カント」が意図していた「道徳」は、「理性」によって限界づけられた現象との関係において、
「選び得ないものを選ぶ」
身振りの重要性を、
「ここより他の場所」
において理想を求めようとする「理性の誤謬」とどうせめぎ合わせて「新しい場所」を創出するかっていう話になるんだと私は理解している。

サンデルの本(『これからの「正義」の話をしよう』)の前半は面白いけれど後半は今ひとつ、という感想は、その辺りに関わっている。
サンデルが結論近くで語り始める「物語」や「共同体」の必然性を私も疑わない。

しかし、その「物語」や「共同体」と「国家」の関係を語り出すときに用いるサンデルのレトリックは正直いただけない。
大統領候補の「身体」に重ねた「ことば」を拠り所にしているからだ。このレトリックはあくまで「アメリカ人」のためのものだし、そういう意味ではたとえ読み替えをしたところで「日本人」のためのものでしかない。

カントやロールズが一足飛びに普遍的なものを希求したことを、その不可能性の限界づけられた「失敗」「不足」の文脈でサンデルが捉えるとしたならば(それは半分だけ正しい)、しかし同時にサンデルがその代わりに取り出した共同体の物語もまた、むしろ「縮減」の過ちを導く危険はないか。

まあ、ことはそう単純ではないんだけど。

「国家」を考えるときに道徳・倫理へのコミットは不可避であり、必要でもある。それを議論にくわえていかなければむしろ「リベラル」の「理想」は貧しいものになるだろう、というサンデルの指摘は刺激的だった。

同じ「今」を徹底的に「ズレ」の側からみようとする柄谷行人(『トランスクリティーク』)の方が肌合いに合う、というだけのことか?
この人の「世界共和国」(カント)も今ひとつピンとこない「虚構」なんですがねえ。

しかし、どちらも敢えて「神学論争」を厭わないって感じがして、ワクワクします。単なる哲学じゃなくてあくまで「本質」に行こうとするもんね。神様的(超越論的)な匂いがする。

さて、それでは伝奇ものを一冊中途だったのを片付けます。

遠山の金さんが朝鮮半島に渡って柳生と対決って話しになりそうでメチャクチャ(笑)。でもこういうの書ける人、そうはいないよね。貴重です、荒山徹さん。






入院体験記(12)そろそろ退院

2010年08月21日 20時45分55秒 | インポート
そろそろ退院が近づいてきた。
この期間限定病院別荘にお篭りリゾートプチいんとん生活もあと2夜で終了だ。

残念だなあ。
たぶんもしかするとこんな贅沢は、人生の中でそう何度もないかもしれない。その割には有効活用しなかった気もするけれど、iPhoneというメディアが入院に間に合ったのはすこぶるつきの僥倖というべきかもしれない。
iPhoneは喋れない私のために用意されたようなメディアでした(笑)

それと適度にわかりやすい
サンデル教授『これからの「正義」の話をしよう』
と宮部みゆきの『あんじゅう』

入院には、面白い本といいメディアが不可欠だ、というお話。
かつて、入院といえば世間から隔絶されて面会者を首を長くして待つ(堀辰雄の小説かっ!)とか、手紙というメディアがせいぜい。
そのあとはラジオ→テレビときました。
病院内でも携帯をマナーモードにしておけばオッケーという約束事だったのには感謝感謝です。
これがケータイは外で、とか言われたら
「ヴワアアアアぁ」
ってなっていたかも。
ま、そうなっていれば本は倍ぐらい読めたんでしょうがね^^;

これでエスプレッソマシンが部屋にあれば、とか言ったら神様にぶっ飛ばされますよね……。
テレビはほとんど見ませんでした。
私の生活にTVはほぼ不要なんだな、と再確認。
ちらっと欲しいなとおもう瞬間は、高校野球(地元チーム)と政局情勢、それに不幸な事故や災害の情報です。並べただけで不謹慎な感じですね、すみません。
あとは知っていれば特集番組とか、ぐらいかなあ。

老後は基本、ネットと本があれば生きていけます。
あとはお酒のみに出かけて行ってヒトに合えばよい。
昔、郊外に住んでいた隠遁めいた人たちも旅をしてさまざまなヒトや自然に出会い続けていたのだろうし、ヒトを訪ねたり、また来訪を受けて喜んだりもしていたのだろう。

本もネットでのコミュニケーションも旅も、本質は「交通」「交流」「異質なものとの出会い」だ。
入院最後の本は、その交通について考え続けている柄谷の1冊『世界史の構造』。
読み半端で入院になってしまったものだから、読了して夏休みを終えたい。

明日ぐらいは真面目に朝から読書しよう。


入院体験記(11)Twitterの面白さ

2010年08月21日 20時28分34秒 | 身体
身近にTwitterにハマっているヒトがいない。

SNSはついに乗り遅れたまま終わった。

Webマガジンは救済中(笑)。


HP更新って形からBlogにはサーバー変更して、ようやく携帯メールから更新というのが定番になった程度のネットワーク度では、やっぱりまだよく分からない。

だいたいフォロワー(つぶやきを聴いてくれる人)もいないのに、バカバカしくて呟く気にもなれない。独り言ならトイレでしろって話で(苦笑)。
Blogは結局自分の思考の外部化、形象化、データベース化という意味があって、加えて他者との出会いがあれば幸甚ってスタンスでなっとくしてずっと書いている。
これはいい。

mixiは、異業種交流もなく、テキスト読むだけの趣味のおじさんでは、所詮毎日「交流」してもなあって感じだった。

Twitterは、知り合いの若者(20代)も、何が面白いんだかって感じのヒトも多く、今のところ謎である。
たぶん謎のまま終わるのかもしれない。

でも、今日Twitterベスト300の一覧が載ってるサイトを見つけて、暇にあかせての表をずっとみていたら、何人かフォローしてみたい人間がいたので登録してみた。
するとこれが面白い。
必ずしも自分でつぶやかなくたって、それなりに楽しいのだ。


みていると、自分のことだけ「がーっ」と喋るカリスマ的なヒト(芸術家におおい)、RTといって自分に返事があったものをフォロワーにも紹介するエディター・セッション系のやりとりを好むヒト(編集者におおい)、仲良しクラブをTwitterでもやろうとしている有名人(顧客フォローかっ?こうかんどあっぷかっ?)など、さまざまに面白い。

最高なのはやっぱりリアルタイムチャットのノリで有名なあの人のツイートを「今」読めるし、突っ込むとすぐ返事がきたりRTされたりして臨場感がある。
気に入らなければあっさりフォローを止めればいいわけだしね。

たまたまあったので、谷川俊太郎のフォローをしたら、履歴をみても1ヶ月に1tweetぐらい(笑)。
でもそれだっていいんだよね、べつに。

「生」の声を切り取って見せてくれるこのTwitterっていうパッケージングは、いわゆるmixiとかのSNSよりは気軽に流しながら覗き見ができて楽しいかもしれない。

とりあえず業界系のヒトとか、海外在住のヒトとか、在留外国人とか、げいじつかとかを20人ほどふぉろー。検索していくと知り合いとかにも会ったりして、意外に世界は狭い(狭くないけど検索かかると距離は無意味)。逆におもうように検索ができないと、これは辛い。
そういうエントリーレベルでの初心者誘導って、もう少しあってもいいんじゃないかしら。
私が知らないだけかな。
「いまさら聞けないTwitter」
とか日経のおじさん雑誌で特集やるまでは待てないもんなあ。

ちなみに典型的な日経おじさん雑誌ハウツー雑誌「日経トレンディ」9月号で特集されてて、iPhoneの最強アプリっていう特集があったから買っちゃいました(笑)。

Twitter初心者で誰をフォローしたらいいかわからん、という方は、とりあえず

下記はお勧めかもです。

http://twpro.jp/ranking/20100731/fld




入院体験記(10)クラウドって何?その4

2010年08月21日 08時48分48秒 | インポート
さて、「クラウドコンピューティング」
になって、とても便利にはなった。
有名人のつぶやきも即座に見られるし、全国の天気も一発検索できるし、アプリケーションを買わなくてもgoogleとかでword&excelの簡易版なら無料で使えるし、メールも自由自在に世界中に送れるし、Skypeとかで電話もただ、!Amazonなどの通販なら、今までは諦めていた商品を2、3日のうちに自宅お取り寄せ!
データもハードウェアも、個別に企業&個人レベルで持っていたとしたら、こんな風にはできなかったはずだ。

つまり、私たちは今まで、家族とか親戚とか職場とか隣近所とか村とか地域の共同体とか、藩とか幕府とか(江戸かっ?!)、限界近代国家とか、そのときどきの社会基盤に「半ば埋め込まれる」
ことによってたんなる獣としてのヒトではなく、「人間」として生きてきた。

ところが今、いよいよ社会基盤全体がネットワーク化し、しかもそれが顕在化して世界全体を明示的に覆いつくそうとしている。

「クラウドコンピューティング」
っていう言葉は、
単にネットワーク化されたサービスの一形態ではなく、社会的基盤の大きな変化を指し示しているといっていいのじゃないか。

端的にいえば、今までは個人レベルでPCを買うのは、一定の層に限られていた(まあ、馬でも飛行機でも車でもそうだったけどね)。電話だってテレビだって近所に1軒だけ、なんてことはあったわけです(そんなに大昔じゃなくて)。
日本人が「国民」として全員学校に通うようになってたかだか120年だし。

それが今、世界中でネットワークに参加するのがあたりまえになりつつある。社会や企業や国や世界が「環境」となって、安価な端末で、接続料も安くて。
日本ではちょっと前まで考えられなかったけれど、
「家に電話はないが携帯は持っている」
という国がアジアには多くて、有線電話というインフラが整備されないうちに、一気にそっちにいっちゃったわけだ。
逆に日本ではまだwi-fiが整わない、なんていってる。
まあ人口の割には狭い国だし、平地は三割(ヒトはあまり山の中で携帯が繋がらないといって文句はいわない)だから時間の問題でしょう。実際ちょっとまえまで携帯電話屋さんにはエリア地図がおいてあったけど、そろそろそういうのもかこのはなし になりつつある。

ってことは、繰り返しになるけど、社会基盤として「クラウドコンピューティング」が「当たり前」になっちゃった、ってことだ。

これは見かけより大きな変化、だと思う。
つまりiPhoneのストレージサーバーサービス、
無料なのがいっぱいあるからどれにしようかな、ってレベルでおさまる問題じゃないってことだよね?

給料の銀行口座引き落としの例を考えてもそれはわかる。プリペイドカードとかね。ポイントでもいい。給料でもプリペイドカードでも、一気に全部使う人はあまりいないわけで、口座振替を獲得した時点で、それが「多数」の数になれば、未来永劫「下ろされない貯金額(死蔵プリペイド)」が膨大になる。必ずそうなる。ポイントカードも、まだ払われないその企業だけの「貨幣」(という幻想)によって顧客を世界中でたった一つの企業だけの顧客にいともたやすく囲い込む。
そういうことがかつても起こっていた。


それが今や、圧倒的に世界レベルで「囲い込み」の闘いが起こっていて、たとえば日本ではYahooの検索エンジンがなくなって、ぜーんぶGoogleでしか検索できなくなっちゃうとか、Amazonの電子書籍出版の方法が放っておくと世界標準になっていくとか、そういうことも「クラウドコンピューティング」が前提になってるわけで。

関係ないっちゃ関係ないように見えるけど、空恐ろしいし、そこが「社会基盤」になってしまうと、その中にいて初めてヒトは人間になるっていう圧力が、人間の場合脳の中で集団的に働いていくに違いない(近代国家の戦争が惨たらしいのは国家に国民が埋め込まれる度合いが半端じゃなかったからですものね)。

つまり、今まではネットワーク化に加担するのが物好きかヲタクだったものが、クラウドコンピューティングにコミットしないものは「獣か神様」だけになるって「ルール」がすぐそこまで来ている。

私は知らないけれど、微妙に追加料金の発生するソーシャルネットワークゲームが携帯で流行りかけているとか。
世界的規模の企業は、
それなりに自分でルールを決めてその中で「公正」に商売をする。
うさんくさいけど、末端のユーザーにも恩恵はある。安くて高度なサービスが受けられるからね。

でも、小さい規模の企業は、一人頭のテラ銭が少なくなると、かつての場末のキャバレーの姉ちゃんのように細切れれにチップを要求するようになってしまうか、カツカツの商売で黄昏を生きるかになってしまいかねない。
もしくは、Googleの決めた範囲で仕事をする、とかアップルストアの企画に合ったソフトを作りますとか、Amazonにギャランティーを払って本を出版します、とかね。
もう半分隠遁のシミュレーションを病院でしている私にとっては本当に「人間社会」はすごいことになっていくなあ、と呆れるしかないのだけれど、
「よしそれならここで勝負すっか」
「こんなものぼっこして別物にすっぞ」
とかいう日本人の若者(別に日本人でなくてもいいが)がガンガン出て来てくれることを祈るしかないかな。

中国の「情報ダム(囲い込み&解放)」の匙加減がどう動くのかが、当面興味深いのかな。
Googleの中国撤退騒ぎは、そのつばぜり合いのちいさな一コマなのでしょうか。

さて、朝っぱらから頼まれもしないのに世界情勢を妄想しました。
これもまた入院隠遁の功徳か弊害か(笑)。

P.S.
結論。
そうなると、企業活動だから利潤追求すればいいよね、とか企業活動だから何をやってもじゆうだよね、とか、必要ならローカルに「国家」
の法律で活動を制限すればいいよねって話にはもう、ならないってことだ。
GoogleやAmazonはコンテンツそれ自体の内容を生産しない。整流して右から左に動かし、
稼ぐ。
にもかかわらずエンドユーザにとっては擬似的には社会基盤だ(ってか水道電気ガスと一緒、
インフラストラクチャーそのものじゃん!)。

ここで問題になるのは単なる法令遵守、じゃない。きっとね。「公共的なるもの」に対する瞳と議論のスキル、つまり道徳と倫理を思考・
実践しかつそれを再言語化し、社会基盤に還元していく能力が、絶対に重要になるはず。

私は個人的には環境問題よりもこちらの方がよほど大切、だと思うけどね。



入院体験記(9)クラウドって何?その3

2010年08月21日 07時46分35秒 | インポート
もちろん、その程度、のわけはない。
それだけなら、単なるデータのサーバー共有化の手続き、がアプリケーション化したってことにすぎない。

でも、iPhoneでネット上をうろうろしていると、携帯電話とPCだけをいじっているときにはきづかなかった「クラウドコンピューティング」ぽいものの「正体」が見えてくるような気がする。

wikiを引くと、「クラウド」は

1、クライアント
(私たち)
2、アプリケーション
(mail, 検索,Twitter,googleアプリ,Amazon,tune,電子BOOKなどなど)

3、プラットフォーム
(OSとかシステムとかデータベースとか)

4、インフラストラクチャー
(ネットワーク関係?)

5、サーバー
(どこかには無数の機械が置いてある)


って階層になってるという。
今までは、
家の中でスタンドアロンコンピュータとユーザーが

ユーザー
アプリケーション
OS
PC&外部記憶装置(ハードウェア)

とセットで家の中にあったものが、アプリケーションから先が全部ネットワーク(社会)の側にいっちゃった、ってことになる。
今まではぜーんぶお店で買って家に持って来たのに、これからは初期投資は安価な端末だけでよくって、あとは向こうがわの「クラウド」が全部受け持ちますよ、
ってことだ。

じゃ、逆に便利じゃん。

安い端末(たとえばipad?Android携帯?無論iPhoneも?)があればいいてことでしょ?

そういえば電子ブック元年だし、MSもオンラインでオフィスソフト利用はじまったし、ゲームもオンラインでソーシャルネットワークゲームみたいなのできるし……

てなことになるのだろうか。
まさかそうことは単純じゃないだろう。
ある意味では、どんどんオープンになり、データを個人レベルではなく社会全体で共有化する方向になり、個々人の負担は見かけ上小さくなってきてはいる。便利は便利はなんだけど。



入院体験記(8)クラウドって何?その2

2010年08月20日 10時30分20秒 | インポート
元来一つの機械で全てが完結していれば、ネットのデータやソフトウェアなど無関係だ。
昔はみーんなそうだった。
フロッピーディスク入れを持って、職場をうろうろし、自宅まで残業仕事を持ち帰っていた。
3.5インチのFDDは実にデータがよく壊れ、
「神様に祝福されて帰還した」データに何度泣かされたか。

iPhoneに提供されている「クラウド」のサービス
の多くは、USBやFDDの代わりにネット上のサーバーにデータを置いて、どこからでもアクセスできますよっていう「オンラインストレージサービス」が目立って話題になっている。

iPhoneの場合には小さいし、持ち歩くし、普段は職場ののPCとか自宅のPCとかでデータを作ったり保存したりしているから、iPhoneだけを持ち歩いて中途半端なことをやってもしょうがない。

だから、別のところにあるデータにアクセスしたいもしくは共有できたらいいのに、ということになる。
必然的にiPhone(に限らずスマートフォンやネットブックなど持ち歩きするもの)などのmobile機器では、「クラウド」が御用達になる、わけだ。

今でも普通のヒトはUSBを使ってあちらこちらのPCデータを行ったり来たりさせている。単発なら、メール添付でデータを送るなんてことはふつうのおばさんおじさんだって考えつくぐらいにはなっているだろう。

いつでもどこでもデータを自分のものとして自由に使いたい。
そのためにデータを安全に一カ所にまとめておき、さまざまな端末からアクセスすれば、
「どのファイルが最新だっけ?どのPC?どのUSB?」
なんてことは考えなくてもよくなる。というより、ファイルの置き場所について、基本的になにも考えなくてよくなる!
まあ、たぶんそういうことなのだろうと思う。

でもそれだけのことならUSBメディア持って歩けばいいじゃん?

と素朴に思う。

ところが、iPhoneとか、メモリを差す場所とかないし!

ひょっとして、もしかすると単に不便になっただけじゃん?
非力なマシン(スマートフォンだからmobileだかしらないけど)をわざわざ(営業マンのプレゼンでもないのに)、外に持って出て、狭い画面遅いCPU、不便なインターフェースで、大事なデータいじって満足したいだけなのでは?

我慢して家(もしくは職場)に早く戻れよ、
みたいなみたいな。

正直なところ、そういう疑問を抱く。
iPhone便利教に宗旨替えしている私でも、ふと、
そう思う(笑)。

「クラウド」ってその程度のことなのだろうか??




入院体験記(7)クラウドって何?

2010年08月20日 02時17分19秒 | インポート
ほぼ隠遁生活の病院生活で、にわかネット住人になっている。
何せここから動けなくてしゃべれないのだから、ネット上でも逍遥する以外にやることがない。

すると、ネットの世界ではクラウドというのがあるらしい。
なんのことはないオンラインでサーバーを利用するだけのことなら、ホームページを作るのに利用したりしていたはず。それの簡単なヤツだろう、と思ってのぞいてみると、ある意味そうでもあり、しかし、だいぶ事情は異なるようでもある。
その辺りをちょっと見てみたい。



九州に行って来た(13)高千穂峡は虫刺されに注意!

2010年08月19日 23時38分20秒 | インポート
IMG_4845.jpg
狭い渓谷に滝が注ぐ高千穂峡の景観は抜群……でしたが、高千穂神社から降りて行く遊歩道は、くれぐれも虫さされに、注意が必要のようです。
今年は職場の同僚が大挙して宮崎に出張になり、ここを
訪れた人も少なくないのですが、別の人もやはり
「刺された!」
と嘆いてました。
でも、陰翳に富んだ美しい風景は、視えた通りに写すためにそれなりのカメラとレンズが欲しくなります。
今まで「瞳に焼き付ける派」だったのですが、宗旨替えしそう。

それほどきれいな自然を、阿蘇と高千穂は見せてくれました。
神様が降りてくるにふさわしい所以、ですね(^_-)


入院体験記(6)自分が死んだ時の整理

2010年08月19日 17時16分43秒 | インポート
こんなキットの情報があった。
引用開始--------------
自分に何かあったら、家族は誰に連絡すべきか分からないと思うんですよね。特にネット関係。「遺言書キット」を出したとき、30-40代からの声を踏まえて開発したそうです:コクヨ「エンディングノート<もしもの時に役立つノート
引用終了------------------
吉岡綾乃氏のツイートより

調べて見るとこんなものも。
引用開始-------------------
新興企業の米Legacy Lockerは3月10日、自分の死後、オンラインアカウントなどの情報を、家族や親しい友人に安全に譲渡できる新サービス「Legacy Locker」を開始すると発表した。
引用終了--------------------
誠BIZ
http://bizmakoto.jp/bizid/articles/0903/11/news022.html

残す財産なんてないけれど、ネット社会の情報が蓄積していった場合は、その「地層」のような情報の束が即ち「自分」って側面も出てくるかもしれない。
そうなれば、いざとなったときに、ネット社会の中の連絡をして、情報や財コンテンツとしての産、社会的役割も引き継いでもらわないといけなくなるだろう。
私には、リアルでもネット上でも慌てて登録するような財産はないけれど、あと10年20年と経てば、リアルを共有している家族だけでは手に負えないものになっていく「可能性」はたしかにある。
今だって、終焉を迎えたら連絡ぐらいはしてほしい、というネット上の知人はたしかにゼロではない。
年賀状の風習が廃れてきた昨今、実は人間関係のネットワークを財産、と考えるなら、真面目に考慮しておいていいことかもしれない。
皿や壺、着物や土地建物、親戚・職場の同僚といった身近なモノやヒトだけが「身近」とはかぎらなくなってきたものねえ。
ネット上の「死」の扱いも、これからは重要になるんだろうな。
いや、病院ネタとして不穏ですかね。

でも、
<俗>をどう整理するか?
という、
隠遁的にはタイムリーネタでした。


入院体験記(5)こんな時に読む本は

2010年08月17日 15時24分24秒 | インポート
iPhone4が頼みの綱、といってもいい俄か隠遁生活だが、読みさしの本は沢山持ってきた。
それを片っ端から読めばいいようなものだが、なかなか
そうもいかない。
昨日から今日にかけては、ツイッターを登録していじってみた。
まず、誰のつぶやきをフォローしたらいいのかわからない。
だれもフォローしていないのに、ただ虚空にツイートする元気もない。
この寄る辺なさはなかなかのものだ。勘所がわからない、というのはなんでも最初こんなものだろう。
次第にいろんな有名人をフォローしていくと、お互いにリツィートしたものがタイムライン上に現れ、結局友達の友達、的に興味関心のあるつぶやきて同士がつながっていくみたいなことなのかな。

ちょっと世間探訪しました。

でも、こういう時間の使い方はなかなかできないなあ。ネット上の、しかもリアルタイムで動いていることについては可能性を感じるけど、自分はどうなんだろう、と思うと、もう少しゆっくりした時間軸でことばを扱うのだろうな、と思った。
もう少し、沈黙の中にせっかくいるのだから、わざわざネット上の喧騒の中に今出ていかなくてもいい、ということか。

で、読み始めたのが
『草枕』(夏目漱石)。

実にぴったりとくる(^_^)
もう一つは
『あんじゅう』(宮部みゆき)
江戸とか明治に留学するのが、プチ隠遁には相応しいようだ。
にしてもiPhoneで読む青空文庫は、便利この上ない。
著作権の切れた古典が、自由に読める。特に漱石は本当に助かります。
というわけで、iPhoneと漱石と、宮部みゆきに助けられそうです。