龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

iPhoneとiPadのタッチペン使用感

2013年03月29日 01時35分14秒 | 社会
iPadとiPhone用に、新しいタッチペンを購入した。
静電容量型のタッチパネル用のペンは、基本的に太い。

感圧型のペンの先は細くて、いかにも細かい字が書きやすそうだ(ワコムの感圧タブレットなど)が、iPadやiPhone、その他のスマホなど、一般に使われている静電容量型の端末は、あのような繊細な作業には基本向いていないと覚悟すべきだろう。

しかしその中でもどれが
「より少なく悪いか」
を考えてみたくなるのは人間の悲しい性。

今回はゴム・樹脂・金属繊維の3つを試してみた(ということは自腹で3つ買った)ので報告しておきます。

1,BAMBOO (ワコム)
2,Touch Pen nano (プリンストンテクノロジー)
3,ファイバーヘッドタッチペン(ミヨシ)

1はゴム製ヘッド。
これは慣れるまでなんだかタッチの感触がフニャフニャしてはなはだ心もとないのだが、タッチ面の保護フィルムを張ってある場合に感度の違いが出にくく、フニャフニャな分余計な力の加減も不要で、相手を選ばない印象を持った。
私はiPadとiPhoneを使用。
iPhoneのみ保護フィルムを張ってあるが、どちらでも一番力の差がなく、フィルムの有無を意識しないで入力できた。
ただし、たっちの瞬間が心もとないのと、ゴムがタッチ面に粘る独特の感触があって、それは必ずしも気持ちよく書ける、というものでもなさそうだ。
フリック入力の場合は積極的に引っ張るので、アッサリ系のものよりは手応えが入力方法に合っているとは思う。
しかし、手書き文字の場合はもっと粘らずサクサクかける方がいい。

2,は樹脂ヘッド。
スポンジ様のものが付いている。ヘッド自体の大きさはBAMBOOのゴムより少し大きい。これは、保護フィルムを使用していないiPadの方について言えば、よけいな力を必要とせずしかもなめらかで、好印象を受けた。
ただし保護フィルムを貼ったiPhoneでは、かなり力を入れなければタッチの飛びが発生し、極めて使いづらい。
ゴムヘッドのBAMBOOが、保護フィルムの有無にほとんど影響を受けなかったのと対照的な結果だった。

もしiPadだけなら、こちらを使いたい。
保護フィルムありのiPhoneと使い分けをしないのであれば、ワコムのBAMBOOということになろうか。

3,は金属繊維のヘッド。
これは滑りと粘りのバランスがなかなかいい。
1のゴムヘッドと比べるとタッチが滑らかで、より自然だ。
力を入れなくても十分反応する。
2のnanoと感触はかなり違うが、滑らかさではこの金属繊維の方が上回っている印象を受けた。
さすがにどんどんタッチを軽くしていくと入力漏れは出てくるものの、ペンを立て気味にして書けばほとんど圧をかけなくても文字が打てる。
比較するとペンをゴムの粘着性で引っ張る感じが出てくる1のワコムは不自然な印象。

ただし、保護フィルムに一番強いのも明らかに1ワコムのゴムヘッドなのだ。

悩ましい。

他の二つは、保護フィルムの付いているiPhoneでは、かなり力を入れないと入力が飛んでしまう。手に負担がかかるし、イライラしてストレスがかかる。大量の入力は勘弁してほしい、というレベルだ。

保護フィルムのないiPadは、どれでもストレスなく入力できるので、あとは好みの問題だろう。

私ならiPadは2,プリンストンテクノロジーのnanoを選びたい。
イラストを描くペンとしても、こちらが使いやすい。

iPhoneは携帯端末としてと使用環境を考えると、保護フィルムをしておきたいので、選択の余地なく1,ワコムのBAMBOO。

ちなみにいずれも、ペンはもう少し長くてもいいのではないか。












高橋源一郎の文章を読んだ’13.3.28付朝日新聞の論壇時評

2013年03月28日 12時45分41秒 | 大震災の中で
本日付の朝日新聞に載っている高橋源一郎の文章
http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201303270662.html
について
「エチカ福島」に書きました。
よろしかったら参照を。

高橋源一郎「忘れさせる『力』に逆らう」を読む
http://kitsuneinu.jugem.jp/?eid=520

で、以下はそれについてまた考えたことを少し。
そこでは
「地べたに裸足で立って一から考えよう」
という意味のことを書いた。

しかしこれは、思いつくだけでも二つの間違った方向性を招きやすい。

一つは
「大震災&原発事故」経験の絶対化

もうひとつは
「リセット願望」「ガラガラポン願望」

だ。
どちらもつい個人的に陥りがちで、どちらもやばい。

前者の場合、被災地にいる人の中でも「ディバイド(分割・分断)」が起こりかねない。
大きなところでは
「フクシマ住民/それ以外の人」
という分断を生むし、小さいところでは
「線量の高いお隣/線量の低いうち」
みたいなちっちゃな分割線を引かせる力になってしまう。

震災の体験、原発事故の体験は極めて重要だが、それを時間軸から外して絶対化するだけではちょっとまずい。

他方、
「リセット願望」「復活願望」
についていえば、それ自体としては健全な適応力の発揮でもあるのだろう。
けれど、高橋源一郎が今日の文章でも言っていたようにそれは容易に「忘却装置」と「経済的」「政治的」に結びついてしまう。

「エチカ福島」でやりたいのは、そのどちらでもない。
人が集い住むという営為の原点(そんなものはこの地上にはないかもしれない)を参照しつつ、同時に「今、ここ」を生きることに瞳を凝らしつづけ、考え続けていきたいのだ。

よく「エチカ福島」ってなんなんですか?と聞かれる。
誰をターゲットにして、何を、どのように、どこまで発信しようとしているのか、と。

これを聞かれると、私は思わず口ごもる。
世の中の(社会的)営為にはそういうことが分かっていないとダメなんだろうなあ。
すまん、よく分からん。

でもね。

生きる場所それ自体を「傷つけられる」って、つまりは場所が「弱い」ものだと改めて感じる体験をするって、そんなに簡単に

「じゃあどうすればいいのか」

という話が出てこないものだとも思うんだよね。

「エチカ福島」を始めようとするまで、1年半かかっている。
そして、始めてはみたものの、終着点は見えていない。
むしろ加速度を持った思考のドライブではなく、思考の「遅速度」を持った遅いドライブをここでは心がけておきたいのだ。

そういう意味では、「忘却装置」が働き始めてから、がむしろ勝負。

「復興」を加速させる、とか「スピード感をもって政策を実行する」とかいう話には眉にツバをつけて聴こうということになります。

そういうことで済ませられるなら、すませればいい。
その程度のことなら、1年半も立ってから、出し遅れた宿題のように考え始めることなど不用です。

でも、私は、私たち「エチカ福島」はそうは思わない。


「忘却装置」に身を委ねるのでもなく、「歴史的な大事件」としてだけ記憶=記録するのでもなく、「今」すなわち100年後にも100年前にも残るような痕跡を、洞窟の中の石に刻んでおきたいのです。

さて、そろそろ第2回について考え始めようという時期になってきました。

詳細は随時「エチカ福島」のブログで書きます。

5月~6月にかけて「エチカ福島」第2回セミナーを開催しますので、ときどきそちらも覗いて見てください。



転勤の季節。

2013年03月27日 00時44分30秒 | 大震災の中で
友人がフェイスブックで、教師の送別会での挨拶の「劣化」を嘆いている。

職場が違うので詳細は不明だが、全く別の場所で同じ頃、私も同じ感想を抱いていた。

「自分はこれだけ頑張ってきた」
とか
「職場をいかに改善すべきか」
とか
「いろいろ批判もされたがなんとかやってきた」

とか、たしかに震災を挟んだこの数年、大変だったんだろうな、ということを思い起こさせるコメントでもあった。必ずしも震災ネタとして大変だってみんながいっていたわけではないけれど。

でも、気になるのは、なかなか思うに任せない仕事の「つらさ」を「主体」が受け止めてしまっている点だ。
私が職場の劣化を感じるのは、それらのコメントを聞いているときである。

つまり、普通職場を去る時というのはぐずぐずいわないのが日本人のお作法だったと私は思うわけです。
「立つ鳥後を濁さず」
じゃないけれど、去りゆくものは美しい、てな感じで「お世話になりました」という月並みなコメントで終わるのが「普通」だった。

ところが、最近、そうじゃなくなってきている。

そのこと自体は悪くない。
むしろ風通しがよくなるというか、たとえ短期的には気まずいことがあったとしても、何も言わずに立ち去っていくよりはいい。

職場が劣化している、と感じるのは、そこじゃない。

そこに立ち上がってしまう「主体」の存在様態が決定的に貧しいのだ。
つまりね、システムが抱える課題から瞳を背けることがむしろ「まじめ」に仕事をする態度だったりすると勘違いしている人が「主体化」してしまうと、お互いがお互いを「バカ」としてしか認識できなくなる。

そしてある種、「バカの壁」みたいな話になる。

お互いに相手をバカだと思う傾向はもしかすると脳みそにあらかじめインプットされているのかもしれなくて、それはそれでいいとしよう。

問題はその先にある。
お互いに「バカ」としてしか認識できない場合、ではどうすればいいのか?という「問題」が立ち上がってくるだろう。
それはおそらく、自分の論理だけで「理を分けて説明する」だけでは伝わらない種類の「問題」だ。

自分たちの思考の限界が世界認識の限界である、以上。

……ということになると、原発事故は原理的に「防げない」。

けれど私たちは、理解できる範囲内の「ロジック」だけで世界を切り取り計算可能性を前提とした世界像を立てるだけでこと足れり、としていいはずはない。

公共的なるものへのアクセス経路は、当然のことながらその先にあるだろう。
そこを目指さなければ、教育なんて「クソ」だ。

教育はその「公共的なるものへのアクセス経路」を探すことから始まる、といってもいい。

ところが、教師の最後の台詞の多くが、その自分の認識の限界が世界像の限界である、といういわば「理性1」モードの「述懐」に終始してしまっているとしたらどうだろう。

勝てる勝負だけをやっていればいい(負ける勝負は絶対しない)というのが役人の遵法意識に過ぎないとすれば、教師も根性だけは一丁前の「役人」になってしまった、ということか。

むしろもっと教師は「バカ」でいい。

非人間的なところと人間的なとこの境界面を往来する「バカ」でなければ、教師などという職業はつとまらないのではないだろうか。
壁を作って自分の価値基準で相手を「バカ」だと考える「レベル1のバカ」よりは、まず相手と自分を隔てる「壁」をすり抜けてしまうレベル0の「バカ」の方がまだましかもしれない、とさえ思う。

しかしもちろん必要なのは、自分の理解の限界を世界の限界としない、という当たり前の「対話能力」であり、未だ未熟な子どもの、存在しない「未来」について考え、行動し、導く精神の「膂力」だ。

そのために大切なのは、単なる自分の価値基準に基づいてものを「見て」しまうのではなく、目の前の「事象」に対する眼球の追随性を信じること、そしてその出来事が生み出す「音」に耳を澄ます姿勢、いわば「動物的」な感覚をきちんと信頼することではなかっただろうか。

教師から、その「力」が急速に失われつつある、と私は感じる。
それが、職場の「劣化」だ。

相対的に「良い」頭だけで物事を処理をしたり、その頭で書いた絵図面の範囲で身体を訓練しようとする。

それでは、新しい局面に対応できない。
今は、それこそが大切なはずなのに。

私たちに与えられた現状はほとんど「クソ」だ。

だったら、そこに瞳を凝らすことから始めるべきではないだろうか。

こぎれいなコメントや、自分の苦労や正当性ばかりをあげつらうような話をいまさらどの面下げて聞けばいいというのか。
あるいは、通用しもしない「当たり前」を無前提の前提として話を進めてしってしまうような「発話」に、どうやって「対話」を「発見」すればいいというのか。

たとえ、擬似制度的とはいえ自分の「住んでいる」共同体のことだから、私自身にも「罪」はある。
さてでは、なおも「発話」をし続けるとしたら、いったいどんなことばが可能か?

自らの言葉がいかなる「公共性」を持ち得るのか

それが最大の「試練」でなくてなんだろう。

スピノザについてひなたぼっこをしながら考えを巡らせているだけでは足りない、ということか。
大変な時代になったものだ。

この項、解けそうにない宿題です。







どうもリモコンを捨てたらしい。

2013年03月21日 00時32分05秒 | ガジェット
確かに小さなリモコンだった。
時々ベットサイドテーブルから転げ落ちて、その直下にあるゴミ箱に転げ落ちているのを発見したこともある。

だが、本当になくなってしまうとは思わなかった。

BOSEのCDラジオにiPodを繋ぐ装置について来たリモコンが、気がついたらどこにもないのである。
最後に使ってからもう何度もゴミは捨ててしまった。
あの中にあったのしれない、と考えてみてもどうにもならない。

この持って行き所のないモヤモヤ感をどうすればいいのか。
だいたい、最近の家電の多くは、リモコンかマニュアルのどちらか(もしくは両方)をなくすと「かなり」厄介なことになる場合が極めて多い。

しょうがない。
でも、諦めがつかない。

裁断してスキャンしたつもりだった本のデータの一部が欠落しているのを知った時のモヤモヤよりもスッキリしない。
ヒュームの哲学は別の著作から考えていくことはできる。

しかし失ったリモコンは、代替がきかない。
いちいち接続したiPodを部屋の端っこまで操作しにいかねばならぬ……。

些細なことが心にダメージを与える夜、、というものがある(笑)


白井聡『永続敗戦論』を読め!

2013年03月20日 12時58分20秒 | 大震災の中で

まず、この本を読もう。

at プラス叢書04
白井聡『永続敗戦論-戦後日本の核心-』(太田出版)

この本の叙述には、混乱の真っ只中だからこそ考え続けねばならないという姿勢を貫く「倫理」がある。

「原発はないほうがいいが、直ぐには脱原発は無理だ」

とかいった牧歌的な「現実感覚」が吹き飛ぶような、この国が徹底的に依拠し続けている「侮辱」の構造についての極めて激しく、しかも鋭くかつ真っ当な分析がつづく。

もし「怒り」を語るとするなら、この怒りをこそ共有したい。

そう思った。

ここには日本を戦後以降「永続敗戦」し続けている、という冷徹な分析がある。
おそらく、この世代でなければこれは書き得ない種類の文章だったろう。

混乱し続けている「今」だからこそ、この文章は読まれなければならない。

まあそれでも
「もう、原発事故に関する『混乱』など過去のものだ」
と考えるような「日本人」には無縁なこと、なのかもしれないけれど。

そんな忘却装置が機能し続けている中で、このような文章を書くことには(特に学者の場合)覚悟が要るのかもしれない。

白井氏が後書きで引用しているガンジーの言葉が胸に刺さる。

「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」ガンジー

内容はまず読むべし。

とりあえず簡単にあとがきから紹介するなら、

私たちは戦争責任をきわめて不十分にしか問うていないこと、そしてその戦後日本の問題は、この原発事故の問題とも深く関わっている

ということ。

特に目新しいというわけではない視点だ。
しかし、尊厳を賭けてこの「侮辱」のことを考える「知性のクリアさ」に、読者はきちんとますは驚くべきだ。

ぜひ一読を。

ちなみに白井聡は社会思想・政治学が専門。
『未完のレーニン』
『「物質」蜂起をめざして-レーニン、<力>の思想』

徹底的にレーニンを読み直すその鋭く深く明晰な知性が、日本を読むとこうなる、という本でふ。

自炊事故勃発!

2013年03月19日 15時00分25秒 | ガジェット
いつかやるだろうとは思っていました。
でもこんなに早くその日が訪れるとは。

そうです。

ヒュームの『人性論』を102ページまで読み、だいたい因果関係を断崖絶壁まで追い詰めたところでページをめくると、なんと最初の扉に戻っちゃったのです。


裁断&スキャンの間に間違いが起こり、前半部分を二度スキャンしてしまったらしい……(涙)

もちろん、もう本文はとっくにゴミとして廃棄済み。

参りました。
でもまあ勘所は読めた感じですけど、それでもショックでした。



國分功一郎論なんてものまで書いてたり(笑)

2013年03月18日 23時00分15秒 | 大震災の中で
「スピノザ入門」の講座が終了して、私の中の國分功一郎ブームも一段落、でしょうか。

というわけで、ちょっとまとめ的にメモしておきます。
震災以後、「スピノザ」を巡って、どれだけ國分先生にお世話になったか、を実感します。

以下の國分功一郎論のための覚え書きシリーズは、むしろ教育論ですね。
でも、これがまた微妙に「スピノザ」とも関係しているし、今年の6月岩波書店から出版され、朝日カルチャーセンターでも6月から開講される
『ドゥルーズの哲学原理』
とも重なってくるものがあります。

でも、ここで考えたことは、30年教師をやってきてのひとまずの結論。それが、「スピノザ」=「國分」=「ドゥルーズ」の一連の哲学シーケンスに触発され、「投影し/された」もの、でもあります。


國分功一郎論のための覚え書き(1)
國分功一郎論のための覚え書き(2)
http://pub.ne.jp/foxydog/?daily_id=20111229


國分功一郎論のための覚え書き(3)
國分功一郎論のための覚え書き(4)
http://pub.ne.jp/foxydog/?daily_id=20120102


國分効果という教育(國分功一郎論のための覚え書き5)
http://pub.ne.jp/foxydog/?daily_id=20120109


「スピノザ入門」講座終了記念(笑)

2013年03月18日 22時48分30秒 | 大震災の中で
メディア日記「竜の尾」亭にアップした、国分功一郎氏関係のURL一覧です。

後半の「スピノザ入門」講座の12回は、ざっとご覧いただくと、スピノザ的な薫りが多少はしているかもしれません。

ドゥルーズの方はむしろ國分さんの立ち位置にぐっと近い印象。

この二人の哲学者が國分功一郎という哲学者の中で、どういう関係になっているのかは興味深いところ。
ドゥルーズもまた、スピノザ・ライプニッツにはこだわり続けていた人ですし、國分さんもライプニッツ→スピノザ(でも両方とも17世紀であり、ドゥルーズの研究対象でもある)と研究していった人です。

というわけで、ご笑覧あれ。

2011年2月7日
國分功一郎『スピノザの方法』みすず書房を読んで
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20110207


2011年2月10日
國分功一郎『スピノザの方法』みすず書房刊を読みおえて。
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20110210

2011年2月21日
國分功一郎『スピノザの方法』みすず書房刊の出版記念トークイベントに参加して
スピノザ『知性改善論』岩波文庫を読んで
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20110221


2011年6月19日
國分功一郎と萱野稔人の対談「スピノザの哲学」(その1) 朝日カルチャーセンター6/18
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20110619

2011年6月29日
國分功一郎と萱野稔人の対談「スピノザの哲学」(2)
國分功一郎・萱野稔人対談「スピノザの哲学」(3)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20110629


2011年7月
國分功一郎「暇と退屈の倫理学」(連載中) を読んで
http://blog.foxydog.pepper.jp/?month=201107

2011年8月10日
スピノザ『神学?政治論』岩波文庫を読み始めた。
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20110810


2011年10月21日
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』朝日出版社を読む
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20111021


2011年11月3日
國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理(1)自由間接話法的ヴィジョン』を読んで
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20111103

2011年11月15日
國分功一郎+千葉雅也『暇と退屈の倫理学』刊行記念トーク(11/5)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20111115

2011年11月21日
『暇と退屈の倫理学』刊行記念トークイベント第2弾<國分功一郎×白井聡>
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20111121

2012年2月14日
國分功一郎+中沢新一巻頭対談、読むべし! at プラス11
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20120214


2012年3月22日
『様々なドゥルーズ 國分功一郎×千葉雅也』(1)~(4)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20120322

2012年4月10日
國分功一郎スピノザ入門第1回
 その1スピノザの名前
 その2 破門された思想家たち
 その3 スピノザの著作
 その4 スピノザ哲学の難解さ
 その5 『知性改善論』の方法論
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20120410


2012年5月20日
スピノザ入門第2回スピノザの方法『知性改善論』をめぐって
その1
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20120520
その2
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20120522

2012年6月3日
スピノザ入門第3回
その1前回の復習
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20120603
その2創出された方法(methode inventee)と創出的方法(methode inventive)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20120604
その3スピノザ哲学の射程
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20120605

2012年7月14日
「スピノザ入門」第4回 『デカルトの哲学原理』を読む(その1~その3)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20120714

2012年7月29日
國分功一郎のスピノザ入門第5回
その1『知性改善論』と『デカルトの哲学原理』との関係、
、「私は思惟する、故に私は存在する(cogito,ergo sum.)」から
「私は思惟しつつ存在する(ego sum cogitans)」へ
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20120729


2012年9月17日
國分功一郎『スピノザ入門』第6回
スピノザの方法についてのまとめ
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20120917


2012年10月21日
國分功一郎『スピノザ入門』第7回
いよいよ『エチカ』に入ります!
『エチカ』における「倫理」の意味。倫理は「ガイドライン」ってことじゃない!
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20121021

國分功一郎『スピノザ入門』第7回(その2)
スピノザの考え方は能動態でも受動態でもない。中動態である。
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20121022

2012年11月18日
國分功一郎『スピノザ入門』第7回(その3)
スピノザの認識3区分(想像知・理性知・直観知)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20121118

2012年12月11日
國分功一郎『スピノザ入門』第8回(その1)
いよいよ『エチカ』冒頭部の分析です。例の神の証明。核心部分の一つですね。
http://blog.foxydog.pepper.jp/?month=201211


國分功一郎「スピノザ入門」第8回(その2)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?month=201211


2013年1月
國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』1~4を読もう!
http://blog.foxydog.pepper.jp/?month=201301

2013年1月4日
國分功一郎「スピノザ入門」第9回まとめ
スピノザの平行論について
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20130104

2013年2月7日
國分功一郎氏と東浩紀氏の対談 ニコ生思想地図 07
「震災以後、哲学とは何か」 を視聴して。
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20130207


2013年2月13日
國分功一郎「スピノザ入門」第10回の講義メモ
エチカの第三部(5部立てのうちの3部目)
「感情の起源及び本性について」
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20130213


2013年2月18日
國分功一郎「スピノザ入門」」第11回講義メモ
『エチカ』の第4部
「人間の隷属あるいは感情の力について」
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20130218

2013年3月18日
國分功一郎「スピノザ入門」第12回講義メモ(最終回)
『エチカ』の第5部「直観知」について」
通年のまとめ
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20130318


國分功一郎「スピノザ入門」第12回(まとめ)

2013年03月18日 13時17分15秒 | 大震災の中で

國分功一郎センセの「スピノザ入門」いよいよ最終回となりました。

メディア日記に最終回の講義メモをアップしました(日時指定したけれど、もう公開されてるかな?)

國分功一郎「スピノザ入門」第12回講義メモ

メディア日記「龍の尾亭」にアップしました。

http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980421
http://blog.foxydog.pepper.jp/


最終回はスピノザの『エチカ』第5部。
スピノザが最も重視した

第3種認識「直観知」

についてです。

併せて國分さんの読みの現在(課題も含めて)についても聞かせてもらいました。

ドゥルーズがいうように、スピノザの息遣いのぐっと身近に感じられる第5部ですが、最終回の講義は、國分功一郎というスピノザの読み手自身の息遣いもぐっと身近に感じられる「速度」に満ちた講義になりました。

最後に、有限な人間性の側からみると、スピノザはある意味マッチョとも誤解されかねない側面を含んでいる、この哲学はだから、強制されたりするものではない、という指摘に、「教育的」と私が個人的に呼んでいる國分功一郎氏の「スタイル」がしっかり刻印されていました。

有限性を抱えた人間と「永遠の相の下に」考えるというスピノザのスタンスは、確かに埋め難いギャップを抱えています。

確かに「幾何学的様式」で書かれた第2種認識(理性知)がスピノザの基本スタンスだと考えれば、第5部の結論は神秘主義とも東洋的悟り、とも読めてしまいます。

しかし、私は大震災と原発以後、むしろその人間の「人為」の有限性を痛切に感じたからこそ、スピノザの哲学が要請されなければならない、とずっと考えています。

いっけん神秘主義や「悟り」、あるいは逆に「マッチョ」とも見えかねないスピノザの哲学はしかし、彼の哲学の「文体」を國分功一郎氏と共に一年間味わったあとでは、そういう見方ではないスピノザ像がそこにあり得ることを「直観」しました。

大震災以後、なぜ自分がスピノザの哲学を必要としているのかも。

この世界以外に世界がないということ(外部参照不可能性)を認識しつつ、なおこの世界の悲惨さと向き合いながら生きることを選択するとき、むしろ有限性とのギャップにもかかわらず永遠の相の下に「認識」の価値を、それだけを称揚するスピノザの哲学は、「知性」を唯一の私たちに平等に与えられた力能として十全に発揮することの「善さ」を示してくれている、と感じられるのです。

もちろん、それは「ならぬものはならぬものです」という会津的定言命法でもなく、ある種の現状追認的ロマン主義とも違います。
マッチョなゴリ押し合理主義でもなく、ましてや神秘主義とは無縁の営為でしょう。

私が繰り返し語ってきた
「人為の裂け目」から顔を覗かせる「自然」


は認識の閾値を上げて行った結果到達するスピノザの「神=この世=自然」と響き合うものだと「直観」しました。
これからこの「直観」を、誰に強制することもなく、「懸命に語る」こと、が私にとっての
「棲家のことわり」=エチカになっていくのだ、とも。

よろしかったらご覧ください。



國分功一郎・中沢新一『哲学の自然』を読む(4)

2013年03月16日 14時37分31秒 | 大震災の中で
身も蓋もない言い方だが、私たちは「セシウム」の贈与を、

人為のリミットとしての「裂け目」から顔を出した「自然」によって

与えられてしまった、ということだ。

さて、この「捻れ」て「閉じ」て「開かれ」た土地に、なおも住み続けようとするときには、「自然」についての「哲学」が必要だ。

だから、この本は必読なのだと思う。すぐに役に立つかどうかは分からない。

性急に答えを求めると、人は至る所に答えを「半分だけ」発見してしまうんじゃないかな。
かといって、答えを求めること自体を諦めてしまうと、タライごと大事なものを流してしまうことになりかねない。

どう問いかけるのか。そして単純・性急に答えをだして事足れり、とはできない以上、粘り強く、適切な「問いかけ」を探して積み重ね、それを多層化しつつ、個別の生活と自然の秩序をつなぐ道筋を探していく必要があるだろう。

そういう「直観知」に至るのは簡単ではないけれど、諦めずにやっていこうと思う。
その元気をもらえる本でした。

よろしかったらぜひ一読を。




國分・中沢『哲学の自然』を読む(3)

2013年03月16日 14時23分30秒 | 大震災の中で
中沢新一は、第1回目の対談で、彼自身が立ち上げたグリーンアクティブの活動に触れた箇所で、こんなことを言っている。

「ヨーロッパのエコロジー運動は、いったん人間と自然を一度を切り離してしまってから再統合しようとする運動です。しかし日本の自然観では人間と自然は切断していない」


と述べたあとで、日本人と自然との関係を「交差(キアスム)」として捉える、のだという。

(こういうことを中沢新一がしゃらっと書いたり言ったりすると、東浩紀が「そんなジャーゴンつかって震災後に何やってんだ?!」とキレるわけですが、今時はちょっと検索かければそんなにおそろしく誤解はしないと思うし、こういうところから勉強してったっていいよね、と私は思うわけですが)

キアスムとは、「日本の大転換」によれば、


「社会というのはどこでも、具体的な人間の心のつながりでできている。社会のなかの個人は、程度の違いはあっても、けっして孤立して存在していない。さまざまな回路をとおして、人間同士の心のつながりを維持しようという方向に、社会は働きをおこなおうとする。つまり、人間同士を分離するのではなく、結びつける作用が、社会には内在しているのである。このような社会の本質を、「キアスム(交差)」の構造としてとらえることがでキアスムはさまざまな人格の交差した状態をあらわしている。私の心とあなたの心に《なにかのつながりが発生している状態では、主客を分離して、あなたのことを自分にはつながりのない対象のように扱うことはできない。このとき二人の間には「縁(つながり)」が発生する。」

ということになる。

交換可能な市場経済の原理とは異なった、交換に+αが常に伴っている社会性=「縁」の関係とでも考えればとりあえずはいいだろうか。

日本人の「緑の党」はそこから、その単なる交換可能性ではなく、+α、すなわち「贈与性」をもっているというところから、話を始めようとする、というのだ。

ここのところについていえば、

「分かるけれど、福島の現実に当てはめていくと少々修正というか、別の覚悟が必要になる」

と感じる。

つまり、高度に管理され、ある意味「工業化」=「産業化」された現代の農業は、セシウムの値だって、丁寧にコントロールすることが可能だ。
つまり福島の農業だって「計算可能性」の中にあるからこそ「復興」も目指すことができる。
しかし、人類におけるエネルギーの「自立」を目指して積み立てられた原子力発電所の「成果」をセシウム飛散という形で被った福島の自然は、交換可能で制御可能なエネルギーとは全く様相の異なる「鬼っ子」のような状況を抱えこんでしまった。

単純にキアスムとか脳天気に言われても(中沢新一が脳天気だというわけではありません。「鵜呑み」にできない、という当たり前の話です)、挨拶に困る。

自然と人間を分離した上で再度統合しようという欧米のエコロジー、といっても、菌類と植物が深いレベルで共生する中では、単純な「除染」など意味をなさない。実質上今のところ、森林を除染する手だてはないといってもいいだろう。

人為と自然を分離もできないし、簡単には統合もできない、そんな場所に私たちは立っている。
さてでは、私たちが自然の秩序の中で、人為的に「やらかして」しまったその結果を受けて、それでもなお自然と人為との「交差」を生きるとしたら、どんな「生」の様態がありえるのか?

定住してきた土地を「難民」として追われて生き、あるいはその周辺に止まって生きる者どもとしての「私たち」はどんな「自然」と向き合おうとしているのか。哲学が必要とされる所以である。

この本を読むことは、そういうことを考える「前提」の共有をもたらしてくれるのではないか。

答えがあるのではない。

正確に問いを立てるために私は(私たちは)学び続け、現実に生の選択をし続けるよりほかないのだろう。



國分・中沢『哲学の自然』を読む(2)

2013年03月16日 13時38分18秒 | インポート
まず印象に残ったのは、第2章。

その一つ目。
國分氏がフランスでデリダの講義を直に聴いていたとき、脱構築の可能性と不可能性を論じていた講義の中で、

「これは自然ですから脱構築できません」

って話をした、というエピソードだ。

これは中沢氏の

「『自然』に触れている人間は常に不完全性を抱えています。そのたびに反復を強いられる。と同時にそれが構築の原動力にもなっていく。後期のハイデッガーもやはりそうで……」

という部分に対応して語られたものだが、國分氏は、このデリダの言を「思ったほど簡単なことじゃない」と受け止める。

ハイデッガーの自然論・技術論の中での話だ。


二つ目は、その少し後に國分氏が書いている箇所

「ハイデッガーが言っていたことですが、『人為と自然』という意味で対比された『自然』というのは新しい自然概念であって、もともとはそういう対立自体を包含するものが『自然(フュシス)』だった。」P130

というところに反応した。

私(Foxydog)が大震災&原発事故を指さして繰り返し

「人為の裂け目から立ち現れる自然」

というのは、そういう『自然(フュシス)』は、

「人為の裂け壊れた隙間から、痕跡として顔を覗かせる自然」<人為=≠自然>

である、と考えているからだけれど、そこにもにも通じる。

中沢氏はだいたい、最近はとくにどれもこれも「贈与」に回収して論じてしまうから、わかりやすいというかわかりにくいというか、単純にみえてややこしいことになるのだが、その中沢的高速な「独楽の回転」をときどき浅くタッチして中速まで速度を落とし、「キュイン」というかるい音とともにポイントを見せてくれる國分的「教育」の手捌きがこのあたりでも効いている、といえるだろう。

ハイデッガーの技術論は、心ある(きちんと読んでる周りの)人に聞くと、だいたい評判が悪い。
あれは現代には対応できない限界があるとか、さほど深く考えているものじゃないとか。

まあ、國分氏も繰り返し指摘するように、結局「農民=風車」が到着点かよ!?と突っ込むことは簡単だ。

でも、私はハイデッガーの短い講演原稿『放下』を読んだとき、鳥肌が立ち、まるでこれはハイデッガーが原発事故後の福島に来て講演したかのような話じゃないか、と感じたことを忘れることができない。

去年の暮れごろ、ハイデッガーの技術論二本

「原子力時代と『人間喪失』」(河出「道の手帖『ハイデッガー』所収)
「技術にへの問い」平凡社

を読んでいたところ、Twitterで國分センセが「今、『放下』を読んでいます」と書いてあったのをみて、急いで入手して読んでみたのだが、これが「すげえ」って感じだった。

後半アンビバレントな技術に対する態度を「放下」「密旨への開け」とか言い出したとたんに「密教的」な感じでよく分からなくなったのだが(それはそんなに難しく考えなくていいよ、と國分センセにあとで助言をもらいました)、前半は特に、びびびびっくりするほど私たちの今とシンクロしていた。

ざっくり言えば、技術はもともと自然の中にあったものを押し広げるものだ、というのです。
で、農業とか風車とかぐらいだったらいいのだけれど、技術は石炭とか石油とか、自然からエネルギーを徴発して利用しようとし、結果人間はそこに立たされ坊主のようになって、「計算可能性」の枠内でだけ物事を考えるようになってしまった。
しかし、自分たちで制御できる以上のエネルギーすなわち原子力を技術開発していくことは、原子爆弾によって直接人の命を奪うことよりも大変なことを招く。

それは人間の究極の思考停止だ、というのです。

すごいでしょう。1950年代に、原子力の平和利用について、これだけのことを言っていた人はいない。

「エチカ福島」の第1回でも引用(というよりは垂れ流し配布)しましたが、

だから、「熟慮」しろ、技術をぜんぜん使わないわけにはもういかないのだから、距離を取り、熟慮し、いつでも手をはなせるようにしながら行為しろ、さもないと「計算可能性」のあることばかり考えて実質的思考停止に陥り、その技術によるエネルギー調達の自己目的的ループにとらわれてしまうぞ!

という警告になっている。

結論部分は、「新たな土着性」は芸術によって承認されている、みたいな例によって意味の分からないレトリックで終了するんですがね(苦笑)。

この、技術に「とりさらわれている」っていうハイデッガーのこの指摘は、60年経っても重要。

中沢・國分両氏がここから「自然哲学」についての論を展開していることに、私は共鳴しつつ、意を強くしました。

ある意味、安富歩さんの「東大話法」(なんで「東大」?というのは未だに疑問ですが、まあ、安富さんは「やっちまう系」の中でも「凄腕」だからね)とも、「計算可能性」の枠内に取り攫(さら)われてしまった思考に対する批判と言う意味では通底している。

そこから「エチカ」にたどり着くためには、スピノザの話にいかねばならないのですが、それはまた今日のスピノザ講座のあとで。




國分×中沢『哲学の自然』を読む(1)

2013年03月15日 13時03分02秒 | インポート
『哲学の自然』を読む(1)

これから、じっくりとこの本を読んでいくつもりなのだが、これは本当におもしろい対談だ。

中沢新一という希有な「才能」が、國分功一郎という「読み手」を得て、より広い場所に通じるよう「変換」されていく様子が見て取れる。

できれば、中沢新一の近著『日本の大転換』を併せて読まれたい。

そうすると國分功一郎という読み手の持つ「力能」が遺憾なく発揮されている様子がよりよく分かるのではないかと思う。

(興味のある方は、國分功一郎氏と東浩紀氏がニコ生で対談している動画も併せて見るとさらにおもしろさが倍増する、と思う)

中沢新一は、大震災と原発事故以後、積極的に発信している人類学者・哲学者である。

その受け取るべき最良の部分を、國分功一郎は極めて的確に指し示してくれている。

序文に「用心深く」書いてあるように、國分功一郎氏は中沢新一氏の空中の戦のような「議論」をそのまま鵜呑みにはしないよ、と信号を出してもいる。

それを、「処世術」か「社交」としてだけ(そういう面もあるかもしれないけれど)読んでしまうと、この本の魅力を半減させてしまうのではないか。

國分功一郎の玉の拾い方は、かなりの芸域に到達していると思う。

(嘘だと思う方は、柄谷行人との対談、あるいは前述の東浩紀との対談を併せて参照されたし)

それは兼ねてからここで書いているように、國分功一郎氏の「教育的」なスタンスとでもいうべき姿勢に関わっていると思われる。

哲学や歴史の専門家が見ると飛び上がるようなことを平気で「ゴロン」と提出する柄谷行人や中沢新一の「芸風」は、確信犯的であり、一見ある種の「イデア」をまず提示する空中戦の身振り、とも見える。

だが、國分功一郎氏はそのボールの拾い方を指し示してくれるのだ。

確信犯と、専門家のすれ違いなら、見慣れた光景だ。

他方、逆に確信犯だからこそファンもつくというのも分かりやすい。

だが、そういう素人めいたファンとプロパーの間に飛んだボールを、今までだれも拾ってこなかった。
哲学の専門家で、そのボールを拾えるのは、今、國分功一郎氏を措いてほかにあるまいって感じすらある。

対談本は読み流して終わるのが普通だけど、この本はゆっくりアイディアの卵を暖めながら読み直す価値がありそうだ。

とりあえず一読後の印象でした。詳細は後刻。


時短のこと

2013年03月15日 06時09分27秒 | 大震災の中で

日経ビジネスのコラム

育休フィーバーの影で犠牲を強いられる“正直者”たちの鬱屈
「働き方の多様化」では済まされない取得者たちの軽さ
河合 薫

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20120229/229264/?P=1

という記事を読んで考えさせられてしまった。
今自分の職場でも同じようなことが起こっている。
ということはおそらく、いたるところで起こっているかもしれない。

こういうことを書くと各々大変な事情を抱えた人に申し訳ことになりかねないのだが、当然いいたいのはそういう個別的なことでは全くない。

ただ、現状では、時短、家庭の事情、あるいは他の職場からの引き抜き、病気休暇、介護などなど、様々な問題で、職場が今までのようには回らなくなっている。

繰り返すが、例えば育児のための勤務時間短縮を取得することや人、が問題なのではない。
仕事の量も質も方法も変わらないままその制度だけが運用されてしまうと、現場には「仕事」だけが残されることになることが問題なのだ。

ワークライフバランス、というのは、休暇が取れる人にとってだけのものではないはず。安心して休暇が取れる仕組みとは、そのまま誰かが仕事を増やす、ということであってはならないだろう。
無能なマネージメントの中で進んでいく単なる病気休暇や育児休暇、介護休暇の取得は、残されたものの負担増で終わる。

人を増やすか仕事を減らすか。

その二つが単純にできないのであれば、マネージャーが知恵を絞って仕事の質を変えていかねばなるまい。ことは休暇取得者、残された職場の者、管理職みんなの問題なのだから。
もし、「みんなの問題」でなくなってしまうと、立ち去り型のサボタージュが起こるか、もしくは休暇取得者への理不尽なルサンチマンが渦巻くことになりかねない。

権利は権力でもある。職場の人間関係の中でその権力行使がなされるとき、関係は否応無く変化していく。
それをどう、コントロールするのか。

それは実は仕事における「交換可能性」の問題でもある。

仕事ってなんだろう、と改めて考えさせられる。
家庭ってなんだろう、改めて考えさせられる。
ちと大げさにいえば、オレってなんだろう、とも。

新しい働き方、を考えねばなるまい。私にとっては老後への準備期間がそれに当たる。だとすれば、昔の仕事からは、みんなが少しづつ「立ち去る」ことが必要なもしれない。

仕事は、やることよりもやめることの方が怖い。

でも、そろそろそういう文脈から離れることも必要。

難しいな。