龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

コペンがやってきた。

2024年12月29日 19時56分24秒 | クルマ

2024/12/28(土)コペンがやってきた。

ロードスターを手放してからしばらくの間、オープンカーのない生活を続けていた。
妻がいた頃は彼女にロードスターを乗ってもらい、ときどき交換しながらオープンスポーツを味わっていたが、彼女の病気もあってロードスターを手放して軽にすることにした。
手放すときに友人が声をかけてくれて
「奥さんが乗ってたクルマですし好きなんですから預かりますよ。乗りたくなったら言ってください」
持つべきものは友人である。

その彼に三年ほどロードスターの面倒を見てもらっていただろうか。
だが、家族構成が変わって彼も二台持ちは出来ないと言うことになって一度手放したロードスターをまた自分で持つことになった。
なんだかんだいって長い付き合いになったロードスターVSRHT。
このクルマで妻と出雲にもドライブしたし、阿蘇山も走った。お伊勢参りにもいったし、富士山ドライブも。弘前の桜を観にいったのもこのクルマだった。思い出多いクルマである。

まあだが、とはいえ、老後の無職に二台持ちは正直ツラい。

今度はまた別の友人が乗りたいというので
「じゃあ廃車にするか手放すかするときには声をかけてね」
といって乗ってもらうことにした。
二度目のロードスターとの別れだった(笑)

そんなこんなで、ライトウェイトオープンスポーツとの付き合いは終わりかと思われた……のだが、ひょんなことから今回コペンに乗ることになった。
しばらくはそのことを書いておこうと思う。
(この項つづく)

 


2024年いわきFCの応援を終えて

2024年12月29日 19時37分35秒 | いわきFC

いわきFC応援のことを書くのは久しぶりだ。
というか、この1年ほぼブログをお休みしていたようなものだった。
外の活動ができるうちは、正直、家でブログを書く気にならない。
たまた12月中旬からコロナに罹患して「謹慎状態」になったので、少し一年を振り返ってメモ代わりに書いておこうと思う。

J2昇格初年度、22チーム中18位に終わった2023年末は、主力スタメンの半数以上が移籍し、いわきFCファンはてんやわんや状態だった。

本当に大丈夫なのか?わがいわきFC。

だが、DFの照山選手、生駒選手、MFの西川選手、大西選手、五十嵐選手、大迫塁選手といった新たな戦力を迎えて、終わってみればプレーオフ進出を争える終盤戦となり、結果9位と前年比で躍進を遂げた。

もちろん課題もあるのだろうが(終盤勝ち点を取り切れない試合が続いた、ホームで勝ちきれないことが多かったなど)、いわきFCサポーターとしては(予想外にも)充実の1年になった。

ことしの年末は、充実した補強の移籍にも恵まれ、来年がまた楽しみである。去年のような心配とは無縁の穏やかな年末を迎えることができた。

ただ一つ心配があるとすれば、今季まで在籍し、いわきFCのゴールを守り続けてきたGK、田中・立川・鹿野の3選手が一度に抜けてしまうという点だ。
GKは1チームに1ポジションしかないから、経験を積むことも簡単ではない。
新たなGK陣の活躍を期待したい。

それにしても、今年は谷村海那、山下優人、山口大輝というチームと共に成長し、長く支えてくれた核となる中心選手が次々に残留してくれたことがうれしかった。
ワンクラブマンとなって欲しい山下選手。選手のコミュニケーションの中心にあってしかも7ゴールを決めている山口選手。当然幾つもの高額オファーがあったであろうこと想像に難くない19ゴールの谷村選手。
この3人が来季もチームを牽引してくれるとしたら、プレーオフ進出も現実味を帯びてくると思う。

正直びっくりだったのは有馬選手の大分移籍だった。
順位の低い同カテゴリー移籍は、意外に思った人も多かったのではないか。
有馬選手も思うところがあった覚悟の移籍になったのでは、と素人ながら想像する。
大分トリニータ付きの記者もYouTubeで「なぜ大分に?」とつぶやいていた。
もちろん活躍してほしい。そして「うちの有馬選手」を大事にしてね、といってみたい気持ちにもなる。

CBの補強も十分のようだし、有馬のあとのトップを誰が務めるのか?谷村はFWであっても飛び出しからのゴールが主戦場になるとすれば、もう一人の(もしくは二人の)トップの役割を誰が演じるのか?
期待しつつ待ちたいものだ。


牛腸茂雄展を観てきた。

2024年12月16日 15時12分54秒 | 評論

いわき市美術館で開催されていた(現在は終了)

写真家牛腸茂雄展

を観てきた。

写真展なんて、酒田市の土門拳記念館を一度、恵比寿の写真美術館の企画展を一度見たぐらいで、ほぼ経験がない。

絵画ならばどんなにわけの分からないことが描いてあろうが、それはとにかく作者の表現なのだ、という「約束」が予め共有されているから、難解そうたったり、抽象的だったりしても驚きはしない。

 

ちょっと警戒するのはむしろ「あたかも写真であるかのようにいやそれを超えてしまったかのように」描かれているスーパーリアリズムの絵画を観た場合だ(ホキ美術館など)。この人はいったい何をしたいのだ?と危険信号が点滅する。

 

写真はむしろその逆だ。ついつい見たまま、を観てしまった気になる。だって被写体はリアル世界の出来事に決まっているわけだから。

だがむろん、一度でもカメラを購入して写真を撮ろうなどと生意気なことを考えたことがある人なら、その「見たまま」がどんなに困難かをすぐに知らされることになる。

写真を撮っても、見たままになんか撮れないのだ。

 

そしてそこには幾つかの要素がある、と次第に分かってくる。

一つは技術が瞳の見たままに追いつかないという問題。

もう一つは同じことの別の言い方なのかもしれないけれど、写真は別に見た通り撮っているわけではないという側面だ。

どんなフレームでどんな角度でどんな倍率でどんな対象との距離で、どんなエフェクトをかけて撮るのか、は「みたまま」などといった素朴な話を受け付けない。

 

3つ目は、こちらの脳みその問題にもなるのだが、何かを私たちが見つめたとき、その実感、リアリティ、つまりはクオリアとでも言うべきものは、もともと印画紙に定着したり、液晶画面のドットにあらわれているものとは根本的にことなる、、という側面だ。

 

たから写真家は、素人であっても、シャッタースピードを変え、露出を変え!感度を変え、倍率を変え、そのいわゆる見たものの質感クオリアに迫りたいと願うだろう。

 

いわゆる写真をゲージツ的なキャンバスにしようとする「前衛」なら話は簡単だ。

絵画のように扱えばとりあえずはそれで済む。

字ではない書道、見たままではない写真、音階を保たない音楽……。

 

そうではなく、見ているのに観ているママではない写真。そういう領域があるとしたらそれほどーユーことなのか?

 

牛腸茂雄の写真をみていると、そんなことを考えさせられるようになった。

 

写真展覧会体験の乏しい素人の言だから話半分以下に聴いてもらってよいのだが、牛腸茂雄の、写真は何か文学的な音色がするのだ。

 

どういうことか。

 

(この項続く)