臨済宗建仁寺塔頭のこの寺院は6月半ばになると、書院前庭の池畔に半夏生(はんげしょう)の葉の一部が白くなり小さな房状の花を咲かせる。
そんな変化から「半化粧」ともいわれる。また両足院は「饅頭始祖の寺」でもある。寺創建時に来た中国僧の林浄因が饅頭の文化を伝えた事が由来。(ITUジャーナル July2023)
京都市街地からは離れた里山の中腹にある臨済宗南禅寺派の古刹。観光客が訪れることが少なく静かである。
庭園は枯山水である。白砂敷き、刈込み、白壁、そして借景の比叡山とつながる。庭石をさつきの刈込みで置き換えている。「デビッド・ボウイが涙した静寂」の寺としても知られる。(ITUジャーナル June 2023)
この日は家族たちが東京に戻る日で夕方の新幹線まであまり時間がないなか、東山の峠を越えて距離的に近い大津市にある坂本城跡に行きました。
明智光秀が織田信長の命により1571年に築城したお城の跡です。当時、鉄道も自動車もないなか多量の物流は水運が中心でした。琵琶湖は日本海の港から京都への水運に重要な役割をはたしていました。
完成した坂本城は、琵琶湖湖岸から少し離れた湖上を埋め立てて本丸とし湖岸側に関連施設を建設しました。現在でも湖の水中に城壁の石組が少し残っていて湖の水位が下がると現れるそうです。土日祝日は地元のボランティア「坂本城を考える会」のメンバーが説明をしてくれます。
いただいた資料の坂本城復元予想図です。
ここに城を築いた目的は、比叡山延暦寺に対する抑えと琵琶湖水運の交易(課税)・湖賊(海賊)の警備でした。織田信長は光秀に坂本城を、羽柴秀吉に長浜城を築かせ、そして自身の安土城の対岸に大溝城(琵琶湖西岸、高島市)を築き四つの城によって、琵琶湖の水運を完全に掌握しました。
明智光秀の像が設置されています。
「光秀の意地」(唄:鳥羽一郎)の歌碑、ボタンを押すと歌が流れました。
坂本の町を散策しました。ここには伝統ある鶴喜そばの本店があります。当時、築城の石垣建設の専門家集団「穴太衆」(あのうしゅう)が住んだところです。
以前にこのあたりを散策した時の写真を掲載します。
規格化された石材ではなく、色々多様な石を組み上げています。なにか芸術性を感じさせてくれます。
(古城巡り、終わり)
次に向かったのは、奈良県北西に位置する大和郡山市の郡山城でした。
京都から橿原神宮に向かう近鉄の線路がこのお城の堀と石垣のすぐ近くを通るので、車窓からよく眺めていてこのお城はどんなところだろうかと思っていました。
5月の連休後半に東京から家族3名(うち小4と中1の男子2名)が来訪してくれました。中1君の最近の趣味は「戦国武将にゆかりの城」を見学して、ご城印を集めることです。
「山笑う」とは俳句の季語で、春山の木々が一斉に芽を吹き山桜などが花開く明るい景色を表している。
京都市街地から高野川に沿って大原街道を行き、八瀬集落を過ぎたあたりの山には落葉広葉樹が多い。東山と同様に戦後の大規模な杉植林を免れた山は四季ごとに美しい。(ITUジャーナル May 2023)
Day3、旅館バスで青森駅まで戻りました。帰路の飛行機出発まで多少の時間があったので、青函連絡船の見学に行きました。
操舵室。人形がいてリアリティがあります。
鉄道車両を積むデッキは2階建てになっています。