京都市美術館別館(岡崎)にて開催されているこの展示会を見学してきました。
随分クラシックな建物です。このすぐ左手がロームシアター京都です。
中国の博物館と研究機関17ヶ所から多くの文物が出展されています。(2017年4月21日まで)
嬉しいことに館内の展示品の撮影が自由でした。自分のカメラに収めることができると後日、自分の記憶整理やブログへの掲載に役立ちますから。
数年前から大学で情報学、特に情報の記録や伝達の手段を講義し始めたので、当初は電気通信と計算機の情報学でしたが、徐々に過去に遡っていって、古代の文字や、生物細胞の情報原理(DNA)にまで興味を持つようになりました。
”漢字を造ったのは、四つ目の蒼頡?
倉頡(そうけつ)は古代の帝王黄帝の下で<史官>という官職について記録を担当していた。鳥や獣の足跡を観察して漢字を発明したという。・・”
とういう伝説が、中国にあることを初めてしりました。鳥などの足跡を記号化して情報を記録したということは了解できますが、蒼頡なる人物の名前が伝説となっていることは驚きです。
まだ漢字が生まれる前の新石器時代の土器に刻まれた符号です。所有者か製作者を表す紋章と考えられています。
「商」または殷(いん)の時代(紀元前1300年頃)に作られた甲骨文字。牛骨に卜辞(ぼくじ)が刻まれています。この時代が最も古い漢字の記録です。
殷墟と呼ばれる遺跡は20世紀になって間もないころに発見されたもので、盗掘された甲骨片(漢方薬と考えられたので売買されていた)の追跡から場所が特定され発掘が始まるなど興味深い考古学のエピソードがあります。
牛の骨だけでなく、亀の甲羅(腹側)もよく使われました。
殷の頃には青銅製作の技術が確立していたので、殷墟からは多くの青銅器が発見されています。その多くには文字が刻まれています。漢字が発展してくると、占いだけでなく祭ごとの文言を書きつけることなどにも使われました。
漢字の形状は、デザインを重要視して格式ある形を作りあげているようです。
殷墟の中には、盗掘を免れた墓が発見されて「婦好」という文字が刻まれた青銅器が多数発見されました。青銅器だけでなく玉、貝、象牙なども見つかり商の時代の研究に大きな役割をはたしました。
こんな素晴らしいデザインの銅爵(どうしゃく、祭祀につかう酒器)で「光父辛」という祖先の名前が銘文として記録されています。
銅鼎、戦争を記す銘文のある三本足の鼎。戦いに勝ったので、敵からの戦利品の青銅器を溶かしてこれを作ったと書かれています。文字がよく見えるように小型のスポットライトを取り付けていました。
今回の目玉展示品の兵馬俑。この兵士の鎧、左胸の上の方に「不」という文字が記されています。展示室の照明ではよく見えなかったが、係員のハンドライトで照らすとわかりました。製作者の名前と考えられています。世界初公開だそうです。
兵馬俑は作製された当初は極彩色に色付けされていたようで、現代ではほとんど脱色していますがその顔料の残滓が一部に薄黒く残っています。
石器、青銅は記録媒体としては簡便性や経済性にかけるので、事務的な記録や書簡などには竹や木片も用いられました。
これはレプリカです。本物は劣化しやすいので保存液につけて保管されています。
漢字のデザイン性に魅せられて、美術としての書が発達します。
分銅型に作り上げた墨です。胡開文なる墨はブランドとなりました。
硯や筆などの文房具も、それにつれて趣味性を増して発達していきます。
則天武后が祭祀に捧げた純金の祭文「武則天除罪金簡」。彼女は自らの権力を示すために、独自の漢字を作り出したそうです。例えば、水戸光圀の「圀」(意味は国)など。
漢字の練習も、文官になるためには極めて重要でした。「千字文」という教科書的な練習帳とそのお手本が作成されました。上記写真は草書体です。
日本には、仏教の伝来よりも前に渡来しています。『古事記』や『日本書紀』には、応神天皇の15年に、当時、朝鮮半島にあった百済(くだら)という国から王仁(わに)という人がやってきて、『論語』と『千字文(せんじもん)』という書物を初めて献上した、と記されています。その年代は5世紀の始めころと考えられています。
ちなみに、現代日本で小学校で学ぶ漢字は1006文字、常用漢字では2136文字です。新聞、雑誌を読むためにはそれよりも多くの漢字を知る必要があります。
※説明ポスターや、案内係の人の解説で「英語ではわずか26文字を学べばすむが、漢字では数千文字を覚える必要があるので、欧米人に比べて、日本や中国の人は大変ですね」と。
文字数だけで言えばそうですが、欧米語では語彙(word)を覚えなくては言葉の読み書きができないわけで、その必要語彙数はやはり数千から数万に及ぶでしょう。もちろん、漢字言語でも同様に読み書きの語彙数は同じ程度の数が必要です。文字数だけを見て、それぞれの言語の難易性を説明するのは、一面的ですね。
漢字の成り立ちについて、何枚ものポスターで解説がありました。旅という字は、軍旗のもとに多くの兵士が並んで進軍するかたちだそうです。
軍事用語だったのですね。現代のように「旅」が業務から分離して娯楽となったのは、英国のトーマス・クック社がスイスの自然をテーマにして観光旅行という概念を発明してから始まったようです。もちろん19世紀になると旅行手段の安全性、効率性が高まったことが背景にあるのでしょうが。
その安全の安ですが、家の中で女性が平穏に暮らしているさまから作られたようです。
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本展の監修は京都大学大学院 阿辻哲次教授です。