朝顔

日々の見聞からトンガったことを探して、できるだけ丸く書いてみたいと思います。

ハッピーハロウィン

2013-10-31 | もろもろの事
朝起きて、PCを開くと、こんな画面になっていました!



おなじみのGoogle特別バージョン(Google Doodle、あるいはホリデーロゴ)です。かなり凝ったアニメーションが楽しめますよ。

さて、Halloweenというイベントは、米国で盛んに行われて来ましたが、最近では日本でも何かと「お祝い」されています。クリスマス、ヴァレンタインデーと、なんでもお祭りにして取り込んでしまうのが、「八百万の神様の国」日本らしい。



でっかいパンプキン、「ジャック・オー・ランタン」も定番です。



お化けも沢山出てきます。



この写真は再掲ですが、お気に入りなので、PC画面の表紙にしています。

トリック、オア、トリート (Trick or Treat!)と言って、子どもたちが仮装して近所の家々をめぐり、お菓子をもらう行事に、昔、NYに住んでいたときに遭遇しました。前の日には、お菓子屋でキャンデーやチョコレートを買い付けておきました。

日本人留学生が、一人でこれをやって、米国南部の町でとある住宅のドアをノックしたところ、驚いた住人が「フリーズ」と叫んだ。でも、その意味が分からずに、さらに一歩近づいたため、銃で撃たれて死亡した事故が20年ほど前にありました。こわいですね、銃社会は!
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1円単位

2013-10-30 | もろもろの事
消費税の8%化に関して、少額商品の価格が記事になっています。



これは、関東での鉄道運賃が現金支払と、ICカードとでは異なる金額に設定されることの報道です。

かつては「一物一価」の観念が残っていて、そのことから「同じもの」に異なる価格がつくことの抵抗感があるのでしょう。

ですが、すでに購買する時期や方法によって、価格が異なる商品やサービスは増えています。ホテルの宿泊料金や航空運賃は、予約する時期や方法(ネットか窓口か)で相当違います。鉄道料金でも東海道新幹線は、窓口で切符を買うのと、ICカード+ネット予約では価格が違います(厳密には同一の切符ではなくて、JR他社区間の扱い(都区内)が異なりますが)。

1円硬貨を自動販売機で使えるようにすることは、いまやナンセンスなので、報道された方法は十分に納得できます。

ついでに考察。郵便料金ではがき、定形郵便物(25g以下)の切手が51円と82円、となります。その端数は大変に面倒です。現時点での定形郵便の料金区分、25グラム以下、50グラム以下(10円増し)は、手で持っただけでは不明で、正確な秤がないと計測できません。

「クロネコメール便」は、大きさと厚さだけで原則、価格を決めています。非常にわかりやすい。

日本郵便は、今回の料金改定をきっかけに、郵便料金の合理化=利用者にとっての使いやすさを追求するべきだと強く思います。今回は間に合わないならば、次回の消費税改定に合わせて。

さらに、もっと一般化しての提案です。

今後、できるだけ1円硬貨の流通を減らしていってほしい。日常の商品は税込みで、10円単位にする。スーパーなどの商品は1円単位でいいけれど、レジでまとめて金額を計算するときは、最後で四捨五入して10円単位にすることを希望します。現在でも、財布の中の1円はかさばって嫌なので、できるだけその硬貨を先に使う努力をしています。毎回、何秒間かのロス。日本中でそんなロス時間があるはずなので、それを簡素化できると思います。

山梨県の某スーパーマーケットでは、レジの横に「1円硬貨を入れた箱」があって「小銭でお困りの時には、この1円をお使いください」とのサービスがありました。

また諸外国では、1円程度の少額硬貨は実際上、流通していなくて、四捨五入とか、キャンデーやガムでお釣りを出すところもあります。

いかがでしょうか。
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愛車ゴルフくん、(^^)/~~~

2013-10-27 | もろもろの事
東京から引っ越してきた時に、京都の市内は交通が便利なので、もう自家用車を持つことは止めようと思い、東京での車は処分してきました。

ところが、3年前に故郷で独居する老母が高齢のため運転免許証の更新はしない、所有車は捨てると言い始めました。それならば、貰い受けるということになって、すでに16年を経過したこの車をもらいました。なにか緊急時に駆けつけるのには役に立つだろうと。



多少の故障はあったのですが、19年目の車検の時期が来たので寂しいですが廃車にすることにしました。

走行距離は12万キロにも達しています。オイル交換も2年に一度しかしなかったのによく動いてくれました。最近の、といっても古いですが、自動車の品質には全く感心します。

もしかしたら、東南アジアあたりで再活躍するのかな、あるいは交換部品になるのかな。

バイバイ、(^^)/~~~、ありがとう。


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松江2

2013-10-26 | 国内各地の風物
小泉八雲記念館を見学しました。



再話小説「怪談」で知られるラフカディオ・ハーンの生涯の資料が展示されていました。たしか国語の教科書にものっていた記憶があります。



アイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれ、フランスとイギリスで教育を受けるが、19歳の時に単身で渡米。ニューオリンズでジャーナリストの職を得る。特派員として39歳で来日後、島根県の学校の英語教師になります。その後、熊本で英語教師、帝国大学文科大学(現東京大)、早稲田大学に勤務して、日本文化に関する多くの作品を残しました。

松江には、明治23年(1890)から翌年にかけてわずか1年3ヶ月の滞在でした。この時期に妻となる小泉セツと知り合い、結婚して日本に帰化しています。そんなに短い松江時代でしたが、この地にとってその影響力は計り知れません。



「堀川遊覧船」の小舟が動いていきました。

堀端に「松江歴史館」があります。武家屋敷跡を発掘調査した後、そこに屋敷を再建し博物館としています。



慶長16年(1611)松江城の建設にあたっては、宍道湖につきだしていた尾根の途中を掘削して、城山とそれを囲む堀を新たに大規模な土木工事しています。武士や町民の住居地区も「都市計画」して定めていることがよく分かりました。

江戸時代の松江藩はとても豊かであったようです。



周回バス(ぐるっと松江レイクライン)で月照寺に向かいました。
徳川家康の孫に当たる松江藩初代藩主松平直政公が生母を祀るためのお寺です。その後、歴代藩主の菩提寺となりました。

「月照寺の大亀」で有名だそうで、小泉八雲の随筆にもでてきます。

”松平家の藩主が亡くなられた後、亀を愛でていた藩主を偲んで大亀の石像を造りました。ところが、その大亀は夜になると動きだし、蓮池の水を飲んだり、城下の町で暴れ人を食らうようになったのです。
 困り果てた寺の住職は、深夜、大亀に説法を施しました。すると大亀は、「私にもこの奇行を止めることはできません。あなたにお任せいたします」と、大粒の涙をポロリポロリと流しながら頼んだといいます。そこで、亡くなった藩主の功績を彫り込んだ石碑を大亀の背中に背負わせて、この地にしっかりと封じ込めたのでした。”(引用:http://furusato.sanin.jp/p/area/matsue/37/)



ホテルの前から眺めた宍道湖。対岸の県立美術館のあたりが「夕日の名所」なのでそちらに向かいました。



だんだんに日が傾いてきて、美術館のガラス壁に反射しています。



「出雲の阿国展」を開催していました。歌舞伎の発祥となった江戸時代のアイドルです。京都四条大橋の袂にはその銅像が立っています。

”慶長八(一六〇三)年、出雲国(島根県)の神子(みこ)を名のるお国が、宮中で「かぶき踊」とよばれる新しい芸能を披露しました。それは既存の芸能の諸要素に異風な「かぶき者」の風俗を組み合わせた踊りで、やがて群衆からの熱烈な支持を得たお国は、一躍“天下一”の芸能者と称えられます。彼女以降も遊女歌舞伎、若衆歌舞伎のアイドルが数多生まれ、お国は歌舞伎の祖・「出雲阿国(いずものおくに)」として偶像視されていきました。”(引用:島根県立美術館web)


(引用:Wikipedia「四条大橋」)

京都四条大橋、歌舞伎座の前にある出雲阿国像。



美術館の外の湖畔には、夕日を待つ人が集まってきました。ここにある兎の像の何番目かを撫でると縁起が良いとのうわさ。



沈み始めると、太陽の動きはとても早い。



対岸の山の端に隠れてしまいました。

出雲旅行(3泊4日)はこれでおしまいです。この旅行を企画し案内してくれた友人ご夫婦に大感謝です。

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松江

2013-10-25 | 国内各地の風物
出雲旅行の最終日は、松江市を散策しました。



「しまねしまい」・・NHK朝ドラ”だんだん”でデビューした双子姉妹、三倉茉奈・佳奈のポスターが、宍道湖(しんじこ[普通にはこの漢字読めませんね])と島根を宣伝しています。

ドラマで「宍道湖のしじみ」がなんども出てきました。



ホテルの朝食会場でも、しじみ味噌汁をアッピールしてます。



おみやげ売り場でも、しじみ、しじみ。



乗り降り自由の観光巡回バスに乗って、松江城に行きました。



天守閣の前では、地元ボランティアの人がサムライ・アトラクションで観光客の注目を浴びていました。天守閣に登るのはちょっとパスして、その麓に歩いていきました。



この狐の像は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)がとても気に入って、頻繁に参詣した城山稲荷神社の境内にあるものです。ただし、この像はオリジナルが風化したので、全国の支持者寄付金によるレプリカです。



このお稲荷さんには、江戸時代は大変な数のおきつねさんの像が寄進されていたとのこと。



現代ではこぶりですが・・



これが、八雲が愛したオリジナルのキツネ像。かなり風化してきたので屋根付きのところに保護されています。といってもだれでも見ることが出来る場所。



城址からお堀を渡って、武家屋敷の並ぶ地域に行きました。
(つづく)

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出雲の串焼き、ノドグロ

2013-10-23 | 食べること、レストランなど
出雲出身の友人夫婦には、松江・宍道湖畔の温泉ホテルまで送っていただき、ここでお別れです。チェックインした後、帰路の列車予約と夕食を街でとるために松江駅に行ってみました。



まず駅前にある名門「一畑デパート」の中に入って見ると、地元食品の展示即売会の案内があり、その会場に行ってみました。いろいろと試食。この日は翌日も観光の予定があったので、純粋に地元食品の下見をしました。上の写真は飛魚のちくわ(あご野焼き)です。その他にも多くの名物があり、どれも食べてみたいものばかりでした。

駅の周辺は地元のサラリーマン・ウーマンが集まりやす場所なので、きっと美味しくて安い飲食店があるはず。・・嗅覚を活かしてそんな店に入りました。(ホテルのレストランは、宿泊客には安全で便利ですが、値段はやや高くて、ほとんど「発見」がありませんから)

※[昨日の驚きのニュース、阪急阪神ホテルズで食材の偽装事件が発覚。記者会見では「担当者と仕入れ業者の無知と無自覚」と説明していましたが、そんなことあるわけ無いでしょう。経営幹部の責任は必須でしょう]



メモをとっていないので、個々の名前や素材が思い出せません。右の白いものはなんだったかな? orz



これは、わかる、白ネギとシシトウ。



サンマの塩焼き。自宅では、魚を直火で焼くことはまずありません。うまい!



小玉ねぎベーコン巻き?、鶏肉とシソ?



地酒三種飲み比べ。



玉ねぎ、など。



締めは「ノドグロ」、高級魚です。

ちょっと見苦しいですが、



確かに、この魚の「のど」は真っ黒でした。
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由志園、大根島、雲州にんじん

2013-10-22 | 国内各地の風物
島根県名所の続きです。



松江市東側の内海にある島が大根島。その島では、昔から「ぼたん」と「高麗人参」の産地として栄えてきたそうです。ぼたんの苗をこの村の女性が行商に行って販売していました。

時代とともにそんな行商がうまく行かなくなってきたことから、お客さんにこの島に花を見に来てもらい苗も買って帰ってもらうというビジネスモデルを考えだした地元の人物、門脇栄がいました。

その決意と努力によって、素晴らしい日本庭園が完成しました。



ぼたんの花は、咲く時期が限られているので、温室の温度や日照を工夫して年中いつでも咲いた花が見られるような特別に栽培された花の展示室があります。



時期はずれではありますが、とても美しい立派な牡丹の花を楽しむことができました。



その後、庭園の中を散歩しました。



枯山水があり、



池があり、



渓流には火山岩が積み上げてありました。パンフレットを読むと、この大根島は20万年前に火山活動で形成された地形だそうです。それでか火山の溶岩が普通にあって不思議ではないですね。

山陰に温泉が多いのもそのせいでしょうか。



もう一つの名物が「雲州人参」。

一般的には高麗人参や朝鮮人参といわれますが、約200年前と古くからこの島で栽培される高品質なものは雲州人参とよばれて海外でも評価が高いとの説明書きがありました。



新たな町おこしとして、「雲州人参の里」の建物を隣接地に建設していました。

最近の日韓関係の悪化の影響もあるのでしょうか、高麗ではなくて「雲州」(出雲の別名称)のブランドを強調することにしたようですね。



売店の壁に、なんと京都のキーヤンの壁画がドドーンと描かれていました。どんなご縁でしょうか?

「雲州人参の里:2013年10月31日グランドオープン」のホームページにも、キーヤンの製作中の写真がありました:ここ

~~

この島は、現在、堤防と橋によって、松江と境港に道路でつながっています。その堤防の北側の内海を埋め立てて農耕地を拡張する計画が、高度経済成長時代に推進されていたそうです。竹下登議員(元総理)がその旗振りをした模様ですが、最終的には相当多額な予算(508億円)を執行したにもかかわらず中止となりました。いわゆる公共工事は途中で廃止することが極めて困難です。ですが、この地域でそんな先行経験があったことが、由志園の展示室のポスターにて説明してありました。えらい。
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大台ケ原紅葉ハイキング

2013-10-21 | 国内各地の風物
10月19日(土)日帰りバスツアーで、この山を歩きに行ってきました。



この山は奈良県の南の端、三重県との県境にあり、紀伊半島の高い山で雨が多いことでも知られています。日本百名山の一つでもあります。京都からは、ともかく日帰りするには遠いので、自分の車で運転していくのはボクには無理。そこで新聞社旅行企画のバスに2日前に申し込んで参加しました。片道4時間半(休憩2回込)。



奈良県の奥地、川上村の道の駅で2回めの休憩です。この集落は大迫ダムにへばりつた場所でした。耕地は少ないようなのですが、林業も「時代」に合ってはいないのでどうやって生活しているのだろうか。



そこで見た観光勧誘ポスター。

ここから、狭い登山車道になって狭くてキツいカーブを重ねていきました。道路の両側はコンクリートと太いワイヤの土留の設備が続きます。今後も維持するのにお金がかかるでしょう。



ようやく目的地の大台ケ原駐車場に到着。すでにもうほとんど満車状態で、観光バスも20台くらい並んでいました。

残念ながら小雨交じりの天候、気温10度。



ビジターセンターの手書きの案内ポスター。

簡単な案内地図だけもらって、あとは4時間の自由行動でした。まずは、最も標高の高い「日出ヶ岳」を目指しました。



「展望デッキ」の分岐点まではゆるい登り道、そこから石段となって山頂に到着。



周囲は霧に囲まれていて展望はありません、残念。ここまでゆっくり歩いて40分でした。



晴れていれば、こんな眺望のはず・・まれに富士山も見えるらしい。



この山によく雨が降る理由を図解しています。熱い太平洋でたっぷり水蒸気を吸い上げた空気がそそり立つ紀伊半島の高い峰々にぶつかって、雨となって水分を吐き出す仕組みです。



これが三角点のケルン。標高1695m、ほとんどはバスのエンジンの力で登ってきました。笑



シロヤシオの紅葉(ゴヨウツツジ)。初夏には白くて清楚な花が咲きます、敬宮愛子内親王のお印。



ウメモドキかな?・・フウリンウメモドキらしい(ビジターセンターの写真によると)

展望デッキの三叉路を通過して、正木ヶ原を目指します。



このあたりシロヤシオの群落が木道の両側に茂っていました。初夏の花の季節に来てみたい。



「ケモノ道」



かつては鬱蒼たるトウヒの森があったのですが、1959年伊勢湾台風で多くの木が倒れその後、鹿の増加で小さな木々が食べられてしまい、現在は枯れ木と笹の状態になっています。

このあたりが、観光ポスター(3枚目写真)の場面です。



霧に煙る木。等伯の絵のようだ・・・単なる類推イメージ・org



グループのハイカーが多い。ポスターのような美ヤマジョは、いない。いたのかもしれないが、雨具で男女の区別もわからない。年配の女性が多い印象。



神武天皇像。牛石ヶ原。



この岩が牛岩、昔このあたりにいた牛鬼なる怪物を高僧がとらえてこの石の下に封じ込めたと伝えられていて、いまでも岩を叩くと大雨になるとの伝説があります。



紅葉しています。



大蛇(ぐら)という大きな岩です。断崖絶壁に掛かっていました。小雨のしずくで濡れていたので、滑りやすくこの先までは行きません。晴れていれば絶景が見えたようです。



おいしそな赤い実です。別の枝の実には鳥が食べた跡もありました。カマツカかな?

大蛇への分岐路からはシャクナゲの群落がありました。平面の地図では距離的に近いシオカラ吊橋の山路を選んだのですが、、、

谷間までの下り道が荒れていて、それまでのルートの整備状態と比べると、おやおや失敗したな、と思いました。なかなか吊橋に到着できなくて思いの外時間がかかりました。前後に沢山いたハイカーも見当たらなくなりました。



ようやく吊橋に到着。想定よりも20分くらい遅れています(集合時間に30分の余裕をみていたのでですが、その余裕が10分に。すこし焦り)



橋からは直線的な石段での登りが続きます。登り道は、整備されていて歩きやすい状態なので時間は予定どおり。ビジターセンターをすこし見学しても、集合時間の10分前にはバスに乗車できました。



このあたりの西側は「特別保護地」になっていて、金網で鹿も排除しています。その金網の内外で笹や草の高さがこんなに違っていました。

ハイキングコースのお薦めとして、大蛇からの帰路は吊橋へ向かわずに、牛石ヶ原を戻って尾鷲辻の三叉路から中道を駐車場に戻るほうが、0.5kmくらい距離は伸びるがアップダウンが少ないです。

小雨に濡れましたが楽しいハイキングでした。一周、9km、4時間弱。

多少は体重減量になったかな・・
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安来節演芸館、ゲゲゲの女房

2013-10-20 | 国内各地の風物
足立美術館の隣に安来節演芸館がありました。



ここでも、ゆるキャラの登場です。



この劇場の中で安来節の実演が行われます。

時間が合わなくて見ることはできなかったので、展示物だけを見学しました。

ここまで書いてきて、さて「安来節」の全国的な知名度は、現代、どうなんだろうと思いました。私自身は知っていますが、特に「面白い」と思ったことはないのです。田んぼのどじょうを捕まえる、そんな状況はもはや50年前に無くなっているし。貧相な野良着丸まった姿勢で、不細工な百姓のおっさんが「こっけいな」踊りを披露しても、??と感じます。

・・むしろ、職業差別のイメージが湧いてきてあまり楽しめません。時代、社会的環境の変化でしょうか。戦後の貧しい時代、高度成長の60年代、70年代は、農協や町内会の団体旅行が盛んでした。会社でも職場の融和、団結を高めるため、団体で宿泊して職場旅行が多く行われました。温泉宿の大広間で、踊りや歌(カラオケはまだ無くて、アカペラ、手拍子、民謡も)を皆の前で披露しあっていました。飲んで騒ぐことが得意で好きな人はいいですが(例えば、そんなテーマでヒットしたのが「ハナ肇とクレージーキャッツ、とりわけ植木等」)、そうではない人達には退屈で苦痛でもありました。

その向かい側の建物は、なんと、



「ゲゲゲの鬼太郎」作者、水木しげるはお隣の町境港の出身で、しかも今や境港は妖怪ロードなるキャラクター満開の町おこしで全国区になっています。一方でドラマのヒロイン「女房」はここ安来の生まれなんだそうですが、別に安来の土地を連想しませんね。それなので展示館ができていました。

 さすかにNHK朝ドラの影響力は凄い・・・でももうほとんどの人は忘れていると思いますが。
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足立美術館2

2013-10-19 | 国内各地の風物
この美術館は横山大観の絵のコレクションがすばらしいと思いました。


(引用:図録「足立美術館大観選」)

「紅葉」昭和6年(1931)、六曲一双の屏風になっています。
やはり、実物はその色使い、大きさで迫力が違いました。もっとも絢爛豪華すぎて、かれの水墨画の枯れた感覚からはやや離れてしまったと感じます。

横山大観専用の広い展示室の正面に飾ってありました。季節によって、正面の展示作品は取り替えるそうです。


 (引用:同上図版)

「雨霽る(あめはる)」昭和15年(1940)
”昭和15年に描かれた海十題、山十題のうちの一幅で、大観の水墨画の中でも五本の指に入ると言われます。
 雨後の霧雲が晴れあがってゆく山並みの流動感が見事に表現されており、その彼方には富士山が気高くそびえています。”(引用:足立美術館web)

この作品が、創立者足立全康氏がまだ駆け出しの時代に購入した画集にあって大変に気に入って、そのページを切り取って額に入れて毎日眺めていたそうです。事業が軌道に乗り、本格的に大観を収集し始めた時、北沢コレクションにこの作品があることを知り大変な努力をして入手したエピソードが美術館のポスターに説明されていました。


 (引用:同上図版)

「虎渓三笑」明治45年(1912)
ユーモラスな表情の三人の表情にうっとりしてしまいました。

”東洋画の画題。晋の慧遠(えおん)法師が,廬山の東林寺で行を積んでいて虎渓を渡るまいと誓ったが,訪ねてきた陸修静・陶淵明を送り,話に夢中になって虎渓を渡ってしまったのに気づき,三人ともに大いに笑ったというもの。”(引用:大辞林 第三版)

この美術館のもう一つの特徴は、陶芸品のコレクションです。

特に、北大路魯山人の作品が数多く収集されていて、ちょうど新館を使って特別展が開かれていました。


 (引用:足立美術館web)

魯山人は、いわゆる美食家として調理することに習熟したのみならず、その料理を飾る食器の制作にも手を広げ、多くの素晴らしい作品を残しています。料亭、美食倶楽部を開業して、大評判をとったものの、資金の使い道や経営のやり方があまりにも趣味的であったためオーナーによって廃業させられていまします。その後は、芸術家としての路に励んでいきました。

滋賀県長浜の旧家(安藤家)にも寄留していた時期もあります。

~~

 足立全康氏がこの美術館を開設したのは、昭和45年(1970)で最初の10年間はお客さんが来なくて大変苦心したと書かれています。彼は明治32年にこの場所で生まれ、生家の農業を手伝うのですが嫌気がさして14歳で商売に目覚める。軍に入隊し精勤努力とその結果が伴うことを知り、除隊後郷里と大阪で繊維問屋や不動産の事業をてがける。新幹線新大阪駅の周辺土地の開発が大当たりして成功し、その資金をもって念願の美術品収集に励むことになりました。
 そうした美術品を死蔵することなく、郷里に美術館を設立して自らの趣味活動とともに、日本画、日本庭園、陶芸品などの啓蒙と一般公開を進めていったのです。その結果、現在では、地元安来市、島根県の町おこしと雇用確保に大きく貢献しています。事業で成功した成金事業家のみなさんはこんな行動をみならってほしいと感じました。
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