若者だけでなく、老人も楽しそうだね(^o^)
♪大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立 ※百人一首: 小式部内侍 『金葉集』雑上・550
福知山から国道175号線を経て府道9号線へ入り山深い田舎を宮津方面へ走っていると、こんな鬼のモニュメントが現れました
酒呑童子で知られる、鬼の里でした。
”時は平安朝、一条天皇の頃。西暦1000年前後、京の都は栄えていましたが、それはほんの一握りの摂関貴族たちの繁栄であり、世の中は乱れに乱れ民衆は社会不安におののいていました。そんな世の中で、酒呑童子は王権に叛き、京の都から姫君たちを次々にさらっていたのです。” (引用:http://www.city.fukuchiyama.kyoto.jp/onihaku/densetu/index.html )
(引用:同上)
”姫君たちを奪い返し酒呑童子を退治するため大江山へ差し向けられたのが、源頼光(みなものとのよりみつ)を頭に藤原保昌(ふじわらのやすまさ)並びに四天王の面々、坂田公時(さかたのきんとき)、渡辺綱(わたなべのつな)、ト部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいのさだみつ)ら6名です。”
ここに「日本の鬼の交流博物館」があります。看板を見ただけで、通過してしまいましたが、博物館のウェブを読むとなかなか興味深い。いつか訪問したいと思います。
平安京の時代は、都の中央政権以外はすべて悪者。
先日の新歌舞伎でも、蝦夷の人々が反乱軍となっていて征服される物語でした。
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冒頭に、百人一首の歌を紹介しましたが、子供の頃、正月に「かるた」遊びをしました。
もう、現代の若い家庭では、そんな正月風景など無くなっているのでしょうか。
引用:NHKテレビニュース
海を渡ってイタリアやギリシャにくる難民の人たちに、海上気象を伝えるSNSを、難民の個人がアラビア語で立ち上げています。
海上で遭難している人たちに、GPS情報で位置を確認して当局に救助要請しています。
すでに何人も命が助かっています。
スマホと携帯電話無線ネットワーク、GPSが無い時代には、想像できない進歩です。
難民の受け入れは、次元の違う政治問題ですが。
京都府の北部「海の京都」の話題です。
車検整備の後のテスト走行なので田舎道や山道、細い道も走ってみました。行き当たりばったりで、色々な場所を走っていてこんな幟を見つけたので、「ちりめん」てなんだろうと思いました。
場所は、与謝野町です。後で調べで知ったのですが、与謝野晶子の夫、与謝野鉄幹の父の出身地でも有りました。
それで地図をじっくりと見て、スマホでGoogleMapアプリのカーナビで、まずはこの「丹後ちりめん歴史館」に行ってみました。
廃止されたちりめん工場の一部を再利用し機械の動態保存と展示、さらに製品や関連商品の販売をしていました。入場は無料。
入り口に近づくと「ガシャンガシャンガシャン」とかなりの騒音が聞こえてきました。
その音源はこれ:
ちりめんのジャカート織機が発生する音です。実際に伝統的な機械が稼働していました。
この機械の上部に設置されている「パンチカード]読み取り装置(機械的(光学でなはい)に読み取ってそれを織り機に伝える機構)がまさに芸術的でした。(外観が)
これだけだなく、関連するもっと古い機械や絹糸を紡ぐ機械も展示してあります。
このジャカート・・その機械を制御する(織り方をプログラムする)紙テープです。今ならば、この何億倍も小さなメモリーに安全に安く収納していくことができます。
この織機では、縦糸を操作することで、別の色ではなく同じ無色の絹糸を制御して、このような模様を紡ぎだすことができるのです。
「丹後ちりめん」とは、 ”1mあたり3,000回程度の強い撚りをかけた緯糸(よこいと)を使って織ることにより、生地の前面にシボと呼ばれる凹凸が生まれる。シボはシワを防ぎ、絹の持つ光沢を鈍く抑え、一般の絹織物には出せないしなやかな肌触りや染めつけの良さを作りだす。”(引用:Wikipedia[丹後ちりめん」)
こんな機械が並んでいたのです。今は、それでも数千の織り屋さんがこの町内にて仕事をしているとのことでした。
丹後しぼりの着物。
欧米のブランドスカーフなどの注文を受けて、この地で作っているのですが、検査で弾かれたB級品を安く販売していました。(ホントかな?)
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グンゼ博物蔵やこの歴史館で、絹、シルクの歴史に強く興味をもったのは、実は、父方の祖父(養子)が「養蚕技師」であったからです。彼は年若くして亡くなったのでボクの記憶にはありません。
戦前、関西の田舎では養蚕が盛んでした(多分関東でも)。子どもの時に父の実家の屋根裏で蚕を育成する道具類を見た記憶があります。祖父が純粋な農業者ではなく、理工系とも言える「技師」であったこと、そして当時のハイテク(絹工業)を説明する展示を見たことは、とてもボクにとってうれしいことでした。
車検後のテスト走行。京都縦貫道の途中で知らない町に降りてみたくなりました。綾部市です。
(引用:http://www.gunze.co.jp/gunzehakubutu/place/index.html)
なんと、この町は衣料製品の伝統的メーカー「グンゼ」発祥の地でした。
中心にある「あやべグンゼスクエア」に立ち寄ると、
美しく手入れされたバラ園があり、
地元の農産物や生産品を展示販売する建物がありました。
その脇に、こんな蔵があり興味を惹かれました。
この公園はグンゼの本社工場敷地の一部を市に寄付したものでした。そのため隣に元の本社の建物があり、製品や原料を貯蔵した蔵が4つ並んでいます。
そのうちの3つが博物館になっています。最初の写真はその展示物です。(内部は撮影禁止だったので前記公式ウェブから引用します)
当時、使用した繊維機械がその動作説明パネルとビデオで展示されています。当初は繊維産業の機械化が始まったイギリスから輸入した、いかにも機械という複雑な装置があってなるほどと感心しました。
その後、グンゼ独自の機械が発明されていきます。例えば、原料のまゆは一本の糸(蚕の口から吐き出された)でできているので、その外側に存在する「糸口」を機械的にどうやって見つけて、掴みか出すか。
繭(まゆ)を作る蚕(かいこ)は、人間が野生種を人工的に長年をかけて品種改良を重ねてきた歴史があり、それをポスターで説明してありました。絹の生産は紀元前3000年頃(あるいは6000年)の中国で始まったようです。
このほとんど人工的昆虫は、もはや自分で作った繭ができた後、その中から自分では脱出できなくなっています。つまり、人間の助けがなければ子孫を残せないのです。(残酷) ・・絹糸を紡ぐときには、繭のなかに蛹が入ったまま熱風にて乾燥させてしまいます。糸をとって残った死んだ蛹は肥料や加工食品として再利用されます。
こんなパンフレットが置いてありました。「NHK朝ドラに、創業者夫婦の物語を!」運動です。
グンゼの公式ウェブには、こんな創業のことが書いてあります:
” 1896年、当社は京都府何鹿郡(現在の綾部市)で地域産業である蚕糸業の振興を目的に設立され、「国に国是、郡に郡是あるべし」との考えに共鳴した創業者・波多野鶴吉が社名を「郡の正しい方針」を意味する「郡是製絲株式会社」と定めました(1967年、グンゼ株式会社に社名変更)。”
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適当に町を走っていたら「大本」の標識があったので、立ち寄ってみました。
宗教法人「大本」の本部です。
戦前の宗教弾圧事件で記憶にある大本教の発祥の地でした。
京都市から、天橋立までを直結する京都縦貫道が全線開通したので、日本海を見に行きました。
京丹後市にある久美浜は、「小天橋」という狭い水路で外海(日本海)と接する湾、天然の良港です。直径数キロメートルの「つ」の形をした湾となっていて、江戸時代には海運の要所として天領(幕府直轄地)でした。明治維新後は、丹後・丹波・但馬・播磨・美作5ヶ国を統括する「久美浜懸」がおかれたので、人口も多く大変賑わったということです。
旧市街の中心に、「豪商稲葉本家」があって公開されていました。
龍の飾り物。由来は、・・忘れました。伝説を元に作成。
和室と庭。この庭は、佐野籐右衛門(京都の桜守り)が作ったもの。
マムシグサの赤い実。
建物の一部が、食堂・喫茶室になっています。ぼたもちが名物ですが、
お昼時になったので、もう一つの名物「ばらずし」をおいしくいただきました。
港に向かうと、大きな公園があって、湾を一望できる風景が広がっていました。
右手にみえる「かぶと山」。
最近、運動不足なので、登ってみることにしました。
麓の駐車場から、この登山道を登ります。最近整備した舗装が真新しい道でした。
徐々に、急な坂道になりました。
中腹にある「人喰い岩」。
不用意にてっぺんに登ってしまって、とても怖い思いをしました。(向こう側が絶壁、手すりも鎖もついていなくて足を滑らせそうでした)
展望デッキが完備。webカメラも設置されているようです。
向こう側に見えるのが「小天橋」の海峡と砂浜、海水浴場、旅館街です。
左手が、久美浜の市街。
麓から眺めた「人喰い岩」です。良い運動になりました。(徒歩で往復40分)
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「海の京都博」キャンペーン。
新設された「京丹波PA」。京都縦貫道上下線の両方からアスセスでき、また従来の道路からも入って来ることのできる構造になっています。
「道の駅 京丹波 味夢の里」にもなっていて、地元産物の販売、イベント開催をする場所になっています。
駐車場から本線に戻る時、こんな看板を見かけました。
いわゆる「進入禁止」ですが、なぜか、道路交通法の正規の進入禁止の標識が見当たりません。
高齢者による高速道路逆走事故が増えています。正規標識の掲示が必要ですね。
最近ヒットしている映画です。
ロバート・デ・ニーロが年配の俳優として好演していました。
アン・ハサウェイが演じるのは、ファンション製品を企画、製造してインターネットで販売するベンチャー会社を起業した新進気鋭の社長。すべてがネットと電話で注文を受け、苦情に応対します。工場のおばさんたち以外の、本社社員は全員が若い人たちばかり。
社会貢献の一つとして、シニア人材を募集して「インターン試用員」を募集。それに応募したのが、70歳のデ・ニーロ。
大企業を務め上げて定年退職後ハッピーな生活を満喫するが妻を亡くす。海外旅行など殆どの遊びを熱心にこなすけれど、なにか満たされない。
ベンチャー企業創業者のとんでもない多忙な状況とストレスの大きさは、かつて従事した新興企業での業務を思い出させてくれました。
創業者が、なぜ外部から「CEO」を招聘することを希望するのか、あるいは大株主にそれを要求されるのか、、。 アップル社のスティーブ・ジョブズもCEOをペプシから招きますが、結果としてそのCOEによって自分が解雇されました。
久しぶりの大人の映画ですが、ヒットチャートの1位にいるようです。若い人にも受けるのかな・・・アン・ハサウェイが着るファッションの人気だとの分析もありますが。
必ず返信すべしとのことなので、チェックしました。
まあ、僕らの年代は健康の個人差が大きいので、必要なんでしょう。
山陰海岸には、ジオパークがあります。
「パーク」といっても、遊園地ではなくて、”ジオ(地球)に関わるさまざまな自然遺産、たとえば、地層・岩石・地形・火山・断層などを含む自然豊かな「公園」のことです” (http://www.geopark.jp/about/)
これが、兵庫県豊岡市のマスコットキャラクター「玄武岩の玄さん」です。
列車の愛称になったり、
きぐるみもあるようです。
温泉だけでは、退屈するのかこんなキャラクターが街にあふれていました。
朝日の差し込む大谿川(おおたにがわ)に沿って散歩しました。
石橋の形がユニークです。
一の湯の全景。朝湯を楽しむお客の姿もチラホラ。朝10時まで「外湯券」は有効です。
城崎文芸館に割引入場しました。
志賀直哉が有名な作品「城崎にて」を書いてから、彼もその一員であった「白樺派」の作家たちが多く滞在するようになりました。
昔の文豪は、病気治療や休養などいろいろな名目で地方に滞留しました。現代の作家たちには、そんな様子はなくなったようです。
文芸作家たちに愛された土地柄か、短歌や俳句の大会を毎年開催しています。この歌はニュージーランドの方の作品で2年連続で受賞。
この建物には、城崎温泉の発展歴史の資料も展示しています。
もともと、この温泉地は「外湯」主体の湯治場だったのですが、昭和初期にとある旅館が「内湯」のためにお湯の引き込みを強く希望したそうです。幾つかの旅館も賛同したのですが、当時の泉源では湯量が不足。暴力事件も発生。裁判沙汰になりましたが、戦争激化で裁判中断。戦後、話し合いが成立して、県の補助金で新たな泉源を掘って、内湯も許可で円満解決したそうです。泉源が豊かな熱海や伊豆などは、旅館の囲い込みで街路にはお客が出て来ないようになり、温泉街が廃れました。
城崎温泉は、外湯めぐりと、ユカタでのそぞろ歩きで成功しています。
文芸館に1時間近くいましたが、入場者はボクだけだったようです(土曜日)。もう、志賀直哉や白樺派といってもそれを知る人が少なくなったのでしょうか。(大学入試にでないから?)
「おみやげ券」を消費するため、魚屋に立ち寄りました。
甘鯛(若狭湾で取れればグジ)、のどぐろなど色々な魚が並べられていました。ですが「マナ」は列車で持ち帰るの辛いので、
干物で1000円を少し超えるだけ買いました。
昨夜の食堂で気になっていたのですが、「カニの解禁は11月上旬ではないのかな?・・とすると、隣の外国人が注文して食べていた焼きガニは、冷凍物?」。
この店の表示によると「香住カニ(紅ズワイガニ)の漁期は9月から5月まで」だそうです。つまり10月でもこのカニは新鮮なものを食べることができます。疑問解消。