北野天満宮の東側にある花街(かがい)です。
太閤秀吉の許可による京都では最も古いお茶屋さんの街。
西陣の旦那衆が元もとのお客さんであったそうです。
狭い街路が特徴です。祗園とは違い観光客もほとんど歩いていません。
日本の着物文化もかつての勢いはありません。西陣も静かです。
五つ団子の紋章とお茶屋の始まりについて
天正15年(1587年)8月10日、豊臣秀吉が北野天満宮で「北野大茶の湯」と呼ばれる茶会を催した際に、七軒茶屋を秀吉の休憩所としました。その時、名物の御手洗団子を秀吉に献上した所いたくその味が気に入り、褒美として七軒茶屋に御手洗団子を商う事の特権を与えられました。この事に由来して、上七軒では五つ団子の紋章を用いています。また、その際に山城一円の法会茶屋株を公許されたのがわが国のお茶屋の始まりと伝えられています。(上七軒公式webより)
細い白線が水平に数本引かれた土塀は、門跡寺院にだけ許されたものだそうです。門跡とは、皇族か摂家の子弟が出家して相続している寺院です。
これは西方尼寺。
お隣に、上七軒芸妓組合事務所がありました。
太閤秀吉の許可による京都では最も古いお茶屋さんの街。
西陣の旦那衆が元もとのお客さんであったそうです。
狭い街路が特徴です。祗園とは違い観光客もほとんど歩いていません。
日本の着物文化もかつての勢いはありません。西陣も静かです。
五つ団子の紋章とお茶屋の始まりについて
天正15年(1587年)8月10日、豊臣秀吉が北野天満宮で「北野大茶の湯」と呼ばれる茶会を催した際に、七軒茶屋を秀吉の休憩所としました。その時、名物の御手洗団子を秀吉に献上した所いたくその味が気に入り、褒美として七軒茶屋に御手洗団子を商う事の特権を与えられました。この事に由来して、上七軒では五つ団子の紋章を用いています。また、その際に山城一円の法会茶屋株を公許されたのがわが国のお茶屋の始まりと伝えられています。(上七軒公式webより)
細い白線が水平に数本引かれた土塀は、門跡寺院にだけ許されたものだそうです。門跡とは、皇族か摂家の子弟が出家して相続している寺院です。
これは西方尼寺。
お隣に、上七軒芸妓組合事務所がありました。