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もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

日本帝国海軍潜水艦の慰霊碑建立に思う

2018年12月28日 | 軍事
 昨年の5月にオーストラリア北部ダーウィン近郊に、帝国海軍「伊124潜水艦」の慰霊碑がオーストラリア人の手により建立されていたことが報じられた。
 同艦は、米豪遮断を企図したダーウィン港封鎖作戦(1942年1月)に参加し米豪海軍の爆雷攻撃を受けて沈没したものであるが、ダーウィン攻撃の事実と潜水艦の武勇を顕彰するために建立されたと報じられている。米豪遮断作戦については、先に陸軍のポートモレスビー攻略作戦に触れたが、本日は海軍特殊潜航艇によるシドニー港攻撃と特殊潜航艇の乗員に対する豪海軍の葬送に関してである。1942(昭和17)年4月、米豪遮断のためのシドニー港攻撃は、4隻の潜水艦に搭載された特殊潜航艇(甲標的、後の蛟竜)によって敢行された。特殊潜航艇の行動と戦果等は割愛するとして、2隻は自爆(伊22搭載艇:松尾敬宇大尉、都竹正雄2等兵曹、伊27搭載艇:中馬兼四大尉、大森猛1等兵曹)し、1隻(伊24搭載艇:八巻悌次中尉、松本静1等兵曹)は爆雷攻撃を受けて沈没(1900年代に発見)、1隻(伊28搭載艇:伴勝久中尉、芦辺守1等兵曹)は行方不明となった。甲標的は生還を期待しない特攻兵器(大戦末期の海龍や回天)と同様に見られているが、あくまで生還を前提とした小型潜水艇であり、シドニー攻撃に潜航艇を発艦させた母艦は同年6月まで帰投・収容に備えて海域に留まっている。自爆した2隻の特殊潜航艇は1942年6月4日、5日に引き上げられ、9日にイギリス海軍から派遣されていたシドニー要港司令官グールド海軍少将は乗員4名(松尾大尉・中馬大尉・大森一曹・都竹二曹)の海軍葬を行った。戦時中に敵国である日本の軍人に海軍葬を行うことには、オーストラリア国民の一部から強い批判があったが、小型の特殊潜航艇で港内深くまで潜入し、敵に発見されるや投降することなく自沈した松尾大尉らの勇敢さに対し、グールド少将は海軍葬で礼を尽くしたものである。彼は云う「このような鋼鉄の棺桶で出撃するためには、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人たちは最高の愛国者であった。我々のうちの幾人が、これらの人たちが払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか」と。軍葬は通常、勲功や遺功のあった自国の海軍将兵に対して弔銃の礼を以て行われるもので、軍人としては国葬を賜った東郷元帥や山本元帥に次ぐ栄誉であることを思えば、敵将兵に海軍葬を贈ったオーストラリア海軍に改めて敬意を表するものである。
 中世の騎士道にも似た海軍葬が、以後の両国の親善に大きく寄与していることは間違いないところと思う。IWC脱退等で多少の波風はああるものの、TPPの取組や中国封じ込め等では、概ね良好な関係で推移している。泥沼と表現される戦争の中でも、一輪の蓮の花が咲き・以後も馥郁たる香りを漂わせるとともに、泥沼が清澄する要因ともなるのかと思う。それにしても、葬儀を執り行った要港司令官の言葉は、75年後の日本人にも向けられたものではないだろうかと考えるものである。今、日本人の何人が、シドニー攻撃の事実と海軍葬の顛末を知っているのだろうか。