遅ればせながら「平和バカの壁(ケント・ギルバート、ロバート・エルドリッチ共著)」を読んだ。
親日家ではあるが米国流価値観を持つ著者の日本の現状に対する認識と分析は首肯すべきものと感じた。特に、「戦争を道徳律の範疇で論じるべきでない」という主張は、日本の護憲(憲法9条の堅持)論者に対して抱いていた違和感の本質を解き明かしてくれるキーワードと感じた。徳川家斉の治世下にあって伊能忠敬が日本地図を完成させた頃(1820年頃)に書かれたクラウゼヴィッツの戦争論では「戦争とは政治的行為の連続体であり、相手に我が意志を強要するために行う力の行使である」と規定したが、今もってこの定義を凌駕する解釈は無いとされている。第一次世界大戦を教訓としてパリ不戦条約、ハーグ陸戦条約、ジュネーブ条約が多国間で発効したが、国益の衝突から大東亜戦争を含む第二次世界大戦を防止することはできず、非人道兵器の使用禁止と戦時捕虜の待遇を規定したハーグ陸戦条約とジュネーブ条約のみが現在に引き継がれている。この例が示すように、戦争が国益と国民のアイデンティティを守るための究極の外交手段である現実が存在する限り戦争自体を条約や法(1国の憲法を含む)で抑止することは夢物語であり、戦争のやり方だけが条約と法の圏内にあるとするのが国際的な慣例であるが、シリアにおける毒ガスの使用等を見る限りにおいては非人道兵器の使用すらも条約・法で防ぎ得ないのが現実である。また「バカの壁」では、護憲派が唱える平和主義の実体は不戦主義であり、不戦主義は無責任な楽天主義とも分析している。『戦争で相手を殺すことよりも、殺される方を選ぶ』『尖閣諸島が中国に占領された場合も住民は抵抗せずに我慢すべき』『戦時には国外に亡命する』等々の発言が平和主義者を自認する人々が発言したことがあるが、いずれも戦争が道徳律に反する行為であるという独善的価値観を他人に強要するとともに他人を慮ることのない自己中心的道徳律に立っていると思う。戦争は国家(運目共同体)の外交手段であり、全ての外交手段が尽きた時の伝家の宝刀である限り、その宝刀を捨て去って多くの国民を路頭の縁に立たせることが憲法の存在意義なのだろうか。あらゆる騒乱を否定するクエーカー教徒でも、アメリカでは直接の戦闘行動には従事させられることは無いものの、内地の兵站部門等で参戦する義務を課せられている。それは国家を守るのは国民の義務とのコンセンサスが受け入れられているためであり、そこでは独りよがりの不戦主議など一笑に付されるだろう。
著書によって徴兵制が無くなったアメリカでは現在も徴兵登録することが義務付けられており、徴兵登録をしない者は公的年金の対象とされない、公務員になれない、奨学金を受けられない等の不利益の中で生活しなければならないことを知った。日本も、運命共同体(国家)に対する共同体構成員(国民)の義務をもっと厳格にすべきではないだろうか。そうすれば、立民や共産のような売国的勢力が伸張することもなく、住み易い国になると思うのだが。第一段階として、教育改革から始めよう。