花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

偽者 女医応募事件にあんぐり

2010-05-17 08:09:58 | Weblog

        東北の「岩手医科大学」という立派な「伝統医科大学」の
                  
        お膝元で

        とある病院に「偽者の女医」が応募して、
        採用の為の面接を潜り抜け、
        赴任直前に
        御用となった事件が新聞に出ていました。

      関係者は
      医学部を卒業したら、
      地方勤務を義務とする期間を
      設けると怒りをもじにしていました。

      医師の家庭に育った私は
      「卒業したほやほやの、
       『これから人体を触ってよい』という許可の書類が
      「医師免許」のように思えました。」

      若き感性豊かなこの時期から、
      人生40歳まで、
      どの師匠の率いる医局で、または病院で、
      プロ軍団の中で、
      滅茶苦茶にもまれて、
      滅茶苦茶に上司のサポートと叱責を受けて
      プロの一人の医師が育って行くか!
      楽しみな緊張が家庭のサポーターにも派生します。

      偽者女医事件の関係者さんは
      多分TVドラマとか、
      映画の世界の「人徳劇のDr、演じる主役の理想像」を思い浮かべ、
      現実に役に立つ一人の医師が育つプロセスを体験するチャンスに
      恵まれなかったのかもしれないのではと推測しています。
      外れていたら失礼お許しいただくとしまして、
      小さな体験談を聞いてください。

      医師確保には、怒りも、あせりも、禁物だと
      納得されると推測しています。

      一人の医師が卒業し、
      僻地でいろいろな患者さんに対応できるまでの
      道のりは、大変だと思います。

      戦前、父は自社ビルの、院長でした、
      空爆ですべてを失い
      今は世界遺産となっている、
      七か村無医村のど真ん中の無医村医師
      となって、赴任したのは、
      昭和20年ごろでした。

      大陸で、軍医を務め、
      最後は包帯も無くなった野戦病院で敵味方無く全科診療と処置したと
      苦しかった薬の無くなった野戦病院の当時を話してくれました。
      呆然としているとき、傷病兵の中に立ってたキリストを見た!と!

      塹壕の中で、折り重なった死体のおかげで命が助かり、
      帰還できたというすさまじい体験の持ち主でした。

      敗戦直前
      自分の子供3人、
      私の兄弟たちは大陸で死んでいます。

      鉄の根性の父も、
      毎日毎日、途切れることの無い全科にわたる
      「地域の病人」の役に立ちながらも、
      目のあたりに目撃しながら幼い私は
      「地域医療の大変さ」を感じた。

      その後、、、成長した子供の教育の為
      ふるさとの東京に帰り、、、まもなく
      54歳で、過労死した安らかな眠っている顔が忘れられない。

      「父は永久休日のご褒美」をいただいて、
      若き美し姿で眠り続ける外科医一人。

      この、、、一人の医師を忘れることはありません。
      

      郊外の田舎に住む私の元から
     「医師となって息子が旅に出ました。」

      できるだけ「腕のよい医師」になってくれるならと願っています。

      自分たちの元に帰ってくることなど
      損得勘定はありません。

      誰と出会い、誰によって一人前になってゆくのか、、、
      見守りと
      祈りがあるのみです。

      医師を世に出す為のサポートは
      力を惜しんではできませんでした。
      同時に、
      生涯の受験生を抱えているように、
      行動範囲は広くても、飛び回るのは患者さんの所。
      医療以外の時間はほとんどありませんので、

      家族が、雑用をサポートすることになります。

      学会は彼らの月給のかなりのパーセントを投じても必要な
     「命」の命運を手に握ってしまっている職業です。

      「治って当たり前、」
      治らないと訴訟というとんでもないシステムの中で

      医師を続ける為の勉強家族は50歳まで貧乏です。

      それでも、、、なぜ???
      月給の高い地方の病院にいかないのか?

      何千万という報酬になぜ見向きもしないのか?

      巷の人が
     「医師はお金が好きと誤解しています。」

      「日進月歩に進歩して行く医学はPCの世界のように、EBMです。」

     ペンティアム1,2,3,4、ヴァリュウースター、バイオ、、
     95~98~2000~XP~セブン~

     PCは買い換えれば即にソフトは使えます。

     インテル入ってればOKです。
     core15,7,,,AMD、、と頭脳も買い換えればすむことです。

     医師免許取ったばかりで地方に赴任すると、
     学会にアクセスするのが
     時間的に無理なことが多くなります。

     勉強になる指導体制が人材不足です。
     かれらの報酬は「金銭」より「よい指導体制」です。

     卒後いきなり地域医療に従事することは
     外野ですが医療人の端くれの私が推察するには、、、

        (^^!

     言ってしまえば、「ウインドウ95」のまま
     対応できないソフトがいっぱいという状況になると思いました。

    だから、、、私は、、、自分が大きな腫瘍を手術したときも
    若き医師の息子には帰ってくるなといいました。

    彼は多くの先輩医師の指導の元
    「ウインドウ2000」ぐらいに
    変身する最中だったからです。

    勉強し続けて、35歳!
    結婚も眼中に無くやっと「ウインドウ7」の息子!
    これから博士に向かう残業の日々を思うと

    離婚になる結婚は当分しないという。


    だから、、、
    地方に医師を集めるのには
    たとえて言うなら
    「PCのサポートシステム」に置き換えて、研修サポートを
    医療界一丸となって
    光ファイバーのように高速でつなげるシステムを
    造れば、、、と、
    外野席の「チアばあちゃん」の私は思うのです。


    今、デルの中身を替えて、使っているPCが、
    結構使われています。
    サポートがよくて、無料が多い。

    医師は70歳になっても、
    学会に百万単位で出費してゆく人が多いのですが
    税金は、
    開業して、他の職種の方の雇用の出費がないと
    控除は結びつきません。

    外国に論文を提出しても
    一ページに費用の必要な実験や解析や統計が要ります。

    論文となって、
    認められるまでには、
    大学もう一つ出るような努力が当たり前。

    生涯の受験生を抱えた
    勤務医の女房と、
    外科医の無医村の激務と、

    本職の開業より、
    看護婦さんの雇用問題の大変さと、
     医師の確保が無理で
    勤務医に転職した、
    経営に向かなかった指導医の兄の人生を考えるとき、

    金額だけで多い少ないと、
    論じられない舞台裏を見ながらの私には、

    デパートの、
    マネキンだけが並んでいる中心街の一等地で、
    マネキンは
    一番月給を取っている人形かもしれないと思ったりしました。

    外科で救急で深夜にもマイカーで病院に駆けつける医師たちは、

    「先生方は高額月給だから、、、」という視点から、
    夕刻には帰れる職種の社員と駐車料金は一緒なのは、
    一般の職種から見ると何の違和感もありませんが、
    夜中にタクシーではなくて、
    マイカーで駆けつけなければならない医師。

    ガソリン代も運転手代も自前であるのが当然と
    気づいてくれる人もほとんど無い。
    開業のように控除も無い。
    ぜいたく品のマイカーと同列に扱われる夜の足。

    学術にかかる一切が控除が無いのと

    重なる視点が感じられるのですが、
    世の中には
    谷間にもっとも美しい百合が咲くのも「感動!」です。

    TVでは医師の奥さんは
    「セレブ」とばかりに、
    例外に近い女医や、
    セレブな稀有な奥さんを高級車で買い物をする素敵を放映しています。

    確かに、、、中には、
    親も婦人も大金持ちが、
    たまたま名誉の医師ということもあります。

    一例報告が
    世論として判断の基準になっていったことも多いと思います。

    地域に医師を招くのなら、
    あせらず、政治で義務化せず、
    学問的無料サポートのシステムと、
    学会に参加できるシステムが
   「 医師という職業を続けてもらうための必須アミノ酸」ではなかろうか?

    「医師の指定席」は
    仲間から評価される医師になることのように思えます。

    14年目の愛車は私のもの、
    2台維持してゆけるのはさすがですが
    22年目のセダンが主人の愛車。
    新車のときの買値は220万と180万。

    動くのですもの大切に買い物に使っています。

    主人は、仕事以外に無駄な動きがありません。
    遊びの無いクラッチのようで、

    女房はヒマラヤ登山隊の
    シェルパのような
    雑荷物を運ぶロバのようでした。、、、振り返れば。。。(--!

    若き日に医大合格して
    一度は医師になろうと思った時期があった私は、

    「主人が医師を続ける為の雑務に時間を注ぎながら
     他人の夢が自分の夢とどうかして行ったのです。
     おめでたい、、、主体の無い、、、馬鹿ですが
     主人の医療以外の雑務が先に先にと見えて
     自発的に処理しながら、、、聖域の医療は手伝えないが
     勝手に役立っていたと思って今日まできました。

      ほかにやりようがあったと思うのですが
     忙しくって、目先のことに追いまくられたと、、、思うのです。」

    父が54歳で死ななかったら、、、、
    もし生きていたら、、、
    女医になって、
    父の働いていた無医村で、父が長生きすることを考えながら
    医療を手伝えることそのものが生きがいになっていたと思えるのです。

    村の人と一緒に生きて、自分の役割を転職と思える
    素朴な幸せがあったかもしれません。

    地域医療に生きがいを感じていたかもしれない、、、と。
    ふと思いながらも、

    私は医師でない普通の一般人の感性の薬剤師だから
    自分の夢を現実無視で語れるのでしょう。

    他人のサポーターや、
    シェルパがいないと続けられない医療界に
    人間関係の難しさや
    雇用の難しい今日の医師の置かれた立場を
    考えていると、

    損得や優秀とかそうでないとか
    勝気な勝ち負けの世界とか
    はたまた、艶比べの映画の世界のような
    女の世界の曼荼羅が、、、女医を取り巻くかもしれませんね。

    女医になっていたら、医療だけを見つめたいから
    きっと独身で時間がすっ飛んでいたと思えます。

    子育て、、、、孫に囲まれている今日は無かったと思います。

        他人として、冷たい目で客観的に言ってしまえば

    自分のため仕事の為、チームの為に
    家庭や子供を振り返る暇も無く
    医師としての毎日にだけ!!!過ごした日々。

    「私だって支えたのよ!」と、
    うっかり口にしたら、
    きっと、、、返ってくるだろう、、、

   「君に何をしてもらったて?・・医療は医師以外は入れない聖域だよ。」

    「神は体が無いから、
    僕たち医師の肉体を医療の手として使ってくれているんだよ。」
     神がどこに居るかはともかくとして、
     その手に選んでいただける永遠の切磋琢磨が日々だよ,、、と。

    「命」相手の仕事なんだよ!

    君も、、「間接的に、命に仕えているのさ、、」

    無意識の大切な何かに使えているのさ。

    僕の為には、「医療の縁の下のそのさらに下で、」
    ロバのように荷物を運び、振り返ってくれない背中を見ながら
    子供を生む機械のように、EBM優先の日々、

    「自分の義務しか見る暇の無い僕自身のような医師」の元には
     居られないさ。
    きっと、、、見えない何かに仕えたのだろう、、、。
    
    彼は、、、私の母が死んだときも、、、
    手術室に居た。葬儀には来ていなかった。

    子供を実家で生み、
    泣き声で夜勤の朝帰りの医師を起こさないように
    3ヶ月過ぎて、小さなアパートに帰ってきたときも、、、
    その日、、、彼は病院に泊まっていた。

    医師の家で育ち、、
    外科医の父の激務を見て育っていなかったら、、、
    主人は冷たい人と勘違いしたかもしれない。

    もしも家族をも振り返っていたら、、どうなったのか?

    中江藤樹の母が帰ってきた勉強中の息子の前で
    あと少しで出来上がる布を切ってしまうという、、、
    母から教えられた話を思う。

    医師になっても
   「医者をすることができない薮になる」という
    30代後半までの
    医学を吸い取る「スポンジのような時代」の
   「医療に燃えてる医師」を

    命令や、義務や政治で動かすのは、
    やがて時代についてゆけない医師をつくる可能性があると思います。

    そうなれば、、、俺、俺、俺の役立たずの恐竜を
    食べさせてゆかねばならなくなるのは、、、国家です。

    当時は超僻地は
    5000万くれるという地域に耳も向かず、
    食指も動かさず

    奨学金を受けながら、
    家も振り返らず
    何ヶ月も帰らず、国内留学で師匠を追いかけ、
    研究して博士となりました。

   、手取り30万そこそこの大学で
    あっちこっち飛ばされながら、、、
    時には単身赴任で
    年単位の出張を命じられ
    アルバイトにも出ないで、
    チームの仕事を任された充実感で
    医療の腕を磨いた徹夜の日々。

    30個もの学会で、生活費を入れられない十数年を、
    

    支えてゆくのが勤務医の家内となった私の役割でした。
    おかげさまで、常勤で勤めにも出ましたので
    予期しなかった、老後の孫と遊ぶ
    ささやかですが「年金」がうれしいです。

    父が、、、死ぬ間際、、、
    女医にならなくても
    当時は4年で卒業できた
   「薬剤師」「高校教師」「中学教師」など
    運転免許と一緒に取れるものはすべて取らしてくれました。

    大学時代に父は亡くなりましたが、、、
    それらの免許は
    「家庭教師」「アルバイト」でゲットしました。

    卒業旅行の4万円が足りなくて、、、
    旅行に参加しなかったことが
    悔やまれます。

    医師の家庭でも、医師となる男兄弟には全力の母ですが、
    やがて出てゆく女の子には手が回らないのが
    サポーターの実態でした。

    父の医療施設を継いだ内科医の兄も、

    営業と学問を両立させるのは大変でした。

    父の友人が支えてくれなかったら
    開業しながらの
   「内視鏡の指導医」は取れなかったと思いました。

    医師は医者の国家免許を取ってからが出発です。

    家族、家内はじめ、
    多くの理解ある無償のサポートが無ければ

    メンタルな見えない部分の多い
    学問の必要が生涯続く受験生のような専門分野への集中で
    体力限界のハードなスケジュールで
    指導される時代が続きます。

    サポートを得られない医師の朋輩は父の時代、、、開業して行きました。

    だから、、、門外漢の判断で、
    無理やり権力で医師を動かすことは
    ショパンの得意なピアニストに
    バック音楽を弾けと命じるような気がしてなりません。

    双葉のうちに摘み取る結果にもなりかねないのが感じられます。

    「普通に医療が50歳ごろまで出来る医師」を世に出してゆくのは、
    サポートのシステムをつくることでは無いでしょうか?

    主人が一人前の医師となるまでの道のりは
    思っていたより、、、ずーと遠いゴールでした。

    お金が入り始めたのは、、、50歳直前でした。

    その後は学資時代に突入し、
    もう一度人生をやりなさいといわれても
    通過できるかどうか、、、運しだいです。

    晩年はよく稼ぎ、、、、よく使う、、、内需拡大。

   やっと、、、今年の3月、、、70歳で

   ローン完済の笑顔です。
    
   よく学び!!!
   よく働き!!!
   よく日進月歩の医学に励みました。
   人生は9回裏からという、、、手に汗握る試合でした。

   ネット裏から「拍手」を送ります。

    
   身近に医師と同居生活をしてきた「老妻」と呼ばれる観客席の実感でした。