赤穂浪士 討ち入りの日ですよね、、、14日は。
まだ見続けています。15日の午前1時45分、、、
阿部さんの意志の強さの「この道しかない!」、、、、、
人生は産道を出る戦いで、、、初泣きし、
70歳になって、涙は出ませんが、
日本という、、、切磋琢磨して、勉強して、
日本という小さい領土の資源のない国を
世界から来てもらえる「おもてなし」の心が
長い、、長い、、歴史の光の中で
侘びと寂びの間接の光が、近代の文化を借景に
日本の国全体が、天然の劇場になり、花鳥風月、季節は巡り
回り舞台は終わりのない心の旅をいざないますね。
この国が、かって本土決戦の焼け野原だったなんて、
信じられません。
でも、、、復興した町は、北から南まで
背広姿の会社のように
似てますね。
世界遺産になる前の
南紀の山の中で疎開し
戦争の傷跡が癒えてゆく経過を
子供ながらに、見ながら育ちました。
朝露の光は真珠が昇華したごとく
透明の心を吸い込み
昼顔の大きな花と、乾ぴょう干してる陰と陽
倍賞千恵子さんの「下町の太陽」が
戦場で生き残った人たちの、
一度壊れて、、、再生した命の輝きが眩しいほどに美しく
ロマネコンテの香りに酔いしれ
ドイツ製のピアノで、ムーンライトを奏で
戦場で3人の死んだ子供の灰も、持ち帰れず、
木端微塵になった心を抱いて、
父は、母の心の故郷に疎開をした。
南紀の川は、どんなに孤独な心を抱えて帰ってきても
輝き、瀬を登る綾が煌めき、
カワセミが空の光を心に投げ込んで線を描く。
夫として、父の優しさは、
母の故郷で、村医師として、
あたり七か村。無医村の唯一の医師として、
朝から深夜まで、戦争の傷を抱えた人たちと
ともに居ることでした。
晩年、故郷の東京に帰ってきて、、、三度目の開業
慈恵会医科大学卒業の父にとって
子供の大学進学の為、
南紀を去るのは、、、耐えがたいものがあったに違いない。
お父さんにはね
戦場でも、
兵隊さんが皆、親切だったんだよ。
敗戦の直前、
塹壕が、あちこちに掘られ
「軍医殿は、早く塹壕の奥に入ってください!」
そう叫んで、、、皆は戦いに出て行ったんだよ。
塹壕には、死んだ人が降ってきて、
最後にその上から、バリバリバリ、、、て、撃ってきたんだよ。
お父さんはね、折り重なった、、、戦死した英霊に守られて
日本に、最後の舟で帰還できたんだよ。
お母さんは、お前を抱き、防空壕に入りながら
故郷の南紀にたどりついたんだ。
泣いた赤ん坊は、日本の仲間から、口をふさがれたんだよ。
お父さんは、心が貧乏になるという、
戦争の極限を見てしまった。
もう、、、とっくに、お父さんは、、、一度死んだのかもしれない。
たぶん、、、故郷の大自然が、お母さんの心を
呼び戻してくれたんだと、、思うよ。
戦争は、二度としてはいけない。
戦場の日々のことを思うと、
バタバタ三輪トラックで、迎えに来た患者さんの家族に連れられて、
山奥の、そのまた奥に往診に行って、
の人の健康診断に一日かかっても、
平和なもんだよ。
一度死んだお父さんが、
再び、生きてたんだと!思えるとき、
自然の大きさに気が付くよね。
父は、村中から、慕われ、尊敬され、愛されていたのだと、、、思った。
東京に帰ってからは、
戦争が終わっても、我が家の戦争が始まっていた。
多くを語らずとも、14年後に、54歳で
父は、過労死をした。
戦場、、、疎開先の激務、、、東京での開業、、、
健康保険の保険制度の始まり、、、
戦前は、医師は国に医療を提供するオーナーであったが、
戦後は、算術のできない昔風の父のような医師は
医療制度、従業員、年々バージョンのアップする医療機器の購入など、
国の先導する医療制度は、患者さんの主張はともかくとして
見えないメンタルな部分や、無料奉仕の舞台裏の、
部外者には見抜きようのないリスクがあっても、
数字は、時間のない医師の代行できることは、金を惜しまず
時間確保の為に、他人に任せざるを得ない。
これが、、、、
国から見ても、必要に迫られた健康維持のための雇用
とは、判断できず、税金に跳ね返り、
とうとう、、、去りゆく開業医が出始めていた。
働いても働いても、従業員、事務屋、公認会計士、税理士、、、税務署と
手におえない、賢くて訓練された、人々との収入の折半に
生き残りの子供4人の大学進学に挟まれて、とうとう、、、負けてしまった。
牧畜犬が、羊を、主(国)の言うままに
狭い毛刈りゾーン、、、ジンギスカンゾーンに追い込まれて、
女性や、年寄りのセーターになるがごとく、
自分の時間は、、、丸裸同様であった。
戦争は、父を54歳で急逝させる健康へと
人を追い込む。
大学時代、ラグビー部でタックルしていた父は、、、
私が19歳の時に、死んでしまった。
多くの、戦場での、皆も、父と同様、
泣き笑いの戦いの人生を歩いたと思います。
医師から時間を奪われてしまえば
お金で、他人に頼むしかありません。
こうして、一見華やかに見える医師の家庭の交流は
贅沢に勘違いされてしまったのでした。
信頼も、信用もされ、尊敬もされた父ですが、
早く死んでしまっては、
せっかく「名医の腕があっても、、、」
これから、、、もっと人々の心の支えにならねばならなかったのに、
お父さん、、、あなたは54歳で逝くなんて!
自分が、、、もったいないと、おもわなかったのでしょうか?
戦争は、、、絶対に起こらない日本にしてください。
戦争で失うのは、心と健康ですから。