花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

札幌雪祭り、、、始まりましたね!

2016-02-06 16:02:46 | Weblog

雪が足りないのでは、、、と心配した事も、
杞憂に終わり
たっぷりと、
本物の冬将軍が
真っ白い夢を乗せて、
大通り公園にお目見えした。

全身打撲の雪かきも、
雪祭りを迎えるたびに
自分の腕力の小ささを思い知り

ダイナミックな集団の力を
喝采の拍手で迎えてきた。

40年以上前のことである

路傍に石ならぬ、、、
雪の造形の素朴な陳列が
いつしか、
多くの人々の
冬のマイナーな、雪かきから

雪と遊び、

アグレッシブに
雪を作品として楽しみ

大通りの冬のイベントまで発展させてきた。




札幌に来た当初の雪祭りは
私たち、
住民のささやかな思い思いの
おらが、、、ステージであった。

へんてこではあるが、
腹から笑える素人の世界の
陳列物が、
不揃いのリンゴよりも
赤く、香ばしく雪に咲いた花だった。

笑った、、、
腹がよじれた、、、!

冬の鍋焼きよりも
心をホットにしてくれていた。

いつしか、一代イベントとして、
津軽海峡を超えて、観光客が来る真冬

金髪外人や、太陽の国の外人が
雪に奇声を発していた。
祭りは、おらたちは、、、
ため息で、、、
絶賛する見物人になった。

札幌は板垣市長の時代であった。

オリンピックに
外人の案内のボランティアを募ったとき、

なんとなく、気軽な気持ちで
案内のボランティアを引き受けました。

五輪のマークの入った、
金属製の、大きめのバッチを下さり、
仲間たちと、外人さんの為にも
自分たちの、若さの発散にも、

単語を並べて、盛り上がったひと時でした。

国際色が出始めた大通りの風景でした。

それから、雪祭りは、
本格的に、大きなイベントとして、

遠くから眺めさせていただき
巨大なスケールの建造物には

自衛隊の皆さんの努力なしでは
ありえない、
「日本の祭り」の一つとして
札幌の市民権が、
海を越えて
輝くようになりました。

私も、、、生活や育児や子供の進学で
モミクチャの40歳~50歳が
職場復帰や、雑事で、飛んでしまいました。

年をとったせいもありますし
気がついたら、
孫が中学生になっておりました。

あちこちの神経が痛むこともあり
雪祭りは、自宅で

テレビや、DVDでの鑑賞になりました。

しかし、、、今年は杖を突いてでも
観たいのがあるのです。

新幹線の画像と
雪像のコラボレーションで

技術とアートが
円卓にならんで作成したという。

自衛隊の機動力
技術者のPCの技術
デザインの光のアート
そして、、、かの有名な音楽が
若き心を「わしづかみ」する。

札幌市も道も
力が入っていると、
ラジオもTVも紹介しています。

時代の黒船を感じるゾーンです。

70歳を過ぎた私には
気持ちばかり若くて
自分のコントロールが大変です。

雪祭りで、今回ほど

観たいと思うものが、、、かってあったろうか!!!

いつも、なんとなく大通りに行ってから
気持ちが盛り上がり
笑顔がこぼれて、
孫と「滑り台」にへばりついていたこともあった。

来てよかったね!、、、のパターンでした。

でも、、、今年は、見たいのですよね。

40年も待ち続けた

「新幹線」のイヴェントが



来し方の、人生の
離れ離れになった兄弟家族が
もしかしたら、
80歳を目前に、、、

北海道まで、、、やってこれるかもしれない!

あんなに、、、
新幹線を待ち続けていた母は、、

今は居ない、、、

空で見ている雪祭り、、、。

毎年、、電話がかかって来ていた。

一度でいいから、、、
雪祭りを観たいのよね、、、と。

寒いだろうね?
でも、美しいだろうね?
宝石の世界だろうね、、、

結婚する前は

一緒に
「ピラミッドに行きたい」
と言っていた。
なんで?「ピラミッド」に行きたいの?

『ピラミッドのてっぺんまで登ると、
其処には、
「一本の百合の花が咲いていて」、
微笑みかけてくれる気がするのよ、、、、』

私は理科女の薬剤師、
日大の理工学部を卒業している。
理屈で、物事を、具体化して観る傾向が強い。

母の言葉は難解である。

夢見る瞳で
「ピラミッドのてっぺんの百合の花」

雪祭りの白い光は
七色の夢の光が集積して
母の心の中では

「雪がダイヤの光を放ち、透明の雪を見るという?、、」

毎年、、、
2月には、電話がかかってきましたが、
私は、人生の山坂谷間を行脚中でした。
気が付くと、、
激動の若き時代が、
光陰となって過ぎていた。

60歳を過ぎてからの母を、、、私は知らない。

81歳の3日前まで

「よつ葉会」と言う。
音楽の会を主催していた。

結婚前は、私もお弟子さんたちの
演奏後の花束を用意したり、
お弟子さんの中から
音楽大学に進学した方もいる。

母の母校の卒業した音楽大学の後輩さんが

「協賛出演」してくれる舞台裏を
お手伝いしたり、

幼いお弟子の
「お馬の親子の連弾」を担当したり

地区の公会堂で、
皆の夢のお手伝いをしたものだった。

私が嫁いでも
北の果ての留萌に住んでも

若き娘たちが、
母を取り巻き、

親思いの弟も兄も近くに住んでいたから、

皆が、母のそばに居てくれたから
居てくれていたから

寂しさの、、、欠片も、、、無いはずと
思っていた。

私の方が、仕事の合間に
ふと、家族と離れ離れの人生を
寂しく思い
やるせない時がしばしばあった。

それが、、、
2月になると、
雪祭りに
「一度でいいから、一緒に会場を歩きたい」と、、、
電話のベルが鳴った。

迎えに行ってあげられるものなら
どんなに幸せだっただろうか?

私も、あのころの母の年になった。

どんなに、母が
大勢の人に取り巻かれていても
母と二人で、
雪祭りを楽しむべきだったと、、、

ふと、思うのです。

新幹線が、もう少し
速く本州と北海道を結んでいたら


宇宙からの雪の一片の詩の断片が

「無音の音楽だったかもしれない夢のの集積」
「雪の夢」は、母のオリジナルな曲になって
家族の愛唱歌になっていたかもしれません

冬の銀河になって、
空にばらまかれたかもしれない
星の瞬きの数だけ
母の呼びかけと思えるのです。

「母さん、、、ごめんね、、、」

地軸の上で輝き続ける
「小熊座」の尾っぽの星は
少年のように母に接した、、私かもしれない。

迎えに行かなかった娘は
母に矢を放とうとした少年のように
母の存在に気が付かなかったのかもしれない。

母は、どんなに多くの娘たちに取り巻かれていても
それは母熊の美しい毛並みに過ぎなかったのかもしれない。

心から、娘の私を
懐かしんでいてくれたのだった。

気が付いたときには、、、親は天空の上。

2月にやっと現れる大熊座の
「夢をすくう柄杓を見つめて」

多くの夢をあげたかった。
あの、、柄杓から、雪祭りの夢がこぼれるまで
母の心を満たしてあげたかった。


永遠に距離がある空の上で、

新幹線が走ることを、、、
喜んでくれていると、、
信じたいのです。

あなたの分身である孫子が
いつか、きっと、

新幹線に乗って
雪祭りに来ると信じていますよ。

銀河から、
しっかり見ていてくださいね。

お母さん、