結婚以来、夫は夏休みをとらない。
土日は、どこにも行かないで
夏バテしないように、自宅のTVで
体を休めている。
朝は6時30分に起きて、
バス、地下鉄、JRと乗り継いで
1時か少々の通勤が、
適度な運動になり、
勤務が続けられている。
職場のお仲間は家族以上の大切な存在であるようです。
病院の方が落ち着くと言います。
決して、愚痴で申すのではありませんが
仕事以外に趣味はありません。
若いころ、4か月も入院する大病をしました。
病院の天井を観ながら
働けない4か月の毎日が、苦痛だったのでしょうね。
今の大学と違って、研修医制度がなく、
無給医の時代でした。
医局の制度は封建社会とあまり変わらない
山崎豊子の巨塔さながらのイメージでした。
あちこち移動命令のままに
冬の留萌、夏の余市、炭鉱の栄えた夕張、
漁業の釧路、
AP,2間と物置のような3畳を
札幌の拠点として
車のトランクに
鍋釜、トースター、寝袋、幼い息子の玩具
化粧道具は櫛だけという
車の移動が3か月ごとにありました。
博士論文を書き上げたのが
結婚5年後の事でした。
結婚の条件が、
私の実家が経営する外科の施設を
引き継いでくれるという条件でした、
ところが博士号をいただくまでは、
結婚式から、何から何まで、私の負担でした。
長男も、一度流産しているので、
早々と、安定して出産できる実家に戻り、
一年後に、3か月まで育て上げて
札幌に戻ってきました。
この間、
まるで、出戻り娘のように、
トランクひとつで、実家にお世話になりました。
母は30歳代で戻らないと、戻れなくなるよ、と
焦りながらも、
無給医の私たちを支えてくれました。
今振り返ると、
嘘をつかれたわけではないのですが、
各人が、時分に都合の良い「生き残り」計画で
たまたま条件の合う同士が始めた結婚だったという
戦後の、心貧しい、、、生活のかかった出会いであったのですね。
彼には、結婚をしたい相手が居ました。
芸大を出て、伝統工芸を生業にしている女性でした。
彼女を世に出すためには、
開業して、作品を買える人でないと、
仕事を選んでいる彼女の
生きる条件から外されてしまいます。
自分は医師を続けながらも、
生涯、彼女と友人で居るためには
東京に帰り開業をして、
お金に困らない生活ベースが必要でした。
でも、、、、医学にも、贅沢な環境を望むのでした。
もやもやとした、矛盾だらけの欲張りな時代に、
医師の娘で本人が薬剤師で、
実家は兄が内科医で、とりあえず、、、
無給医で、あと5年、収入のすべてが
研究になる環境で、
博士号を取得して、
仲間にしてもらえるには、
顔がついていれば良い、
自給自足でついてきてくれる相手であり、
結婚をあきらめた、初恋の芸大生の作品を
趣味で買ってくれる相手であれば、
友情は維持できると思ったのでしょうね、、、
私の母は、和歌山の旧家の産まれであり
実父は、明治20年生まれで、師範学校を卒業後
25歳で渡米しているという
モダンな育ちでした。
新宮女学校では佐藤春夫さんの妹さんと同級で
佐藤春夫さんの家にも何度もお邪魔するうち
東京の、音楽大学に進学するという
芸術の影響を受けたようです。
ピアノ科を専攻した時、
知る日ぞ知っている
髭の、、、大きいことはいいことだ~の
山本直純さんの母上と同室の学生時代を寮で暮らしたそうです。
門限にうるさい舎監の女性が居て
人生の恋の季節を邪魔されたと、、
学生時代の事を懐かしそうに話していた母。
その母が54歳で未亡人になりました。
愛なんぞ、、、暮らしているうちに育つものだから
外科医のお父さんが、若くなって、ここに戻ってくるのだから、
相手の都合を、全てのみなさい、、、という。
これまた自分の都合しか考えていない、、、
配偶者を無くした、貧乏な心が、、、、母にもあったのかもしれない、
夫の母上は「二男は、あなたに差し上げます。。。」と言った。
私自身は、
病院の薬剤師をしていたキャリアウーマンであるからして、
愛より、何より
父の急逝で、置き去りにされた患者さんに
責任を感じると同時に、
母のさみしさ、内科医の頑張りが、苦痛でもあった。
150人、毎日来る患者さんを置き去りに
54歳で早逝した後を、
患者さんと、23人の従業員を抱え、
兄は、医局にも参加できず、
国立がんセンターの研修医をしながら、
早朝、夜間と自宅の開業を継ぎながら、
がんセンターの内視鏡の指導医を許され、
内科の開業に変更していった。
その頃、夫はアメリカのタフト大学から留学許可が来て
APを引き払い、
5軒続きの長屋の真ん中を500万円で買い、根拠地を移した。
2年間、ほっといても良い条件の自宅は、
長屋の真ん中が良いと思った。
ローンを組み、家具を移動させて、留学準備の整理整頓で
段ボールだらけの部屋で育児が始まった。
出発が決まっていたのに、
交代で帰国するはずのスタッフが、延長願を出して、承認された。
直前で、2年間の待機となりました。
夫は2年分の生活費を考えたのでしょうね。
医局では、行手のなかった激務の病院に出て、勤務に踏み切った。
2年のつもりが、7年も経ち、
いよいよ、実家では、
兄と弟と、夫と、従妹の旦那の耳鼻咽喉科の医師とで
4人で、綜合の病院を立て直すという
「淡交会」という、
お茶の世界のような名前の
病院発足の、理事会を出発させた、
名刺も各人が受け取り、
愛の置き去りになった「生き残り戦後のDr.チームの
接着剤として、
結婚の日々は、
「便利な女性として開き直って、支える姿勢になっていた。」
突然、、、、医局に優秀な未来を背負う若手が現れた。
北海道の、心臓外科を背負える優秀な若者二人。
教室は、
この二人に未来をかける盛り上がりのある勢いを感じた。
アメリカで、長い間、心臓外科の臨床医をしていた医師も
次代の心臓外科医を育てようと、医局に呼び戻された。
夫は、医局の内部も、医局関連外病院も知る医師として、
次世代の心臓外科がきらきらと才能を光らせているから、
その後輩たちに、夢を託して、
医局の、雑用一切を引き受ける医局長として
医局に、戻ってしまったのでした。
実家との縁は、これでおしまいです。
50年近くたって、、、
あの時の若い医師の一人が、
北海道のみならず、
全日本、そしてフランス、、
インターナショナルなドクターとして
活躍する日を迎え、
夫の医局長としての雑務の采配も、
意味のある結果として
自己満足している、笑顔の結果であった。
捨てられた実家も、
塞翁が馬であり、
開業をやめて、兄は房総のK病院に勤務して
内視鏡指導医の腕を行かせた。
どうなるのかと、、心配した弟は、
貧困生活にも負けず
国立がんセンターの
研究検査のセンター長として、
団塊の世代の果たす役目を、ダイナミックに果たした。
宮様からの賞もいただき、
日本のCTや、ヘリカルるCTに
大きな貢献をすることが出来た。
世は、、、民主党の時代になり、
多大な功績の「がんセンターの50年」は
弟の、定年を境に、どうなったのか、知りません。
医師として、今なお、知る人ぞ知る
良い仕事をした、放射線科の医師である。
叔父さんの、ピークの時代に育った
我が家の二男は、
放射線科の医師として、頑張っている。
愛以外の都合でであった結婚であったが、
縁の下で、誰にも気づかれない谷間で
守備に終わった人生ではあるが、
医師が、社会で働いて、それなりの役割を果たせた
その陰には、
存在していたのかもわからない妻というなの
都合の良い存在に徹した、人生の時間を
裏方の孤独な労働で、小さな穴をつくろい続けた
存在が有ったことを、私だけが知っているのです。
主張しない人生というのは
これからの日本の女性には、ありえないでしょう。
戦争の残したマイナス面を飲み込んで
戦いで死んでいった男性達の分まで
日本男児ここにあり!と
団塊の世代が、
日本の復興にかけた昭和生まれの陰に
明治生まれの親たちに育てられた、
誇りある武士道の精神に
一歩下がって、
不屈の精神で、地面の下で
点灯鬼になれる教育が
昭和とともに消えて行くころとなりました。
しかし、、、北の富士の根性には
足元にも及びませんが、、、
日本の昭和生まれの男たちには
人生の時間をささげても、
孤独ですが、、、
これでよかったのだと、、、
日本は、復活して、さらに、豊かな心になって、
本当の心の豊かさを目標に
世界が、豊かな心になるために、
一千年単位で、、、グローバルな、バランスを
世界で共有して、女性は、花咲いてほしいと、、、
願う、、、72歳の、8月です。
戦争の残したブラックホールを埋められるのは
人間を産み、育て、見守れる母心と、深海魚の心かもしれません。
何を描きたかったのか。。。眠くなりました。
君だけが、なんとなく理解して、くれれば、、、
昭和の人間の残したものは、、、なんだったのか?
ポケモンGoではありませんが、、、
これからも、昭和の心が出没してほしいと、、、願うのですよ。