結婚前の本籍は市谷にありました。
菩提寺は中野にある宝仙寺です。
父は、お爺ちゃんの事をとても尊敬していました。
おじいちゃんは
剣道が5段で、厳しい人でした。
長男である父の名前も
国歌の歌詞の中から、
さざれ石の、、、と言う流れの中から
巌とつけたそうです。
今は文人通りの高級マンション街になっておりますが
男3人、女2人の5人兄弟姉妹でした。
早稲田中学を出て、慈恵会医科大学の2年生に
飛び級で入れた時代が有ったそうです。
弟にあたる、二男は
自分でも、、、とてもかなわないと思える
秀才だったそうです。。。が。。。高校生の時、、
已む無い運命で早逝して、父は、
生涯忘れることのできない
愛との別れだったそうです。
三男の弟は10歳も違っていたせいか、
この子を守らねば、、、兄としては使命であると
何かにつけて、親のような気持ちで
弟を見守ったそうです。
関東大震災で、東京は焼け野原になったそうです。
小さかった弟をおぶって、避難したそうです。
その時、弟は、
兄である私の父の肩に、咬みついていたため
父の肩には「歯型」の痣が出来ていました。
その後父も三男の弟も戦争で、大陸に渡りました。
漢方医学に似ている仁川近くの大学病院に
銃創や、切り傷、切断手術、、国家の仕事で
戦場の野戦病院で働ける外科医の養成に従事したそうです。
滅菌感覚のない東洋の医師達。
慈恵会か大学で「イギリス医学」の
外科を習得していた父は、
戦争が始まると、従軍している日本兵の
銃後の守りの「医療」に従事しました。
現地での新聞記事の切り抜きを
母は亡くなるまで大切に保存していました。
白黒のニュウス写真の父が
長い顎鬚と、鼻髭の中で、手術に成功した事が
大々的に報道されていました。
I.M、博士の指導手術、、、
当時、仁川あたりの病院では
外科の医局もなかったようですね。
滅菌と言う概念のない現地の医師に
西洋医学の外科手術を指導知るのは
並大抵の忍耐ではできなかったそうでありました。
お爺ちゃんと言う方は
戦争前の厳格な国家公務員のような存在であると
想像しているのですが、
実際のところ?
宮内庁に勤めていたことしか
私は、知らないという、、幼い時代の記憶です。
父は、東大に入学して、国家の為に役割を担うか!
外科医になって、富国強兵の時代の
太ればよいと、、考えていた時代の
銃後の守りに徹するか
お爺ちゃんからは
二択しか無い命令で、外科医になったそうです。
後日、、、私は、慈恵会医科大学の
高木先生が留学していたという
イギリスの病院を見学してきました。
ついでに、フランスの病院、等も、、
十数件の医療事情を事細かに
病院主宰のゼミに出席しながら
西洋医学の医療とは何か?
感動する歴史が現在になお、、引き継がれているのを
見学できたことは、
一重に、東京大学教授でいらした
医薬史学会を主催されていた先生の引率によるおかげでした。
その後先生方は、数回にわたり
ヨーロッパの医薬事情を研究され
学会誌が、貴重な記事で、輝いていました。
私のような、父の時代を知りたいという者には
読み応えのある報告が思い出されます、。
父の卒業した慈恵医科大学の創始者の
高木先生は、
軍艦一隻の乗組員が、
長きにわたって、ビタミンの不足に陥り
脚気を発病することを突き止めた
軍艦実験室?とみなした、斬新な視点で有名です。
世に言う「脚気の原因をめぐっての、医学戦争?」ですよね。
森鴎外の作品は皆も教科書でも学んだと記憶にあると思いますが。
現在の、週刊誌の、
書き散らかしの医療に関する記事には
言う言葉もありませんが、
父の時代から、今なお、、、医師になった息子の時代にいたるまで
私は、医師の父、医師の兄と、医師の弟、
不本意ではありましたが
50歳近くまで、大学勤務の医師の夫と結婚したため、
付録とみなされる、裏方の家事をしながらの
転勤生活や、単身赴任や、
医局優先の家庭のすべてを任された、
終わりなき家事と
サポートを余儀なくさせられる
勤務医の裏方の実態に、
駆けずり回りながらも、
医療しか見ない医師の夫を
家庭に入院している患者さんのケアと
割り切りました。
薬剤師としての社会参加は、
断腸の想いで
退職、就職、北大聴講生、医薬史学会、
東洋医学学会、生薬学会と、
薬剤師としての仕事のための実力維持のための
ギリギリの活動に、あとは生涯学習に費やしました。
単身赴任んの時とか、
医療機械と実験室の薬品の問屋に
常勤管理者として勤めたこともありました。
子供の進学の授業料必要な時期とか、
主人の実家の実家の両親が終活に入って
亡くなる前の、痴呆状態の施設生活が始まった時とか、
マイナス家計の時は病院の調剤室で薬剤師業務に従事しました。
主人が、OKをする以外は
自宅で主婦業に従事しました。
現役の薬剤師だったころに
医薬史学会に入会しました。
パスツール研究所は、
日大時代の生薬学の女性の教授が研究をされていたところなので、
フランスの学会の時は、見学に行きました。
小学校で習った、菌の入りにくいツル首の容器など、
旧き良き時代の、実験器具が、
機器分析時代の今日のボタンの代わりに
科学の原理を視覚からアピールしてきておりました。
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何故、、、このような記事を日記に記す気持ちになったか!
一生県警、医薬の発達に心血を注いできた
身近な真摯な医師である家族の生涯と同居してきている私にとって。
医療人の不屈の苦行にも似た、ひたむきな努力を
舞台裏から観てきました。
医薬史学会で、ヨーロッパ、中国の四代中医学院ゼミなど
各国では、日進月歩の医学の進歩を
アナログの時代からの足跡を歴史観として、
又、ミュージアムとして、
今日に至るプロセスが保存されていることに驚かされました。
実に、敬虔な謙虚な視点で、医療人の医療魂を
第三の視点が保存して、命の宇宙の量子力学のように
消滅と誕生を同時に表現するmcの複雑な硬式を
観ればわかる形で、
未来に放たれてゆく志のある若き者達の
「魂を失わせない」
道しるべになっている。
視覚の次元の伝達になっている。
北海道は大自然が、、実に本物中の本物日本です。
歴史は、微妙です。
否応なしに残ってゆく足跡と、
北海道の歴史を、西部開拓史のように
時代や政治や、時の勢力で
色が付けられて生まれ変わってゆくものなど。。。
北海道では、
50年続いた本州の医薬史学会も、
温故知新の叫びも
津軽海峡で、
北海道丸に乗せてもらえないという事です。
本州の教育で物事を考えてしまう私にとって、
歴史は雄弁だから
その、、ジャンルの人々の残したものから
医療にかかわるものの、
第4象現の伝達してくる「魂」に触れたいと思うのです。
新兵器の実験器具や、
データーの累積する科学の貴重さはわかりますが、
合理的な人工知能のデーターが示す優劣で
医師は決まられない、、、聖域に「魂」を感じるのです。
科学の果ての心のような宗教のような、、
大切にしなければならない、、、何かです。
専門家集団の、オキュペイションした立場から出ないと
参加した資料も、個人研究として、年表にして
御誘い下された東大教授のS先生に
感謝のデーターの一部として使っていただきたく
お送りしておきました。
後日、、、一緒に研究して、発表してみませんか?
と、、、
畏れ多い、お手紙をいただきましたが、
私のように、家事と、薬剤師の臨床を
行ったり来たりしている者が
お邪魔できるところではないので、
ありがたいことですが、、、お答えできませんでした。
夫が、北大の医局長の時代に
医局のイベントで
アメリカ全土の病院見学のイベントに
参加した時の写真を整理していると、
歴史色の濃いヨーロッパの、500年続く病院や、
教会と合同の敷地内の精神病院などの現状とは
一味違った
ピューリタンと、法律と、記念の石に
全てが集約されているかのような
ある病院の「院長の胸像写真の額縁」が
病院創設時代からの十数枚が掲げられた院長室とか
街の全体が病院と
その病院群を支える会社や人々で出来ている
病院を城に例えるのなら
さながら城下町と言えそうな写真もある。
弟は「メイョ―クリニック」の
医師として赴任していた時、
兄の内科医は
アメリカ学会の学会場で
弟と出逢う事に
まるで、、兄弟のロマンでも感じているかのように
奥さんを置いて、、、単身アメリカに飛んで行った事があった。
医師は、、、確かに少しばかり高給取りかもしれない。
アメリカの、国際人の医師達は
桁違いの財力で
日新月歩の世界の医学を引っ張ってゆくのが見える。
日本の医師は、それと比べると、
わずかばかりの給料で
胃腸や肝臓や、画像診断も
負けないジャンルがいっぱいあるという。
オリンピックの体操だって、
ミクロの差を、闘って金メダルをゲットしている。
帰国した航平さんは
応援ありがとうございます。と。
日本の医師は
オリンピックのように
強い相手と戦っていると、、
私は、、実の所、涙が出るほど感じている。
しかし、、アンひとたちゃよかしゅ、、、
白鳥の、足の動きを感じる人はまれである。
日本の医師の家族は、
付録のように、扱われることも多いかもしれない。
医師のビジョンを大切に育ててゆくなら、
人間の命の尊さも、
別の角度から、社会は認識して、
老人施設の大量の悲劇なども
事前にくいとめることのできる
命の意味、生きてることの意味
それを支える心は「奉仕」
創造主への畏敬の前に
床をなめて、担当することを認めてもらえる心の修行を約束しないと、
介護のテクニックの取得だけで
経済的な事や、老人政治が先行すると、
魂が置き去りにされた、合理人間の集団が
未来の我らの老後を脅かす
老後処理の合理化工場になってしまいそうで、、、怖い。
医薬史の研究は、個人的に、生涯続け、
医師の、ビジョンを大切にすることが
結局は、患者様を守ることになると思うのですよ。
パパラッチ精神で
週刊誌が、医療をデーターで、、しかも一部の偏ったデーターで
機械的考察で人工知能的記事を書いていると、
哀しからずや、、、道を説く記事
古池にカエルが、度本と飛び込んだ!
之は、カルが大きかったからだ、、、なんて、。。
医師の家内の位置から
医師を観ていると、
一番、、命を懸けて精進してきた
本人が、無意識に感じてきた事が
医師であり続ける総合的な人間を見続けてきた魂が
医療と言う現場では、カースト的にピラミッドにすると、
心、愛、医師でありるづける魂のようなものは
一番底辺に評価されるか、
週刊誌の記者には
完治能力に欠けるか、、、
記事の為の医療感であると思えました。
薬剤師の立場から言えば、
小青竜湯も、アレルゲンも
べりチームも。使い方次第で
薬は、、、凄いなーと、、、思っています。
お父さん、、、
9月は、母の法事ですが、、
足場の自宅マンションを手放しましたので、
熱中症になりそうな東京の9月に行く元気は出てきません。
秋になって、涼しくなってから、
一人で、、お墓詣りに行くことにします。
お父さん、、、お母さん、、、おやすみなさい。