激動の「富国強兵」を謳い、
海軍の軍人が、日本のリーダーにならざるをえなかった
幼かった発展途上の日本は、
ザンギリ頭から
鹿鳴館、、
そして、、少しづつ、、、
日本は、インタナショナルな
大人に
成りはじめ、、青年になっていった時代。
大陸への共栄を願い進出していった時代だった。
明治時代のハイカラな父のもとで、
大正時代の学生時代を過ごし、
袴で自転車に乗り、皮のブーツを履いて
国立音楽大学のピアノ科の一期生だった母!
当時のアルバムには
「大きいことはいいことだー!」、、、で、
おなじみの、髭のコンダクターの大先生のおかあさまと
ならんで映っている、
味の深い着物の音楽大学性だった。
止せばいいのに、、、
絶対に主役の席を貫く外科医と結婚。
人生の全般は、母のピアノの腕は、、、
泣き続けた。
戦乱の時代に、弟も、義弟も、、、夫も赤紙一枚で戦場へ、、、!
外科医だった夫は、
大陸で、銃創や、切り傷、爆撃の、、、傷、、
日夜、銃後のご奉仕に、
体重はヘリ、内臓はやつれ、
敗戦が色濃くなったとき、
帰国命令が来て、
日本の地に、、やっと、、還ってきた生活。
東京の市谷に有った実家は、
爆撃で焼け野原、、、
お寺さんが、親類の再会の場所だった。
母は、戦乱の中、子供を3人亡くした。
半狂乱になりそうな日本の激動期を生きた、、、母。
外科医だった夫が、
戦後持ち帰った財産は、、、
手術用の道具だけ、、。
明治生まれの、
「ハイカラな、師範学校卒業の父」は
27歳の時、2人の子供を日本に残し
アメリカに渡った。
3か月もかかって、
時には嵐の大波に、命ごと海に投げ出されそうになって
アメリカに着いた武勇談を
孫の私は、聴くのが楽しかったものだった。
母が音楽大学に入学したころは、
アメリカに渡っていた父から
ドイツ製のピアノが送られてきたという
アメリカ製ではなかったっと、、、言っていた。
幸せな学生時代に、
慈恵会医科大学生だった父と
新橋の、フロリダで、、、出逢ったと言っていた。
幸せな青春時代が、、目に見えるようだった、
そして、、人生の最大の津波は、、、戦争だった。
戦争がきっかけで、帰国して、
古座川の上流の山奥に
疎開地になった村がある。
其処に、大きな洋館を建てて、
娘夫婦を、疎開させたのでした。
アメリカで多くの知識を得てきた母の父親である作次郎は、
頼まれて、
町長や、校長や、文化事業のリーダーとして
疎開地のあたり7か村とも
無医村だったところに
診療所を創り、
戦争からの引揚者や、傷痍軍人の治療に
娘婿の外科医に、
あたり一帯の医療を任せたのでした。
戦場から引き上げた母と、
夫である外科医は
新しい居場所で、
心の傷を治しながら、、、
失った3人の子供を取り戻すと!!!
美しい。。。原始のままの自然の中で
気力も回復したのでした。
大自然は、母を復活させていった。
高齢の出産に挑み、、、、ついに、
*************
「戦争を知らない男の子を生んだのでした。」
************
新しい時代が来るんだ!
新しい、、、戦争を知らないベイビーの誕生は、
疎開地の村々から
「歓喜の声」で
希望の光となりました。
あっちでも、、、こっちでも、、、
戦争で疲れ切ったはずの女性たちなのに、、
戦争を知らない子供が、
「オギャー!」と
大合唱で生まれました。
世に言う「団塊の世代の誕生」でした。
母の手はしなやかに復活して
疎開地の小学校の
音楽の先生に
ピアノ曲を指導して差し上げるまでに
復活足ました。
外科医とはいえ、、戦陣外科を体得した夫は
7か村、唯一の「全ての科」の診療をする医師として
無くてはならない存在となりました。
心の傷を背負った村人の頼ってくる診療所は
新しい勢いが宿り始めた。
戦後の診療所の二階は
ダンス教室として開放しました。
母は、
多くの人々の心の傷の癒しになるからと、
日本舞踊や、三味線、鼓、太鼓、笛、、、の先生も
遠く離れた市から来ていただき
疎開地は山奥なのに
3000所帯が住むゾーンとなりました。
戦争を知らない
「団塊の世代の弟達」は
「新しい復活のパワー」のシャワーの中で
育ったのです!
戦後の日本が、こうして立ち上がっていくのを
私も、肌で感じながら、育ちました。
、、、僕の前に道はない、、、
僕の後ろに道は出来る。
道程という詩を口にしながら、、、
姉の私と、弟は、、
東京の新しい時代の教育へと
父母の
不屈の努力と忍耐と、
全力を尽くした教育への志向が
再び、、、家族が、
東京に還ってこれたのでした。
山手線のど真ん中にあった実家は
再び、手に入れることはかなわず、
下町の、江戸川に近い高台に
10室ほどの入院室のある
小さな開業をしたのでした。
思い起こすと、父の想い出話は、、、
ドラマよりも劇的でした。
大学病院で博士論文が出来上がるころ、
大陸の医師は、
漢方や東洋医学なので
戦争の負傷者を治療できないから、
現地の大学での、指導者が必要という
時代の流れに、流されてゆくかのように
、
父が身に着けた
「イギリス医学の外科技術を指導するように、、」
戦場近くの大学病院に派遣されたそうです。
しかし、、、!!!
、、
「外科」の医局が無かったというのです。
日本の国がバックで、
総合病院を建てて、全科を揃え、
日赤の看護婦さんが配置され、
父は日の丸の旗のもとに
院長に任命されて、
現地の医師や、衛生兵に、、
滅菌から指導しなければならないような出発だったそうです。
陸軍の軍人の、手足の切断手術や、胃の手術や、
日赤の看護婦さんとともに、担当したそうです。
母は、、、行かねばよかったのかもしれません。。。
父を訪ねて、
戦場の近くの病院宿舎に移住したのでした。
そして、、
戦争に巻き込まれていったのでした。
戦後の世の中で、
団塊の世代を、生きた私は、
人生は、何が幸せかわからないと、、痛感しました。
戦争が無いことが、、、
一番の幸せだとおもいませんか?
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弟が、日本の放射線医学の先端を走り、
戦後の医療に貢献して、
「団塊の世代の復活の旗」を持って
精進した人生を
隣から感じながら、
感謝の心でいっぱいになるのです。
思い出すのは、、、
幼いころから、
レントゲンを扱う
父の手を見て育った我らでした。
疎開地の、粗末なレントゲンは
父の手を
放射線が、、潰瘍だらけに、ただれさせていました。
弟は、
医科大学を卒業するあたりになると、
痛くない医療。
外科手術が間に合う早期診断。
千葉大学の市川先生に出逢い、
生涯の師と仰ぎ
国立がんセンターで
戦後の放射線医学の
「コロンブスの卵」の役割を果たし
団塊の世代の「復興!」の
医学分野の一翼を担ってくれた、、凄い医師として
義姉の私の記憶の中では、
不死鳥のように生き続けるだろう!
国のお役に立ったのでしょうね、、、きっと!
宮様からの賞をいただけたのでした。
敗戦の日本から、
日本、、を、陛下はお守りくださったのだから、
諸々の復活は、国民の手で、!!
団塊の世代は、、
本当に戦後の復活を果たしてくれました。
外国の患者さんも、
日本の診療を受けるために
弟の勤めていたがんセンターに
はるばる海を渡って来ていました。
私も、検診を受けに行って、
弟の診断を受けて
その場から手術室へと直行の
命拾いをしたこともあります。
弟の退官のころ、
神も仏様も、どこにいらっしゃるのか!!
大震災が起り、
がんセンターにも
山形大学あたりの巨人の先生がいらっしゃって
大改革をされたとか。。。
千葉大学の市川先生や、
弟の時代は
名古屋大学に引き継がれていったようですね、
がんセンターで
生涯をかけた弟の実績の足跡は
退官とともに
消すことはできません。
なぜなら、
叔父さんを尊敬していた息子が
叔父さんが書き残した放射線の教科書を読みながら、
いつの間にか、
放射線の医師として、
認定医に育っていたからでした。
がんセンターという
タテモノの中は
時代とともに世代交代してゆきました。
しかし、日本で、CTという言葉さえ知らない人の多い時代
がんセンターに泊まり込みで、
廊下で夜明かししながらの
放射線のジャンルの大航海時代を生きた弟は
手遅れ手術を防ぐことに人生をかけたようでした。
同じ母の
お腹から生まれたのですが、、、
義姉の私は、、、、便利な家政婦のような現実を生きた。
貧乏にも、時間貧乏にも、負けず、
夢に生きた、夢追い人の、ひたむきな人生を
弟よ、、、
見せてくれて、、ありがとう!
君のおかげで、、、人生は、楽しいよ。
才能だね!、、、凄いよ!
よそ見をしなかった事だけでも、、、
真似は出来ないよ。
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母は80歳過ぎるまで
ピアノの教室で指導し、
コンサートを開き続けました。
母校で教授になられた親友と
後輩の生徒たちの協力で、毎年、
公会堂で発表会を開催しました。
結婚前は、私も、連弾のお手伝いをしたり
花束を50個も用意して、
発表会を盛り上げたり
裏方の片隅を担当させてもらいました。
お弟子さんの中から、
音楽大学に進学した生徒さんもいました。
3日だけ。病院に行き、
母は、この世の肉の衣類を脱ぎ
光になって
一足飛びに、天使の故へ飛翔してゆきました。
輝きながら飛んでゆく母が、
瞳を閉じれば、、、見えました。
弟の出産とともに、
戦争を知らない世代の翼に乗って
復活の気力を取り戻し、
戦争時代に失った3人の子供たちが残した
ブラックホールも
白鳥が、宇宙のかなたに運び去ってくれたようですね!?
生涯を命輝かせた
「昔の医師の夫人だった、、音楽魂!」
現代の医師夫人は、、時代とともに、、、
サラリーマン夫人になりました。
私には、どう頑張っても、、、
かなわない母でした。
母の友人だった、
著名な功労のある人々は
私には雲の上の人たちです。
葬儀の日の朝、、、、
「命輝きながらの昇天ね、、」と
私の肩に、、、
そっと手を増えてくれました。
母の教え子の一人です。
その人に、、、
母は自分の愛するグランドピアノを
差し上げて、昇天しました。
弟の勤務していた「国立がんセンター」からは
署長さんはじめ、60人ものスタッフが、
母を見送ってくださいました。
義姉でありながら、、、
私の出る幕など、、、ありませんでした。
救急病院で外科医をしている私の夫は
母の葬式には来られませんでした。
息子達は、進級試験の最中でした。
私には、、、
札幌薬剤師会から
会員に届けてくださる花が
心を癒してくれました。
兄嫁と、弟の嫁さんが、
かいがいしく、働いてくれている中、
私は、放心したように、、、喪服にも着替えないで、
お寺の台所で、空になったすし桶を、お返しするときの為に???
呆然と、布巾で、なでていました。
「お姉さんですね?!、、、
こんな所にいらしたのですか?」
ずいぶん探したと言ってくださったのは、、、
国立がんセンターの所長さんの先生でした。
「弟さんにお世話になっているんですよ!!、、、」と、、
ドクターらしく
ポーカーフェイスの中の
いたわりの笑顔であったことが、、、
何十年たっても忘れられない。
一丸となって、
戦後の復活の時代の中で
日本のがん医療を、
発展させてきたスタッフはじめ一同は
家族同様、結束の心の中で、各人が
ギリギリの頑張りの戦いの中で
貴重な時間を割いてくださり、
弟自身が、母をなくすことで
意気盛んなアタック精神が沈滞したり
実践実働に、支障がきたす事がないままに過ごせたのも、
家族にも増して、
一緒に生きてるお仲間の存在であると信じられた。
日本の放射線医療の黎明期の
精鋭のスタッフの先生方にとっても
弟は戦力であった事でしょう。
男の家族は仕事仲間かもしれない。。。
この時、弟が眩しく見えた。
勿論、、、
お仲間の先生方は眩しく輝いて見えました。
打ち込める仕事がある!
人生の夢を追って生きている人たちの
不思議な、凛とした澄明な空気感は
母の死が、逢わしてくださった体験でした。
弟の生命力が
母の死のマイナスのエネルギーを
プラスに変えてしまったのかもしれません。
一緒に生きてる仲間がいる!
「お母さんは、生涯現役だったことを、、、
僕は、、、誇りに思います。
皆さま、、ありがとう、、、」
弟の挨拶が聴こえた時、
私は、まだ、
夢うつつの心境だったことを、、、思い出します。」
母の永眠する白木の箱のベットの周りを
小さな孫たちが走り回る。
弟の娘が、大きな声で、孫一同を怒って静めた。
「皆!!!、、、静かにしなさい!!!
うるさくすると、、おばあちゃまが、、、眠れないでしょう!!」
******
天使の御通りの静寂の後、、
葬式なんですが、、、
大往生の母の眠りプリは
極めて明るく、
次の舞台へ向かう船出のように
七色のテープのような、
歓喜に近い拍手のような、賛美の光の中で
心が飛び交っているようだった。
*****
笑い声が起きた、、、
おばあちゃまが、、、起きてしまうよ、、、
今度は、、ちいさん声で、孫が言った。
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皆、、、又笑った、
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あれから27回忌まで、
弟は、父母の法事を努めてくれた。
今回は、法事は9月。
70歳を過ぎた私は、、、一瞬、行けるかどうか迷った。
27回忌の今回でも、兄弟皆、よく生きたと思っている。
33回忌が、出来るかどうか?考えた。
台風の中、
天気の移り変わりの間を飛んでいる飛行機の
シルバー券で、
北海道から東京に向かった。
行けるかどうか、、、わからないと、、、
言っておいた。
しかし、運よく、ヒコーキは飛び、
会場に着いたとき、
母の葬式の日に、、、
静かにしなさい!御婆ちゃまが、起きるでしょう!と
会場で騒ぐ子供らを、怒っていた弟の娘!
あの時の、母の孫達が、
母の、ひ孫にあたる子供を連れて
にぎやかな、会場で、
初めて出会えたのであった。
アメリカで産まれたひ孫もいる。(^^!
お母さんは、、、生きている。
未来に放たれた矢のごとく、、、
ひ孫たちの勢いは、、
未来に向かって、、放たれていた。
弟よ、、、継続は、、、力だね―――
お姉ちゃんに、寂しい思いをさせなかった君が
おじいちゃんになっていたなんて。。。。!
27回忌までも続けてくれて、贈ってくれた感動は、、、
「母もしかり、一生懸命に生きた人間は、、、
未来に放たれた光の矢になって
永遠の命が続くという、、感動だったよ。」
ありがとう、、、
法事で、いつも、母に、、父に、、、逢わしてくれて。
感謝しています。
君だけが、、、読んでくれればいいと思って
日記を書きました。
朝になっていました。
おやすみなさい