花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

若き日の冬を振り返り春を喜ぶとき...

2018-04-19 08:27:00 | Weblog

人生は長いようで短く、

短い様で

、、、結構長い、




北海道の冬も終わり

恒例のストーブの整備を終えて、

「小メモリ」の

三分の一の火力でも、

、毎年、冬の終わりに起きる

ストーブの

オイル油送管の詰まり、

メンテナンス。、、、きゅうきゅう。




オイルの油送管のつまりが取れて

赤々と燃える(^^

微量燃焼メモリにセットしていても、、、(^^

小メモリに、合わせた程の火力となり

これで

来年の冬の始まりもスタンバイ!

、、、、、、、、、、、、、????????

来年も自宅でがんばれるだろうか?






医者バカの人生を

狭く生きてきた主人のことを考えると、

四季折々の気候に合わせて、

自宅で過ごす方が、、、

ボケにならないと

私的には、、、思っている。



小さな自宅ではあるが、

一家を季節ごとに整えるには

家事万端便利屋の私が

年齢より10年若い筋肉が必要である。

今年の春も迎えることができた。



早朝、

雪囲いを一本づつ外しては

枝を整えてゆく。


根元の若い枝は

馴染みの老いた枝の養分を遮断してしまうので

根っこに近い足元の枝を払ってゆく、


次に、天に向かう枝を残し

あたりに日陰を残す枝を、

しゃがんで、

空が見えるまで払ってゆく、

植物は下草をおおきくさせないためにだろうか?

枝を下垂させるように張り出し

日陰を創る。

すごい知的な戦争戦略である、


去年咲いた花たちの

お花芽のわきから出ている

若い花芽を持った枝を残し

去年楽しませてくれた枝はとって払う。


紫つつじも

ガクアジサイも

名月楓も

五葉の松も

藤棚も、

毎日高枝ばさみで弦をカットする、


カラスの巣のあるお隣の大木には

毎年カラスの子供が生まれて巣立って行く、

我が家のボケは、実が鈴なりになるのだが、、、

カラスたちが

きれいに食べてゆく。


カラスは実にお利巧である、


ボケの実を2つ食べ残して去ってゆく。


小さな鉢植えだった藤も
手に負えなくなってきた。

松もあたりに実が落ちて
実生の子供が生えてくる。

剪定を誤るとかれてしまうという樹木も大きく育った、

花の咲く樹木はことごとく枯れた。

百日紅の木が満開のピンク色をふりまいたのは
たった一年だけであった。

北限の函館でも百日紅は育つのは見ていない。

まして札幌では、、、枯れたのは無理もない。
枯れ枝にニスを塗装して保存した。

生まれ故郷の南紀には
百日紅があちこちに咲いて
子供達には人気があった。

木肌がつるつるで
たしかに、、、サルも滑りそうなつやがある、

世田谷の主人の実家の庭は武蔵野が切り取られたような

80坪のミニジャングルった、

柿の木が重たそうに橙色の実を鈴なりにさせ
毎年、母親が「庭の柿の実」を送ってきてくださった。

戦後の東京は、みんな貧しかった。

振り返れば
お金では買えない喜びや幸せに
心は穣だった、

奨学金と、親からの仕送りで
主人は北海道で生き抜いてきたようである。

出会ったときは、

発見されたときの

「小野田さん」をテレビで観たときのように

お疲れさま、、ご苦労さま。。。と

言葉にも出ない、、、何かがあった、


私大の薬学部を卒業した同級生の

結婚式の挨拶を頼まれて

私も、独身最後の思い出にしようかな。。。と

北海道の旅行を兼ねて、

札幌に来ていた。

東京の病院に勤務していたため
貴重な休暇だった。

友人から札幌の案内役にと紹介された主人だった。

コロンボ警部のダスターコートの、、、その男性は

30歳を目前にした一人ぼっちの北海道暮らしの中で、

先輩に頼まれてしまった案内役だけど、

費用も、預かっていないから、割り勘でお願いします。。。。という。


ツワー旅行を申し込んでから、札幌に着いたので
案内人は要りませんと、、、同級生の新郎になる方に

ご厚意だけはありがとうございます、、、、辞退した

北海道道東を頼んでいた私は、
いったん断ったものの、、、

先輩ののたっての勧めであるからと、、、
宿泊所に帰る途中
バッタリと、その案内人と出会ってしまった。

成り行き上、、

、言葉は交わさなかったが

先輩に頼まれたからと、、、
繰り返す案内人に

札幌の案内をするからと言うので同行した。

北大の植物園 
北大のポプラ並木、
北大の医学部、、、

蛍雪時代のグラビアの写真より
迫力のあるポプラ並木のメスとオスの樹木は

一目で区別できる枝の広がり方であった。

まっすぐ、、、自分の意思のままに
天に向かって迷わず伸びるオスのポプラ、、、!

風邪任せ、成り行き任せに
柳の枝を逆さにしたように
天に向かっているのか?
アトランダムの燦爛を素直とおもってみあげるか?
芯のないたいぼくとみるか?

メスのポプラに関しては、、、観る側の心理状態で
いろいろに思える樹木であると言えそうだ。

折から開催されていた北大生の学校祭のイベントには

医学部の解剖室の見学に案内してくれた。

学生たちの絵画部の展示場や、、、ETC.

札幌の町の案内ではなくて、、、

自分にとって、唯一のアピールである

「北大生」の

医学部の所属であるという、、、

自己紹介を案内していた。

都ぞ弥生の雲紫に。。。
恵迪寮の歌を刻んだ歌碑の説明や
クラーク博士の胸像のある所から
中央ローンを歩きながら

理学部の古い校舎が、、、何とも好きだ、、、とか。


銀杏並木、ポプラ並木、

極め付きは、、、貧しい学生生活の中

孤独を救ってくれたのは

野球部にいたからだと、、、

今度は、、、

球場を歩き回るのであった。

私も、一度は北大を受けようと思って
友人と受験票を申し込んだことがあった。

友人は現役で理学部の合格していた。

学生生活を4年間過ごすのだったら、

北大は最高の学び舎だと思っていた。

案内人の言葉はあまり注意して聞いていなかったが、

自分の感性で、勝手に、、、北大構内の雰囲気を楽しんだ。


道東旅行に出発するべき時間になったが

タクシーも呼べない。

野球場から、、、農学部の農場へと、、、

私は、、、へとへとだった。


正門まで来ると、さすがに足が疲れた。
図書館が素晴らしいと思った。

一度、図書館にはゆっくりと来てみたいと思った。

歩きくたびれたので、

割り勘でタクシーに乗って

狸小路に案内された。


これまた、、、700円のカキフライを、、、

わりかん。

道東つわーはまにあわない。

おまけに、

出会ってしまった、、、カウンセリングの必要な状態に、、、。


フライなど久々に食べたという主人は

超特急の腹痛と、下痢を起こし、

北大近くの学生宿舎に

私の方が送ってゆく羽目になった、


宿舎は質素な共同トイレの

何とも古めかしい学生たちの巣のような

男くさい、、、無 ム、、、ムム、、となるような

臭いが充満していた。

かって、、、
父が元気だったころ、

早稲田中学に受かったとき

座布団防止を泥浴びさせて、

制服を砂にまぶして汚して着た、、、と言っていたことが思い出された。


女性には一刻も早く立ち去りたい雰囲気であった。


私の気持ちにお構いなしの

札幌案内?と称して

自分の今日までを案内していた。

しかし、、、

長い間、戦争の終わったのを知らないで

島で役目を果たされた小野田さんの

TVに写られたとき、

私は、わけのわからない涙が止まらなかった。


孤独であった事でしょう、、、


敵に囲まれているままの終戦は

小野田さんにとっては

戦場だったことであろう、、、


男の一途な使命に生きる、切なくなるような

もらい泣きであったことが

思い出される。


戦後の、オール貧乏な家庭から

北大の医学部に入学出来て、

貧しい仕送りと、奨学金、、、野球によって孤独を救われ

医学を続ける気力を維持し、希望につなげた貧しさが

厳しい医学生の学問生活と孤独と、貧乏の中で

とうとう射止めた卒業と医師免許。

この男性にとっては、戦争からの復活の戦いにも似ていたのではなかろうか?

戦後の貧乏から、、、脱出したい、、、と。


札幌案内が「自己紹介案内」にまっしぐらになったのは、、、

血液型のせいかもしれない。


自分しか愛せない、、、芸術家、?画家?学者?

同じ血液型の著名人がいる。
自分しか見えない、、、状態。


道東で、原生花園や知床をめぐるはずのツワーが消えた。


くくっさい、、、民間の貧しい学生寮の

これまた、、、ひどい腹下しと

下痢の患者さんの看病に、

おかゆを作り、

綿あめのような誇りをソートふき取り

勉強机に新聞紙をひいて、

江戸紫で醤油を作り、、、

救急車を呼ぶべきだと、、、


逃げ出さねばと、、迷いつつも、


日本のこれからには、
なくてはならない外科医の卵だと、

とりあえず、

新婚旅行に出てしまった友人に

何とか、連絡を取ろうとあくせくした。


道東の二日目は網走の刑務所のはずだった。


「刑務所ね、、、、」

「医学生というと、、、聞こえはいいが、、、

勉強の刑務所に服役していた7年間だったのかもしれない、、、


長い間、、、それも、、、
貧乏学生という、、、独房の中で

歯を食いしばって、
希望と、
夢の実現にかけた
7年間の学問に服役した刑務所だったのかもしれない。

腹をおさえて、共同便所に通いながら

爆睡する姿を見ていると、

先輩から頼まれた案内客への
義務の案内が、、、自分自信のの案内になってしまい
久しぶりに、自分を認識できたのかもしれません。

見知らぬ女性の私でも、


停車場に故郷の訛を聴きに行った啄木のように

故郷で別れた彼女を思い出しているのかもしれません。



小野田さんが、孤独な島で

故郷の人間が現れたとき、、、

巣窟から、、、出ていらしたように。

、、、、、、、、

人間の出会いって不思議ですよね。

家もない、車の免許もない、、、

道具は勉強の机と疲れたロッカーが唯一の持ち物、


青医連や国家試験ボイコットで


北大医学部を卒業したのはいいが、、、

仕送りはストップ。


医師免許はない、、、

食うに食わずの。。。人生のエポック。


「神様、、、私に命令されていることは、、、むちゃくちゃです。」

東京に帰ったら、休んだ分だけ仕事が溜まっている。

くたくたに疲れた、、、病院の勤務中の10倍以上、、、

疲れこんで、

私は東京の実家にたどり着いたのでした。

その夏、、、

私の父が急逝したま、

「外科内科」の看板はそのままになっていたところに、

札幌の案内人であった彼が
いきなり、、、母に会いに来た。

北大で博士号を取得したら
お宅の外科の看板を、私が守りに来ます。

約束します、、、。

私の頭越しに、母は「お父さんが若くなって帰ってきてくれる!」

そう、、、言いました。

一開業医の施設で、外科医を雇うのは困難である。
母にとっては

故郷が、同郷で、都合のよいことに次男でもある。

博士号を取得後は

東京に戻りたいという男性は、、、
早逝した夫が帰ってくるように思えたといった。

結果的には、
北大に採用された主人は
学閥を乗り越えてまで
東京の再出発は選ばなかった。

母の臨終の言葉は、、、かなしい。

もう、、、待ちたびれたよ、、、


あの人は(主人?それとも」私の父?母の伴侶だった夫?)

嘘を、、、言った。


母は、主人が帰ってくるのを待っていたのか?

娘を北海道人として定着させてしまった寂しさに

耐えきれなかったのか?

俺のことしか考えない
あの血液型の主人を
嘘つきとまちがえたのか?

私的には、、、
主人は学閥を乗り越えるだけの
アグレッシブな精神は
もともとなかったように思っています。

主人の母が晩年息子を呼んでも
枯れ枝のように痩せた老衰の実母の前で
涙ぐむだけでした。
、、
大学がらみの仕事からは
実母の呼びかけにも
振り返ろうともしませんでした。

東京に帰らないと決めた日からは
妻のことも姑の母のことも
心の中では捨てていた、
実母さえ捨ててしまわないと
北海道人にはなれないという
自分の道しか見えなくなっていた、

妻の母親の、、、葬式には
現れることが、、、できなかった。

医者の家は、何かと豊かな金持ちと誤解されることが多い

地元で、何代か代々医師の続いた子弟が
たまたますんなりと医者になるという場合は
たしかに、、、
医学は足下にありと言えるかもしれない。

しかし、、、、
実父の弟が病院を継いだとはいえ、
実の父親はサラリーマンで

地方の大学や、

反対に地方から東京に出した医学生の親子は

一家ぐるみの戦場であることは確かである。

なわばり、、、?と言っては??
アウトロウの言葉になりますが、

医学部は
、築城された地域のように
見えない学閥があるようです、

主人は、、、学閥の島で、戦い続けて

居場所を確保していったのだと思いました。

母校を離れることが、どんなに、、、力が必要か、、、

博士号を授与されたとき

母校への忠誠を誓ったのだと思います。

その段階で、母も私も、、、
不要な
蚊帳の外の存在に
なったのかもしれません、

母は国立音楽大学を卒業して

「四葉会」の

主催者でした、

多くの弟子を教え

毎年コンサートを開いていました。



亡くなる三日前に

内科医の兄と、

国立がんセンターのスタッフだった弟に守られ、

多くの弟の同僚が手伝ってくださり

無事に天国に旅立ちました。


自分より30歳も若いかっての夫をさがしだせるでしょうか?


晩年は

美しい若い、、、

お弟子という娘たちに囲まれていました。


3台あったピアノは

一台は老人ホームに、

もう一台は、、、

最後に愛してやまなかったグランドピアノは

愛弟子に受け取ってもらったそうです、



私は実家の為には役割を果たせませんでした。




母はなくなる寸前まで

内科だけの看板で

開業を続けてくれた長男に

「大変だったでしょうね、、、一人で開業を続けてゆくのは、、、

本当に、、、お疲れさまでしたね。

あなたのおかげで、私は幸せでした、

ピアノを続けることが出来ました。、
、、」

手紙が見つかりました。


前後して、兄は「胃カメラの指導医」を取得していたので

千葉の病院に勤め勤務医としての晩年を過ごしています。

80歳で、英検の一級をゲットして、

自分の人生をおそばきながら始めました。

母を守る、、、

医者の未亡人を守る、、、
世間の風評被害が及ぶ院長の奥さんが未亡人。

守り切るには
母への絶大な尊敬と、愛情と、医師としてあとを継いだ役割と、

自分を生きてゆきたいというジレンマのなかで

兄は苦しかったことも多かったと思います。

奥さんが、、、花かごのような人だったからすくわれましたね、




弟は、医師になったらこうありたい!、、、私ならそう考えるほど

戦後の団塊の一人として、

日本の画像診断の黎明期から

あらゆるジャンルに必要とされる画像診断の時代を

戦陣を切って走り切りました。

外科医の父、見えないものをとらえ、具象化する音楽家の母

内科医の兄、理科系の兄弟と、豊かな人間関係の弟、

がんセンターも、弟の定年のころは

民主党になり、

独立法人になったり、、、激動の中でも、

おじさんの生きざまの中で

外科と、内科と画像独特の面白さのある画像診断に

病理の所見を合わせた医学のよもやま話を聴けた息子が

おじさんにあこがれたのであろう!

放射線科の医師となりました。



「母さん!」

画像だけ見てるのが放射線医だと思っているだろう?


内科の面白さ、
外科の面白さ、
病理との面白さ、、、

放射線は、技師の腕の見事さも左右するから

円陣を組んで、、、みんなで勝ちに行く医学だよ!」

スケートで金メダルとった「パシュートのように」

チームで勝ちに行くんだよ。


夢に生きていた時代の息子の言葉である。


その後、ドクターヘリの来る救急病院で
臨床に明け暮れていて、、、


43歳独身である、
気持ちは青年のように若いが、、、おじさんになった。

大学生のころはスリムであったし

ピアノやサクソフォンなどたしなみ、

心の旅路のできる息子であったが

画像診断という科は

座り机の前での仕事が
多いのかもしれない。

それとも、、、
救急のクランケは生死の境の緊張があって「
ストレスになるのか?

スタッフの少ない環境の激務が続くのか?

医師の本人は、

自分がやれることがあるという生きがいに


時間が過ぎてゆく実感もないままに、、、


患者さんが助かることが、生きている実感なのだろうか?


独身の43歳もあと半年で44歳、


幸せになるという事が、常識からは当てはまらない。




家庭がないだけで、

居場所のある男は幸せなのだろうか?、



病院の寮の一間で、

眠るだけの一人暮らしの中で

結婚がどういうものか?

想像もできない

青春の一部が、とり残された青年である、

仕事以外に

考える時間のない毎日は過ぎてゆく。

お母さんが馬鹿だから、、、息子を結婚させられない、、、

偏った価値観の中で、世の中半分女子なのに、

息子は仕事人間であるのがもどかしい。




画像診断でも、救急病院でなければ、
ジムに通えるだろうから、

一目ぼれされるスタイルに戻すことも可能でしょう。

しかし、、、

今のスタイルでは、、、

息子を愛して、

うるさく健康管理や、

運動管理に

生きがいを見出してくれる誰かが付かないと、、、

医師を続けるには健康維持の助っ人が必要だと思います。

太りすぎで

そつぎょうの頃の貴公子の雰囲気はない、


もっと、、、自分という

体型的なクランケをケアする曜日を作ってください。


生きてる間に、、、稀有なる面白い性格だった君の子供に:

出会いたいですよ、

君の遺伝子が、、、君一代で消滅するのなら

お母さんの存在も消滅します。

孫の顔を見るまでは、、、

いつまでも、、、頑張っていますよ。





さて、、、

あなたの父の、戦後の医学生から医師になるまでの

苦境の時代に、、、話を戻しましょう。
君だけのために、、、

思い出をつづっておこうね。

何十年も、離れたままだものね、、、、


***********************************


若き日の外科医としてピークのころ

主人を雇用している病院の

事務長さんが、

医師を働かせるのが上手だった。


医者バカがこうじて

過剰労働のエースだった主人の

ドレナージにと

ゴルフ場に連れて行ってくれたとき


入り口で売っていたと聞いていてが

小さなオンコの苗木を買って帰ってきた。


注意深く下枝を払って庭に地植えにした。

最大の注意を払って選定していた。

突然枯れたりすることもあると聞く、

オンコ

巨大化したヒバ、、、

そして、

建売業者が植えた、、、ヤマモミジ。


庭木にするには無理があると思われるが

初めてのマイホームだけに、

枝を切りながら50年近く同居してきた、

赤松は、

巨大化して塀を崩し始めたので

かわいそうですが、

立ち枯れて柱になってもらった。

我が家に、業者は、、、なんで???

こんなに巨大化する

立派すぎる赤松を

庭木にえらんだのだろううか??



いっそ、

小さな庭に、なじむように

盆栽のように

芯止めしておけば

巨大化した松の枝を払って、

オブジェのような柱にしてしまわなくても

庭の家族として

同居できたかもしれなかったのに、、、、

後悔は先立たず、、、。

万感の思いで、

無知は罪だと反省している。



半面、

忍びよるように

ふと気が付くと

巨大化している

松も、、、怖い。


小さな苗木だった五葉の松は

芯止めしていても、

二階の窓まで大きくなった。

クリスマスに、

若き日の華道仲間に枝を送って喜ばれている。


五葉の松は、

コミュニケーションの剪定を続けてきた。

我が家は、世にいう旦那衆とは違って、

肉体労働者のかなり激務の

臨床医だった。

心臓外科も担当する、

循環器のDrの

舞台裏の役割の自宅担当係の

おばさんであるからして、

家屋の中は

すべての部屋が
主人の物で埋まっている。

私の個室もない。

御着物なんぞ着替える部屋はない、

玄関の靴箱は

主人のかかとの減った靴で埋まっている。

ファブリーズが要る。!!


世の夫婦が一番大切に設計するという?

夫婦のベットルームもない。


つまり夫婦の寝室がない、


電話のそばのソファーで
病院からの呼び出しに待機しながら寝ていた主人、

今でこそ、
20人以上と研修医の居る病院だが、

たった4人の外科医が

なり続ける救急車のサイレンと戦ってきた

巨大病院の創生期の外科医の筆頭だった
、、

自宅は週末しか帰ってこない!。

子供たちと雑魚寝の二階の6畳は、

、、やがて

成長した息子たちのスペースとなり、


お値段以上、、、ニトリ、、、でおなじみの

家具屋さんで買った

三人掛けの薄皮張りのソファーに、

何十年もスラックスのまま、、爆睡して、

緊急電話で出かける主人を玄関で見送った、



主人が寝付く頃から朝まで仕事をするという、、、

昼夜逆転の

すれ違い夫婦を

何十年も続けている。


子供を作って以来

セックスレス夫婦だから、、、生き残ったのかもしれません。

ぎりぎりの体力戦争でした、



どの部屋にも主人の物があふれている。



主人がたまに見回りにしか来ない庭!

自分一人で、

リラックスできる自分の部屋である庭、


見せる庭というより

私が、、、勝手に気休めになるという

おもちゃ箱をひっくり返したような

整理されないままの、、、

私の休息ゾーンになっている。



庭仕事は無料の

アスレチッククラブ、

トレーニングを強制的に要求してくる。


冬の雪囲い、

春の庭片付け

草むしり、

落ち葉の掃除。

ペットボトルに水を入れて、

自動水やりの口とんがり部品をセットして

鉢植えに刺して回る。

枯れ枝の片付け、、、

庭の強要してくる筋肉トレーニングは

70歳過ぎても甘くはならない。




庭師を頼むことはほとんどないのですが、

長年のお知恵拝借の先生なので、

あっちこっち、、、

雪で崩壊したDーブロックぞーンを修復していただく。

お付き合いをしていただけるだけの、

最小限のお仕事は引き受けていただくように心がけている。

私も勤務していた時代からのお付き合いで、


維持費は年間で12万ほど。

家は、肝心かなめの水道と、雪の危険とスガモリ。


栗林ミサワの建売住宅は

水道も下水も屋根も、屋内のタイルや階段も

50年前の、技術未熟時代の家だったので

水道は何十年も使っていない。


雨水を使っている。

進歩したのは医学関係だけではありませんよね!

最近の建売は素晴らしくなりましたよね、

昭和50年ごろのに辻が丘に、
本州では有名だった
ミサワホームランドが建ちました、

東京主審の私たち夫婦は
迷わずミサワを選びました。

しかし、北海道の優秀な現場技術者は
本州の業者にまでは派遣されなかったのかもしれません。

現場の大工さんに、、、プロが少なすぎました。

思い起こせば、、、
あたりの悪い建売を買ったことは

病気の家族が居るのと同じぐらい、

大変でした。





2年前、

何十年かぶりに、

公務員の正社員の水道業者が来てくださり

庭の真ん中を掘り起こし、

万年水浸しで、原因不明の漏水の原因が

水道業者責任のゾーンのミスであり

居住者責任ゾーン内の漏水ではなくて、

それ以外の部分の水漏れ垂れ流しであったことを発見して

庭の真ん中を掘り返して、からは、、、

万年水浸しの庭が、乾いた普通の庭になった。



かって、、、ドヤドヤト数人が部屋に入り込み、

家屋内の水道を点検にしばしば訪れて、

水落としコックの全取り換えをしても、

メーターを毎年変えても

水が使われているといわれて、

ある日一時に十数万円の水道料を請求されて払ったことがあった。


それ以来、水は契約していないが、

メーターを取り換えに来ては

針が動いているといわれて、

問題が解決しなかった。


2年ほど前、

初めて、内勤の正職員が当方に来てくださり、

異常に水浸しの続いている当方の庭に疑問を持ってくださり、


「奥さん、、、これは、、、水道局の管轄のゾーンの水漏れかもしれません。」


三角の工事現場のような目印を置いて帰られた。

翌日、現場工事のニンプ?さんといっしょに来られた。


「奥さん、、すみませんが、植物の植わっている庭の真ん中を掘らしてください。」


真剣なまなざしで、きりりとおっしゃったので、


「漏水の原因と、我が家への嫌疑が解決できるなら、

どこでも掘り返してくださっていいですよ。」


その方は正職員の内勤だけあって、一枚上手であった。

掘り起こした庭に泥んこになって手を突っ込んでは

機械を使って水を下水の方に誘導してくれた。


「奥さん、、、原因は水道局の責任の区域内の漏水でした。」


長年の何十年も続いた水道の漏水嫌疑が晴れた。

しかし、

長年水道を使っていない鉄管はさびているでしょうね、、、という。

水を出したら、どこで漏れてくるか、、、わかりませんね。

今は鉄管の時代は終わっていますので、

全面引き直されるといいですね。

説得力のある言葉だった。


新築後数年で庭の水浸しが続き、

水道局との契約はしていない、


当然、トイレも使っていない。

不要になった家具や、

息子達や、主人の本。小さくなった衣類、

昔の重たい布団。

物置小屋となって、ガラクタの館になって数十年、

しばしば掃除もするので、愛着はひとしおである。


リホームしようと見積もりを取ると

1500万の設計づ面を作ってきた。


今のミサワホームは素晴らしくなったが、

昔のミサワをリホームするのは、

新築並みの費用が掛かることがショックである。


家はリホームされても、

喜寿を過ぎて頑張っている主人が

ストレスを感じるぐらいなら


生きてる間は、物置として、固定資産税も、6万円まで下がってきたし、、、

このまま、、庭だけ楽しみ、

雨水を撒きながら、

心穏やかに過ごしたい。


しかし、水道局の内勤の彼が来てくれなかったら、


いまだに水浸しの庭で、
水道メーターを取り換える作業が続き、

こっそり、、、水を使っているんだろう、、、と

嫌疑をかけられ、

不愉快な時間にストレスをためていたと思います、

時間がすっ飛び、、、
水道全面引き直しの塩ビ管時代が来ていたなんて、、、


考えられない思いの中で


ストレスに耐えていたのかもしれません。

いっそ、、、
井戸を掘れば気分もすっきりするかもしれませんね。

今だに

内側がトノコのついたままの未使用に近いまま

外壁は亀裂が入り朽ち果て始めた、、、

思い出の初めてのマイホーム。

戦中に生まれた主人は

土地付きのマイホームに愛着を示す。


家は広かったが、東京の実家は借地だったという。

建て替えができないので、

土地付きにはあこがれがあったという。

やがて、家屋は朽ち果ててゆくだろうが、

土地は歳をとらない。

今年も庭の樹木や花が

使わなかった家屋をやさしく守っている。


五葉の松、

ヤマモミジ

かいどうの桃色の花

つつじ、

ゴルフ場で買ってきたオンコが2本

もうすぐ咲くだろう、、、リラの花

北大の徽章になっている、、、延齢草。



北方植物園で学術発表の合宿に参加したとき

知る人ぞ知る植物園の先生のご配慮で、

参加者に分けてくださった

シャクヤクの種が発芽して、

チョウチョがほかの品種の花粉で雑種類となってしまったが、、、

楊貴妃が愛したという

シャクヤクの原種の種だった。

いつの間にか、、、庭から消えてなくなった。

生薬としては、、、基準の植物だった。

アメリカにんじんは

放し飼いの犬に張り起こされてしまったが

家は使えなくても、庭は私の居間である。


ぼろになっても、、、家には役割があると思った。

心の支えの存在なのである。

土台が風化しないように、

石黒ホーマでペンキを買ってきて、

とりあえず風化を防ぐ処理をしておいた、

我ながらへたくそ!!!、、、笑ってしまう。



当時は提携ローン9分で、

頭金は100万ぐらいで購入した。

北大の大学院で

博士論文と取っ組み合っている医学生が夫だけに

自分の学問代金を

アルバイトするのがやっとでした。



3か月に一か月、、、

留萌の寿町の崖の上の

築。。。???
何十年か経った宿舎に移動する生活だった。



平屋建てで、ワンルームが並び

いつも、、、
5人ぐらいの医師が出張アルバイトの宿泊にしていた。

冬は、、、海側の塀がぎーぎーと前後に揺れて

今にも倒れそうだった。

玄関の隙間からは雪が振り込み

廊下は長靴で歩いていた。

天候を見計らって、、、

坂を下り、、、桟橋まで行ったら、

冬の海で「きゅり、、、?」というのか?


小刀のような

品の良い川魚に似た魚が釣れて

留萌の冬の荒れた海が、、、

やさしかった一瞬でした。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、

山の天気ではありませんが、

空が灰色になって、

雪が降り始め、

桟橋には誰も居なくなり

私も危険を察知して

坂を登って宿舎に帰ろうと、

足早に歩き始めました。


あ!という間に吹雪が視界を遮りはじめ

吹き飛ばされそうな風が

海に向かって吹き荒れ始めました。

途中に、

食品や雑貨のミニミニデパートがあったので避難して

風が治まるまで買い物をして待ちました。

地元の人たちは、

知り尽くしている天候の変化に

顔色一つ変えないで、

通りは人の姿が消えています。



ほどほどの時間の後、

何とか、

向かい風に負けないで坂を登って

宿舎にたどり着くと、

玄関を出るとき

手前10メートルほどのところに刺した

スコップの三角取っ手が

かろうじて見えていた。

スコップで、玄関まで

獣道を掘りながら、

北キツネの巣にたどり着いたような気持ちで

ワンルームたどり着いた、



白黒のテレビも

アンテナがなくて映らない。

二人掛けのベッチンノ生地を突き破って

らせんの金具のはみ出たソファーは

座れない。

シャバシャバに線だけ映っているTVをつけたら、
都はるみ、、、だろうね、、、

北の宿から、、、

「着てはもらえぬ背~~~た~~を。。。

   涙こらえて、、、~編んで^ます~~~」

吹雪でとぎれとぎれの

唸り声が、虎落笛と重なって、、、

奇妙な音声になって、、、耳に残っています。


主人は、鉄筋の病院の宿直室に連泊で
研修アルバイト中であった。

何故、、、私はこんなところにいるのだろうか?????


備え付けの布団は押し入れの雨漏り?

湿気?

それとも雪の滴?

水がシャーベットになってごわつく布団。

風呂は煙突が取れている。

スト―ブの石油を買いに町の燃料屋に行くと、

オイルショックで

よそから来た見知らぬ客には、売るほど無い。

引き返して、

悔しいけれど主人に頼んで

病院から

宿舎に

ストーブの設備を申し込んで、

ピンチは切り抜けた;

寮がびっくりする山小屋風であったのも

戦後の日本の復活までの過渡期であったと振り返る。


戦争がなかったら、、、日本は、
もっとゆたかだっただろう、、、

戦後の北海道の復活の直前の時代の話である。

その年、宿舎の目の前の
留萌小学校の古い校舎が火事になった。

シングルエイトの8ミリで
火事を撮影していた、

火事のあと、小学校にフイルムは差し上げてきた。


夫は、ほとんど寮には帰らず、

研修を兼ねて、

病院の当直室に泊まりっぱなしだった。

結婚早々、

二間の二階建ての風呂のない木造アパートを借りた。

何か月も過ぎることなく、、、

階下の大家さんの若夫婦の喧嘩が原因とかで???

家事!!!

2階のわが部屋もタールまみれになり、

貧乏苦学生の新婚のアパーとに

せめて、

カーテンだけでもと

三越であつらえてお気に入りだったベランダサイズの

ずっしりと品の高い

ワンポイントのインテリャを

セレクトしていた。

           (--!



カーテンは半分焼けて、茶色に変色していた。

この日は

友人の医師が急きょ出張先の病院に行けなくなり、

実験費用や、奨学金返済で

金銭不足できゅうきゅうしていた主人が

代わりに、宿直に行って

アパートには居なかった。



私は、

夫の祖母の急逝で、

羽田にいた。

御祖母ちゃんが、

救ってくれたようなものでした。


主人と、、わたくしは、、、助かったのでした。


日赤からは毛布が配布された。

被害者救助のきめ細かな日赤の援助に敬服した。


戦後のどさくさで日本人総勢貧乏人の時代を

夫は生きてきた。


5歳年下の私の時代は、

復活の兆しの中で

アメリカの援助もあり

復興の兆しの中で

団塊の世代に突入するころでした。


敗軍の軍医として

最後の韓宇連絡船で帰還できた父は

満身創痍の健康で帰国後も


南紀の山奥の疎開地で七か村無医村で

疎開で住人が200人から3000人ぐらいまで

にわかに膨らんだ村落銀座で


町立の診療所の医師をしていた。


戦陣の中を苦労して生き抜いた父は

にわか銀座の迷える戦争被害者の片隅を照らす灯になっていた、





疎開地の診療所では、

ガラス窓が多かった。

キンモクセイやヤマモモの木がガラス越しに見えて

枝を灰色の蛇がうねりながら上手に進んでいたのが記憶に残っている。

青山師範を卒業後サンフランシスコに留学していた祖父も

カナダに渡ったアメリカ村の人たちも

戦後は一丸となって

復興に取り組んだ頃でした。

フト気が付くと、、、w

私は北大の外科医の伴侶として

北海道に居たのでした。


南と北、、、

なんで北海道に住んでいるのかも不思議だった。

人の一生など、、、どこでどうなるのか、

どこで道を間違えるのか?


なんで日本は、、、、

真珠湾に奇襲をかけたのか?


なんで、、、、部下たちはこぞって

ニイタカヤマに上ってしまったのか、、、


夢中で戦後を生きた私は

70歳も半ばになるこの頃、、、

思い出すことを、

アトランダムに

走馬燈が勝手に回る影絵のように

記憶をつづって見た。



平和こそ人類の最終目的だと信じています、



核の装備など、もってのほかの地球の中で

原点に返って、


自然の絶妙なバランスは

人知を超えた域に思えるほど本物だけに

本物を壊して、

コンクリートのジャングルを作り続けても

風化は免れないと思うのですよね。



自然は、大きな意味で

生命科学の示すように

呼吸している。


人間の作った人工のバランスは

愛情や、思いやりや、温故知新の尊敬を置き去りに

お金だけが幸せにしてくれると思うような哀しい社会である。



酸性雨や、

イタイイタイの人工公害や、

原発稼働津波被害、、、

社会の発展と称して、新しいものに飛びつく前に

立ち止まって考えてみたい。

バンカブルなことは、発展につながるが
バンカブルな考えやセンスは
永遠の戦争につながらないだろうか??

欲望や栄光や権力の世界は
底なしの戦いにつながってゆくとおもいませんか?



心の貧乏人が生まれ続けるのではないでしょうか?

心の貧乏人は、、、確かにお金で幸せになります


しかし、


自然の中で放浪した戦中に生まれた私は

人間は原点は

獣と変わらないのではないかと思います。

それだけに、

経済がすべての幸せを作ると考えるのは

、、、欲の獣と変わらないと思うのです。


人生もゴールが見えてきたとき

自然の偉大さに気が付きますよね。


やがて、、、

自然に帰らねばならない自分をどうしますか?



、、、、人間が作った悪魔。

戦争、

受験の敗北者、

お金がすべての世の中

名誉が先行して、

クジャクの羽を付けたカラスが
自分はどこ?、、、どこにいるの?
鏡に映ったクジャクの羽のカラスは
自分を探せない、

コップに石を入れながら

食べ物を浮かび上がらせるような

科学の終焉の臭いを嗅ぎ分ける

ハゲタカになってゆくカラス、。



欲と経済の数字だけを見つけて

それなりの見えないレールで走っていると

年老いたライオンは

なわばりを見回ることもできなくなるのですよね。



地球が親であって、

地球との共存共栄を第一にしないと

道教のお国も

スモッグとビルの大地になってしまうかもしれません


中国が「眠れる獅子」であり続けていてくれたなら、

地球の幸せは、

健全だったかもしれませんね。


働かざる者食うべからず、、、

マンションを

現金で買うお金持ちはいなかったかもしれませんが、

中国の台地には

月から見える万里の長城が

地球丸ごと

世界遺産になっていたかもしれませんね。



大地の子は、、、存在しなくなるのでしょうか?

パールバックは

真珠を握ったまま死んでしまったのでしょうか。

       支離滅裂の、、、記憶のままに

                      パッチワークな文となりました。

やっと居場所を見つけた40歳過ぎの息子。

結婚する気になり始めています。

知人が花嫁候補を、、、教えてくれています。

医術しかできない、、、女性への劣等感?があっるようです。

せっかく、、、教えてくれた女性に、

自分からアクセスすることが出来ないようです。

不器用な女性音痴の医者バカ。

哀しからずや道を説く君。

男は黙って抱き寄せて愛を伝えれば最高でしょう!


息子の縁談がうまくまとまりますように!

素敵な愛の、思いやりの、助け合いの、

「二人羽織」のできる奥さん候補に出会えますように。

これから、、、春を迎えに

         庭の枯葉、冬の名残を片付けに、、、

     泥まみれの一日の中に

         土のぬくもりを感じながら、

            今年も、庭が私のトレーニングジムでありますように

             土運びも、砂利運びも、堀っ返しの鉢の植え直しも

           見えない自然の空気のインストラクターが

     無理なく指導してくれる

夏に向かって、

        天然の筋トレ会場である
              
              小さな我が家の庭の

               清掃、地慣らし、修復の日課が、、毎日.

        

今年も、、、食料用のユリ根を庭で咲かせよう!

何かいいこと起こりそう!


冬の寒さを避けて部屋の中で、

君子欄が、、、

いま三つも、、、

咲いてくれました。

息子の運命の女性は

君子欄のような女性なのかしら?


冬を超えた感激を

共有して

愛しい花のメッセンジャーですよ。

君は今年中に、、、

幸せになれるよ!!!!


!!!、、、君子欄が咲いたから!