花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

日本女性の適齢期は?

2018-04-22 19:13:10 | Weblog

一昔前




「年齢の本」という大判の雑誌を座右の銘にしていたことがあった。

小学生から、、、大学卒業までの、

学校の試験や受験で、雇用されてゆく受け身の人生と

エジソンのように、

親子とも「俺流」の人生をゆくものが

年齢によって、、、

面白いコントラストの業績地図のような、

人生案内に近い本であった。

結構人気があって、

何人かの友人に貸したことがあった。

最終的に

次男が持って行ったきり、、、引っ越しが原因で

どこに埋没してしまったか?

いまだに探せないでいる。

女性が社会に進出しているようであって

女性社会でない、、、

絶妙に微妙な日本女性の居場所であるが、

マスコミにも、世間にも取り上げられない小さな部屋で

日本の文化を守り通しているお年寄りもいることは確かです。

小さな自然が大切な

島国の日本の女性は

海に囲まれている本土のように

それなりに浮かんで活きてきた。

鉄の芯を持った女性でも、

真綿でくるんで、

しなやかに、

「美は力」であるからして

立ち居振る舞いが美しくないと

社会の要職に長く鎮座するのはむつかしい時代が続いた。

今頃、、、こだわるのも

少子化の日本と

老人大国の日本の

行く末を心配する心も、、、あるのかもしれません。

ボブディランの「花はどこへ行ったああああ????」

大学時代の軽井沢の合宿の

早朝散歩で

ウクレレを持った津村さんが、毎朝奏でていたことを、、、思い出す。

女性が

ほとんどいなかった

総合大学の

理工学部のESS合宿は

卒業後、カナダやアメリカ、欧米で

電気や、土木や、建築の仕事を夢見る技師の卵の

夢実現に欠かせない語学習得のための

真剣なクラブ集団であった。

50数名の先輩、後輩、OBたちの合宿は

緊張の日々の中にも

旧軽井沢の別荘のあたりの雰囲気には

理工学部の学生達の夢と重なる瀟洒な建物が並んでいた、

インタナショナルな感覚で、朝の散歩を楽しめた。


建築科には女性が2人しかいなかった時代でした。

化学科にも、女性が2人しかいませんでした。

薬学にはクラスの半数弱が女性の学生でした。

私大の薬学科は、女性が、女としての家庭人と仕事が

両立できる条件がそろっていた。

おんなの人生を捨てないで、社会参加のできる科のようであった。

病院のスタッフや、

街の薬局に進出する臨床の

物知り健康相談員をしながら

子育ても可能な、、、

臨床面への進出を目指していた学生が

結構多かった。

昭和40年前後の

女性の社会進出の多くなり始めた時代であった。

一方、、、


女性の社会的な居場所と、

名誉も栄光も関係なく

ひっそりと日本の文化を守り続けている女性と

結婚年齢に、どのような違いがあるのか

こだわっていた時期がある。

私的にも、、、33歳ぐらいに結婚をして

家庭と仕事の両立を計画していた。

30歳になるまでの時間は

仕事のプロになるための「勤務」と決めていた。

父が大学時代に逝ってしまい、

開業中の外科内科の医療施設は

兄の内科医だけでは支えるのがむつかしかった。

タイムリーに、外科医の父の代わりに

開業を、手伝いながら、東京の医科大学の医局に移動して

帰郷を果たしたいという、、、

未亡人の母にしてみれば、

渡りに船のような、医師のほやほやのインターン修了者が

向こうから訪ねてきてくれた、

日本女性の,、、私にとっては

実家の家業の継続のためにも、

医師と結婚せざるを得ない風が吹いてきたのです。

女性本人の意思が多少でも入る余地があるうちに

家庭存続のための役割を押し付けられて、、、当たり前の時代だった。

おんなが24歳になると、、

、かくも、、

居こごちがわるくなるものであろうか??

内科医の兄は、、ひどい奴です。

生家の父の家なのに

私の追い出しと、医師と結婚することを

強要してきたのです。

開業を、内科一人で切り回すのは、、、苦しいというのです。

外科の居ない内科は成り立たないというのです。

外科医が、向こうから来てくれたのだから、

お前は「橋」になれ!というのです。

今回の縁談を断るのなら、

兄が、相手を探す!という強硬手段に出てきました。

穏やかなうちにと、、、

24歳の薬剤師は、これからの10年が大切なのに。。。

結婚している場合なのか???

苦しみました。

勤務していた病院を辞めて、

南紀で生まれた南国育ちで

小学校から、大学卒業まで東京で育った人脈も

友人も、親戚も置き去りにして、、、

寒い雪国の北海道は札幌、出張は留萌、余市、夕張、、、と

車移動の家具のいらない4年間の研修時代を

過ごすことになりました。

女性とは、、、これでよかったのか?????

主人と出会ってしまって、

結婚への道を選んだものの

父の早逝という条件下での

役割結婚による、、、やむを得ない結婚だった。

明治生まれの両親の中では

モダンなイデオロギーを持っていると

誇りに思っていたのに、、、

ことが窮すると

長男を第一に立てる風習は

女性自立の障害物に相当する思想だった。

頭の奪抜けた男っぽい快男児の弟が

高校生だっただけに、、、

「ここらへんで、、、我が家の為にも、、、嫁に出てゆくか、、、」

薬剤師の免許を持っているんだから、、、

付き合ったことはないけれど、

我慢ならない性格だったら

離婚すればいい、、、と。

団長の思いで、、、東京に別れを告げた。

主人になる医師が、

東京の都立高校を卒業しているという

唯一の信用できる、ボーダーラインの共有点が頼りでした。

私は、政治家の女性活動家の山口さんの母校でもある

都立小松川高校の卒業生でもありますから

女性が家に従属することを、良しとしなかった心が

高校時代の友人からも、影響を受けていました。

独身でもいいではないか!

女性の独身の、、、どこが悪い!

自分のできることを深く掘り下げて、

結果的に、社会に貢献できれば

お^ルドミスと言われようが、、、ちっとも、、、引け目は感じない。

高校の、化学の先生は。。。

独身の女性の先生で、50歳ぐらいでした。

素敵な根性の、尊敬できる先生でした。

私は、、、化学部にも咳を置きました。

日本の女性は、、、家庭存続のための

捨て駒ではありませんよ。。。

結果として、、、

子供を産み、育てる生活の厳しさを体験して

家庭婦人という

座のあるようで、、、座のない瞬間の勝負の連続に

闘争本能は、まっしぐらに

生活戦争、生き残り戦争の戦場で

勝ち残った優雅な、、、これが優雅というのか、、、というような

日本女性の鏡に出逢ったのでした。

社会進出は、、、分身に任せて、、、家庭を守り切った日本の母ちゃん!

すぐそばに、、、、すごい人がいたのでした。

年齢の本の話でしたね!

話をもとに戻します。



私たちの仲人をしてくださったカメラ会社の障子部門の社長さんは

東京大学を卒業されていた。

一斉風靡した「ハーフサイズ」のカメラをヒットさせて

有名になっていた。

その、、、奥様となられた方が

日本の内助の功を、お手本にしたような女性でいらっしゃった。

仲人をしてくださったのは

主人の父上様と同じ高校であり同級生であったことや、

主人の父の母様、、、つまりおばあちゃんたちも

子供のころからよく知っていたという

開業医と患者さん家族の時期もあったということを

奥様から聞きました。

東大主審ののご主事が、、

「ワイフにはかなわんですよ、、、!」

威厳のある静かな口調で、話されたとき、、、

日本の女性の強さって、、、なんなんだろう?、、、と

この、奥様からは、学ぶことが大いに違いないと思いました。

毎年、地元の名物をお届けして、

よもやま話をお伺いするように心がけていました。

ご主人が定年後は

東京の都心を離れられて

数種類の名門大学が移動していった山側に

終の棲家を新築されたと、、、お知らせをいただき

私は、ヒコーキに乗って、上京して、

高雄山のハイキングの帰り道

お寄りしました。

すっかり,、、お年を召され

お孫さんをお相手に、、、好々爺となられた、、、若き日の英雄も

奥様の前には、普通のおじさんのように

穏やかな自然体でした。

かって、、、若かりし頃は

部下のスタッフを大勢従えて、、コワイ上司だったかもしれない威厳は

丸く丸く孫に丸められて、
その笑顔は

私まで、つられて微笑んでしまうという、おじいちゃまになっておられました。

その後、また、お伺いしたときは

5人ほどいらっやったお嬢様が

皆さま、、、子だくさんで、

奥様は笑いながら、、、おっしゃいました。

「孫が23人になりましたのよ、、、、ホホホホホホホ、、、大変ですのよ、、」

勝手の社長さんのご主人も、

「女房には全く、、、かないませんよ!!!!!、、、勝てませんな~~~」

私も、敬服していましたら、

「末の息子も、結婚っしましてね、、、もうすぐ、、、内孫と登場ですわ、、、」

女房には、勝ち目がない、、、完敗のいっしょうですな~~~と笑った。

日本の女性は、、、強かった。

富国強兵政策の名残なのでしょうか、、、

戦争で、多くの男性は日本から消えた。

世界大戦の数年前ごろに

結婚されたと考えられるご夫婦の晩年を

私は、何度かお邪魔して、人生勉強になりました。

戦後の団塊の世代に、末の坊ちゃまがうまれていらっしゃる。

日本を戦争の廃墟から立ち上がらせたという陰の主役は

この、、、奥様のような

強い芯をもって「女の役割の道を、自然体で受容して生きる日本女性」だったのだと、、、

私は敬服したのでした。

薬剤師になってから、所属していた薬理の教授から、

東大の恩師の教室で、寿退職する薬剤師がいるので、

その研究所に行くようにと指示された。

3か月ほどたってから、

36~7歳になる寿退職するはずだった彼女は

破談になった。

「実験一本で生きてきた彼女は、、、退職を取り消した。」

私は、女の一生で、こうした状況は恐怖でもありました。」

女が腕一本で生きてゆくことは

男性の数倍の力があっても、、、むつかしいのが、、、日本の社会かもしれませんね。

子供を6人育てて

東大出身のご主人を「まいりました!」と言わしめた奥様の自然体こそ

女性が神様から与えられた天与の強さではないでしょうか?

近代日本の社会の中で

学歴や、研究歴のご立派な女性が多いご時世になった。

晩婚の女性も増えた。

代理妻に子供を委託出産するお金持ちの夫婦もマスコミに登場した。

しかし、日本の女性の強さは、

カメラの会社の商事部門の旦那さんをして、

「まいりました。」と言わしめた、、、あの奥様が

私的には「日本の女性は、男社会の上を行ってると認識させられた。」

果たして、、、彼女は

何歳で結婚したのだろうか、、、

その後、、、内孫は何人増えたのだろうか?

90になろうとするあの奥様を、、、

孫子がわっしょいわっしょいお世話をするという

子供や孫に
感謝を伝えて育児を完成させた強い日本女性は、

いつの日か、年齢を超えて、現れることを信じています。

年齢の本が教えてくれたことは。

年齢を区切って、受験生の時代の失敗を恐れないことだと思った。

天与の役割は、自然体の中で

黙々と、役割を果たしてゆけば、

国も、人も、未来につながってゆくと信じたい。

年齢の本をめくりながら、、、

本は、、、本であって、、、情報でしかない。