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この10日間あまり、北海道を離れて、静岡、東京、千葉、と、
携帯に地震速報をキャッチしながら、
精力的に、移動する人のサポートをさしてもらいました。
サポートといっても、
私ごとき荷できることは知れています。
大移動する子沢山の母子に
偶然乗り合わせた客になって
駅から駅まで、
子供が怪我をしないように
何気なく、寄り添っている同乗のおばさんという、
「目」になって、見守るだけの役です。
特別のことは、、、何も出来ません。
しかし、移動するということが、
当人にとって
いかに、ストレスの多いことか、、、、
想像をはるかに超えた、
孤独感と、喪失感が、行動を緩慢にしてしまい
母親は、子供に注意を払うエネルギーが少なくなってしまっています。
子供も、母親と同化しているがごとく、
無口で、行動が少なく、しょんぼりしています。
同じバスに乗って、隣の乗客になって
見守るだけの事でしたが、
今回の地震と津波の被害のもたらした心の傷は
長い目で、周りが見守ることが大切だと思いました。
かって、戦争で兄弟姉妹3人を失った私の母が、
子供たちの位牌を抱いて言ったことがありました。
「先に逝った子供たちが気がかりで、
何度、後を追う気持ちになったか知れません。
でも、、、生き残ったあなたたちが居るから、、、、
死ねなかった、、、。」
それから、20年がたった時でした。
「私は、死んだ子供たちをかわいそうだと
思わなくなりました、、、、。
生きて行くことの大変さを思ったとき、
あなたたちの頑張りを見てきた今は、、、
死んだ子は、決して不幸ではないと思えるようになったのよ。」
生き残り組みの兄弟4人で、
母が始めた「四つ葉会」という
小さなピアノの会をサポートした。
絵の得意な兄は
10号ほどの会の看板を「四つ葉のクローバー」で飾り
私は、コンサートの「花束を創った」
弟は、何かにつけ母を喜ばした。
軍医として奉公を終えた父も、
母のお弟子さんの使う
「バイエル」「ハノン」「チェルニー30.50」や
「ショパン」「ベートベン」「ハイドン」「バッハ」など
母が練習するときは、客になって拍手と花束を惜しまなかった。
「新しい生きがい」
「新しい喜び」
「新しい使命感」
そのような気持ちが母の中で育ってくれました。
戦後、「着の身着のまま」の疎開生活から
晩年は「故郷の東京に帰還できた父」は
55歳になる前に、最後の患者さんの診療を終えて、
眠るように、明け方亡くなった。
母には「ピアノが残った。」
晩年、自分でピアノ教室を運営して
自分の力で「ヤマハのグランドピアノ」を購入した。
お弟子さんの中からは
音楽大学への「合格者」も出始めた。
父も、母も、「関東大震災」「第二次世界大戦」の時代に
災難に遭いながらの一生を過ごした。
傷ついた心に負けなかったのは、
周りが暖かく見守ったことも大きいかもしれないが、
本人が、たくましく、次々と、生きがいに
チャレンジしたことだと思いました。
「国はやる気のある被災者には、『生きる舞台』を用意できた。」
「舞台」とは、やる気を受け止める周りの頑張りの事かも知れない。
日本人全体が、頑張り続ける気丈な「大和魂」が受け継がれていた。
やる気の出てきた立ち直り組みに、
しっかりと、生きる舞台を提供できる日本の団塊の世代こそ、
影の功労者だったと思うのです。
取り分けて、手伝いに参加できる力が無くても、
ぶれない一貫した生き様を、
「周りの人間全体で示して、生きる元気をあげれることです。」
人は、、、、一人では生きられない、、、
あなたが居て、君が居て、、、、
皆頑張って生きているから、、、、
元気が沸いてくる。
だから、帰りの飛行機から、被災地の原発を見下ろし、
謙虚に、科学の限界を認識し、
世界の力を借りて、頭脳を借りて、
地球の碧だけは壊さないで欲しいと祈っています。
国といっても、
時にはなりふりかまわず
地球の汚染を防ぐためには
見栄も、政治も捨てて、
収束させられる力にひれ伏す事が
解決策に近づくのではなかろうか?
かって、、、原子爆弾を落とされた日本に
原発は容赦なく迫ってくる。
、世界国家全体の、、、未来への啓示であると
世界の心と技術と実践が
一つになって、
「地球という母」を、、、
サポートして欲しいと思っています。
心が一つになって、
地球の未来を考える「天の啓示」と思えてくるのです。
携帯に地震速報をキャッチしながら、
精力的に、移動する人のサポートをさしてもらいました。
サポートといっても、
私ごとき荷できることは知れています。
大移動する子沢山の母子に
偶然乗り合わせた客になって
駅から駅まで、
子供が怪我をしないように
何気なく、寄り添っている同乗のおばさんという、
「目」になって、見守るだけの役です。
特別のことは、、、何も出来ません。
しかし、移動するということが、
当人にとって
いかに、ストレスの多いことか、、、、
想像をはるかに超えた、
孤独感と、喪失感が、行動を緩慢にしてしまい
母親は、子供に注意を払うエネルギーが少なくなってしまっています。
子供も、母親と同化しているがごとく、
無口で、行動が少なく、しょんぼりしています。
同じバスに乗って、隣の乗客になって
見守るだけの事でしたが、
今回の地震と津波の被害のもたらした心の傷は
長い目で、周りが見守ることが大切だと思いました。
かって、戦争で兄弟姉妹3人を失った私の母が、
子供たちの位牌を抱いて言ったことがありました。
「先に逝った子供たちが気がかりで、
何度、後を追う気持ちになったか知れません。
でも、、、生き残ったあなたたちが居るから、、、、
死ねなかった、、、。」
それから、20年がたった時でした。
「私は、死んだ子供たちをかわいそうだと
思わなくなりました、、、、。
生きて行くことの大変さを思ったとき、
あなたたちの頑張りを見てきた今は、、、
死んだ子は、決して不幸ではないと思えるようになったのよ。」
生き残り組みの兄弟4人で、
母が始めた「四つ葉会」という
小さなピアノの会をサポートした。
絵の得意な兄は
10号ほどの会の看板を「四つ葉のクローバー」で飾り
私は、コンサートの「花束を創った」
弟は、何かにつけ母を喜ばした。
軍医として奉公を終えた父も、
母のお弟子さんの使う
「バイエル」「ハノン」「チェルニー30.50」や
「ショパン」「ベートベン」「ハイドン」「バッハ」など
母が練習するときは、客になって拍手と花束を惜しまなかった。
「新しい生きがい」
「新しい喜び」
「新しい使命感」
そのような気持ちが母の中で育ってくれました。
戦後、「着の身着のまま」の疎開生活から
晩年は「故郷の東京に帰還できた父」は
55歳になる前に、最後の患者さんの診療を終えて、
眠るように、明け方亡くなった。
母には「ピアノが残った。」
晩年、自分でピアノ教室を運営して
自分の力で「ヤマハのグランドピアノ」を購入した。
お弟子さんの中からは
音楽大学への「合格者」も出始めた。
父も、母も、「関東大震災」「第二次世界大戦」の時代に
災難に遭いながらの一生を過ごした。
傷ついた心に負けなかったのは、
周りが暖かく見守ったことも大きいかもしれないが、
本人が、たくましく、次々と、生きがいに
チャレンジしたことだと思いました。
「国はやる気のある被災者には、『生きる舞台』を用意できた。」
「舞台」とは、やる気を受け止める周りの頑張りの事かも知れない。
日本人全体が、頑張り続ける気丈な「大和魂」が受け継がれていた。
やる気の出てきた立ち直り組みに、
しっかりと、生きる舞台を提供できる日本の団塊の世代こそ、
影の功労者だったと思うのです。
取り分けて、手伝いに参加できる力が無くても、
ぶれない一貫した生き様を、
「周りの人間全体で示して、生きる元気をあげれることです。」
人は、、、、一人では生きられない、、、
あなたが居て、君が居て、、、、
皆頑張って生きているから、、、、
元気が沸いてくる。
だから、帰りの飛行機から、被災地の原発を見下ろし、
謙虚に、科学の限界を認識し、
世界の力を借りて、頭脳を借りて、
地球の碧だけは壊さないで欲しいと祈っています。
国といっても、
時にはなりふりかまわず
地球の汚染を防ぐためには
見栄も、政治も捨てて、
収束させられる力にひれ伏す事が
解決策に近づくのではなかろうか?
かって、、、原子爆弾を落とされた日本に
原発は容赦なく迫ってくる。
、世界国家全体の、、、未来への啓示であると
世界の心と技術と実践が
一つになって、
「地球という母」を、、、
サポートして欲しいと思っています。
心が一つになって、
地球の未来を考える「天の啓示」と思えてくるのです。