介護の仕事をしていて、尤もと思えてしまうのが、入浴介助で、朝風呂や日中に入ることなどは、贅沢であり、もったいないこと。子どもの頃には考えたことはなかったが、内風呂では、夕餉を戴いてからが普通であった。むろん、女性や子どもは後になる。
父は、一番風呂が苦手で、あの肌をチクチク刺すような熱さが厭だったらしい。風呂場も、冬は寒いので、風邪を引くこともあった。当時は、五右衛門風呂で、追い焚きされると、釜が熱くてヒヤヒヤものだった。灯油やガス、電気に至ってはつい最近のこと。
沖縄の辺野古での埋め立てが、強行にされている。横暴さに言葉も無い。地球の自然を破壊して、自分達の正当性を、一体どんな理由で言い包めるのだろう。人間の命を守ることは、生き物の生存する地球を、大切にすることではないのか?矛盾している。
オリンピックへの誘致と引き換えに、福島を葬ろうとしているし、置き去りにしたままの見切り発車ばかりだ。きれいごとばかりを並べて、目晦ましをして、物事の本質から、遠ざけようと目論む。原発での核のゴミが出なければいいのだが、そうはいかないよ。
原発に頼らない資源の確保を、独り一人がしていき、消費量に合わせて、残った電力の買取をしてほしい。個人的にも、節約と倹約をしているのだ。その段階に応じての請求にしてほしいもの。嘘のからくりが見えてくると、信じることができなくなっていく。
認知症になる人口が増える経緯も、あらゆることへの簡素化と、働く意義が消えてしまったからだ。釦一つで作動する、電気製品が氾濫し、考えることをしなくなった。書籍を読む愉しみにさえ、本屋が忽然と消えていく。図書館か、注文でしか読めないのだ。
紙の感触が堪らないのに、電子書籍など醍醐味が失せる。何度も、繰り返して読めるから、書籍は面白い。知っているようで、勘違いしていることも多々。そういった発見も楽しいものである。江戸時代にまで還らなくてもいいが、不便さも必要なことがある。
リエさんたちと閉館時間までいたら、お城に灯が燈った。シンデレラは、ガラスの靴と、慣れない作法に、疲れてしまった。