コバルトブルーならずの、グレーだが、紺碧とも言える秋の空も、百舌鳥が鳴いたりすれば、一段と天が高く観える。夜空は澄み、星の瞬きにも煌きが加わる。星座の位置が分からなくとも、眺めて観ることは、命への賛歌にも繋がる。人間の小ささや、時間の行方にも感慨深い。宇宙は初冬。
星座を眺めつつ、神話に興味を持って、是非ギリシャ神話もお薦めしたい。大熊座、小熊座、ケフェウス座、カシオペア座、アンドロメダ座、ペルセウス座、ペガサス座と続く。その下には、獅子座が小獅子座も観える。秋から初冬にかけ、夏の大三角が天頂に上がり、天の川も滴り落ちそう。
そこから北に眼をやれば、カシオペア座のWがある。これを基準にして、北極星や北斗七星を探し、□のペガサス座迄辿れる。寒さも夜間には気づかぬ内に忍び寄るので、防寒具を着用され、観望してください。手洗い・嗽は無論の事ですが、庭先でも冷えてくるので、山では相当の寒さが有る。
火星も遠く小さくなったが、それでも観えているので、肉眼で充分確認できます。月も次第に大きくなって、柔らかな光を地上に降らせています。凍てつく宇宙も綺麗ですが、この時期の天体ショーも素敵です。小さな自分を想い、出来ることでいいよ、と云われているようで、肩の荷が下りる。
砂の器。加藤剛さんの弾く、宿命。丹波哲郎さんの犯人への思いと、罪を問う立場での、主人公への哀れみ。緒方拳さんの慈愛に満ちた眼差しや、父親と離されて、線路をひた走る心根、河原で一心に器を作る少年。作っても直ぐに壊れていくのを何度も何度も繰り返すひたむきさ。差別は終らず。
何度観ても心が痛む。でも、わたくしにも差別意識があるのだと知る。子どもの頃に、物乞いに遣って来る人がいて、母親も同じ事をしていた。らい病という者には、餓えて死んでもいいという了解があったようで、皆が見てみぬ振りをしていた。子ども心に何故かが分らず、こっそりあげた事も。
その結果、ご飯抜きにされ、家に入れてもらえなかった。そんな理不尽が横行していた。その時代には、根強く残っていた偏見と差別に他ならない。拘わりを持たないことが当たり前であり、伝染すると信じられ、立ち去るまで外には出ず、その後で消毒をしていたのを、はっきりと覚えている。
わたしたちも、人間です。ハンセン病・ライ病は、病気であって薬さえ飲めば治るのだ。その知識は高校生になって知った。奈良時代の知識のない時代、光明皇后は、千人行をしていたそうだ。最後に現れた物乞いは、らい患者で、皮膚は爛れ腐り、膿が身体中にあるのを、口で吸いだしたとか。
施行が終わってのことに、光り輝く物体の中から、観音菩薩が現れ、行いを讃えたとある。実際に、施行院は存在しており、建物の下に湯を注ぎ、薬草を敷いた板の上に寝転がっての治療だったそうだ。それに枇杷葉が用いられていたようだ。歴史は古く、中国から渡って来て、伝わり広まった。
庭の枇杷葉も、花の盛りになって来て、辺り一面、芳しい匂いに包まれている。今年は生り年と初生りが重なって、濃厚なまでの香りだ。温かいので、蛙が昼寝をしている。野鳥も本能で知っているので、花芽を啄む。烏は、枇杷が好きなだけ、利口な鳥である。枇杷葉には、血管を太くする力。
医者要らず。いえいえ、医者に罹りたくないから、枇杷葉を用い、そうすることに因って、医者に行かないのです。根気と持続と、諦めない気持ちを持ち続ける。と言うか時間もお金ももったいなくて、横着なだけですが、お陰なことに、騙されることも無ければ、大枚を叩くことにもなりません。
一家に一鉢の枇杷葉。庭を見回っていたら、いつの間に?と驚く。何と枇杷苗が出てきているのを見つけたのだ。自然での発芽はこれまでなかったので、まさかと見落としていた。この丈なら2年目か3年だろう。こちらが植えていくのより、自然発芽の方が馴染むのかもしれない。命は素晴しい。
一粒を植えたのが、育ってきて繁っていく。そういったことを毎年繰り返して、たくさんの苗が。