枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

霧きり舞い

2018年11月18日 | Weblog

 寒さも朝夕の時刻は、厚物が欲しい。加えて、朝には霧がまく。早朝の出勤時にはライト点灯で走行。河が道路の側を流れているので、自然現象なのだ。身体にはみっちり防寒設備をするものの、外気温の差に震える。枇杷葉は、花芽を次々に綻ばせ、辺り一面の香りをさせて、心がやさしくなる。

 言葉の不思議さというか、同じ言葉でも、各々のアクションや響きで、微妙に異なるのに驚く。人間のそれが個性だが、感情の加減でも、大きく違ってくるものだ。介護の職種は、人間との関係なので、更に困難な場面となってしまう。認知症という症状であるが、それらが尾を引くことにもなる。

 親が亡くなって、嘆き悲しまなくてもいいが、けろりとしているのも言葉を失う。母を見舞うことも出来ず、父の介護も看取りも出来なかったことが、ずっと心に掛かっているのを、せめてもの償いに墓掃除に出向くが、死んだら何も感じないからと言うが、果たして言い切れるのか?想いは消えない。

 わが母の記を観ていても、どんなに歳を重ねても、記憶の中から消えていくものではない。楽しいことばかりではなく、辛かったこと、悲しかったことの方が多いのに、とも思ってしまう。それでも親であり家族なのだ。その縁を、繋がりを切って捨てられはしないもの。息子に負ぶわれた母の笑顔。

 勤務先で、丁度テレビでやっていたのが、事故を起こし、心肺停止の運転手を、蘇生させて、無事に生還させた方々が表彰されていた。偶然の奇跡であるが、命を終える方もいれば、助かる命もあるのだ。気紛れな神さんの遣ることであり、生死の分かれ目等、何処に存在しているか定かでもないが幸運。

 わたくしも、枇杷葉での治療で、治せるならと渾身の想いで当たるが、これは本人の気持ちも加わるので、一方的にはできない。そうやってしていても、忠告を守らなかったり、勝手な解釈を続けていると、効き目どころか、治療法は消えてしまう。自分の身体の管理は、最低限心も含まれるのであるよ。

 癌細胞なるものは、皆身体に持っている。手術をするもよし。しないもいい。でも身体を切り刻んでしまうよりも、仲良くやっていく方が、生きていけれる気もする。病院に行って、医者の診断を信じて、手術をしたばかりに短くなってしまう。それよりも、身体の一部として、養生をしつつ生きたい。

 枇杷葉は、そういうような役割をし、無理をせず、のんびりぼちぼちという感じでいく。焦らないこと、そういうものだとして、自分を信じること。無茶もせず、暮らせることに感謝して日々を送る。お金があると死後が困る。争いの元になるから、葬式代だけ残して、寄付しておくのもいいかもねぇ。

 昨年の花芽。肥料も殆ど与えずなのに、見事に花を咲かせ、実を生らせてくれる。自然に感謝。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする