枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

弥生、穀雨・中潮

2020年04月19日 | Weblog
 二十四節気 穀雨 春の太陽が、強さを増すこの雨は、五穀の成長に、天の慈雨と言う意で、穀雨と呼ばれる。毎年、四月二十日頃である。季節は廻ると言うのも、なる程と納得する。この時期になると、雨が地を潤す日が増えて来る。自然の摂理とはこういうことなのだ。人間が幾ら遣ろうとしても、思う通りにはいかないことを思い知るもの。

 何がどうというのでもないが、大人の心情にも問題があるのだから、表現方法に乏しい子どもには尚更だろう。訴える言葉にも足らないものがあり、心身を病んでいるのは明らかだ。コロナだけの問題ではないのだが、現実での環境が自分で考えてのことではないから、対処しましょうといきなり言われても思いつかない。標準の基準が低すぎる。

 学校に行くのは何のためか?教科書で学ぶのは、何をどのようにだろうか?国のトップが決めることでも、良識者の判断でもない。史実が事実であることや、正しい歴史が綴られていることだろう。戦争はいけない。と言いつつも遣っている。地球の資源を取り尽くしていることや、それに伴う労働条件が、子ども等に依ってされていることも有。

 嘘ばっかり!これでは後世への伝えは歪められ、何が本当のことであるのかが隠される。戦争が齎した弊害が、アメリカ寄りの政治でもある。白洲次郎氏のように、日本は戦争に負けはしたが、アメリカに負けた訳ではない。ときっぱり言える人物が消えた。信念も何もなく、嘘で塗り固めて、自分の懐ばかりを豊かにする。これでは国は破綻。

 マスクを作ろうにも、材料が無くなると言う。それは、新しい布での作業で、古着を活用しても好い。洗濯さえしていれば、使い捨てにもなるだろう。何事にも、これでないと駄目ということはないのだ。創意工夫の観点での発想がほしい。それにしても、自分さえ良ければという心根の悪い者の多い事だろう。これではコロナは終息しないです。

 自宅で優雅にお茶を飲みながら、犬と濃厚接触をするような者には、庶民の生活の破綻等、どこ吹く風であろう。妻も呑気に旅に出たり、花見を満喫するようでは、この国の行く末は真っ暗である。馬鹿じゃないの!ふざけんな!と言いたくなる。私財を投じての救済が必要な時に、開いた口が塞がらぬ行動をし、政策を迷走させるとは言語道断。

 枇杷葉茶の味は、無いようであるのです。要は、淹れる水に因って変化します。或いは、薬缶でなく土瓶で沸かせば。

 
コメント
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