枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

判断の基準

2010年02月27日 | Weblog
 物事を判断する基準。というのはなんだろうか?仕事をする上に於いて、言われたままをすべきか、そうでないかは経験にもよろう。また感情の持ち方にもよるのではないか?とも思えるのだが、一体に判断の基準と言うのは、何処に置けばいいのだろう?例えて言えば、花の水遣り。で言うなら、雨が降っているのには、軒にあれば外に出すであろう。また、明日当たり雨が降る。ということであれば、外に出しておけばいい。

 けれども、何日もお天気続きだったり、他のことを優先したり、あまり好きでもないという自分の思いがあれば、知らぬ顔をしてはいないか。自分でやらなければならないこと。として時間をやりくりしていけば、可能なこともあるが、つい横着をしたり、忘れていたで済まそうとすれば、当然花は萎れてしまう。

 が。高々花である。物を言う訳ではない。枯れたら処分すればいい。そういった思いでいたらどうか?人間にはしないのだからいいではないか。と言えるのだろうか?それは、自分が健康でいられたり、元気な時には思いもよらない。自分を判断の基準にしてはいないか。相手にもよるが、困っている状況は、見れば分かるし、考えるより先に、傍に行ってあげるのがいいようにも思える。

 普段から、多々なる全ての物に、目を向ける訓練をしていれば、自ずと分かることではないのか?花だから、と言うのでもなく、人間だから、猫だから、犬だから。というのでもないのではないか。要は、自分の関心を持てる範囲がどこまであるか。ということにも繋がって往きはしないか。心の有り様な気がします。

 働かなければ、その代価は得られません。でも、そのために、自分の厭な仕事内容はしないようにして、誰かに押し付ければいいのでしょうか?自分にあったやり方で、表面上なことだけで任務の遂行をしていればいいの?どんな仕事にも、相手はいます。決して一人でするのではない。と思いますよ。それこそそういった相手の心を慮る配慮こそ、大切なことになるのではありませんか?

 人間でも、性格も違えば、状態も様々な人の集まりが、地球です。似たような人はいるかもしれませんが、同じ人は一人としていません。でも、あらゆる人と協力は必要です。偏見や先入観があるから、判断の基準が狂ってくるのではないかしら?私も苦手な人はいます。むしろ多い。と言った方がいいのかもしれません。親友と呼べる人は二人しかいません。それでいいと思っています。

 花に心が向けられる人は、黙っていても気がついたり、言わなくても察することができはしないでしょうか?おしゃべりも楽しい雰囲気を作るのなら、それはそれで構わないでしょう。そういう特技だってあるのです。自分の判断の基準がしっかりしている人は、咄嗟の行動が取れる人です。要は、自分という人間を、知っていなければ、できないことにもなります。知性、教養に加えて、冷静な判断も大切な基準でしょう。

 雨上がりの庭に出てみましたら、枇杷葉から花芽の匂いがしてきました。一時、佇んで深呼吸をしました。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 春雨・・・には程遠いが | トップ | 序奏とロンド・カプリ・チ・... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事