枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

春分の日・大潮

2015年03月21日 | Weblog

 何と、手に入れたい児童書が、早くも絶版とは。365日のおはなしだが、全国の図書館にあれば、それでいいものなのか。等とぶつくさ言い以って起き、新聞を見てびっくりした。今江祥智さんの訃報に、絶句する。大阪の三羽烏が居なくなった。

 上野瞭さん、灰谷健次郎さん、今江祥智さんが、大阪の三羽烏であった頃は、ひげよさらばが放送されていたし、灰谷さんも淡路島でご活躍だった。今江祥智さんとは、個人的にはお付き合いはないが、某児童書の購読関連での出遭いだった。

 人間の命には限りがあることを、衝撃的に思ってしまう。灰谷健次郎さんの死去も、突然のことだったし、今でもその実感が無い。尤も、親しい付き合いではなく、作品を通じて偶然からお眼にかかった次第だ。灰谷さんには泣けて仕方なかった。

 それでも、命が消えていくという過程には、何等かの標がある。わかることがあるのだ・・・。そういったのを特殊能力、と言うのかもしれない。例えて云えば、特別な想いがあったり、作品に深い感銘を持ったりしていれば、何かで感じ取れるのだ。

 然し、命を延ばしたり、歴史を代えたりはしてはならない。宇宙の摂理に悖った、取り決めを壊すことは赦されない。或いは、自分で悟る場合もあり、可と言って無闇には教えられない。悲嘆の門を読破する。重い空気に染まったものの、疑問解消。

 三連休の真中で、天気も佳い。布団を干し、駐車場の草を抜き、枯れた枝を切る。新芽が出ているので、そのままでは見苦しい。海棠の枝を伐ったら、今年は花が少ない。可憐な蕾が風に揺れる。アネモネと水仙も咲きだす。椿は未だ硬い蕾。

 きらん草の小さな苗が、あちこちに落ちて芽を出している。母が、繁らせてくれいるようだ。母の生前には、苗を植えたがつかなかった。明日は、息子等と墓参りに行く。天気も先ずまずらしいので行って来よう。鶯が、暖かさに頭上で啼いている。

 坂田靖子の不思議な世界に、カーニバルがある。目の前を行く行列を見ながら、心は異次元に翔ぶ。

 

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如月、朔・大潮、某キリ番。

2015年03月20日 | Weblog

 昨夜、某サイトの常連であり、児童文学作家のファンという裏の家業を覗く。既に10人を切っているので、恐々である。3度目にPCを立ち上げたら、キリ番を踏む。ひゃっほう!やったぜ。証拠の写真を携帯で撮り、アドレスに送るが、中々上手くいかない。

 明けて今朝は、友人とムーミン展に出かける。会場は、初日ということもあって空いている。時間をかけて見て回る。その後、青い鳥文庫を見つけ、孫等の土産と供に買う。後書きを書かれているので、本屋で探したがなかった故だ。何年前か若いですね。

 その後、デパートに寄り、北海道展をぶらつき帰宅。食事は美味しくよかったが、お茶が飲めず閉口した。いえいえ、朝ばたばたして忘れて行ったのだ。職場の研修が中止の連絡があった。帰宅して珈琲を淹れる。水の味が違うね。至福の一時に感謝。

 新聞のインタビューに、藤野涼子が載っていた。ソロモンの偽証、友人に言って観に行こう。原作の持ち味がどこまで出ているのだろうか。彼女の場合、藤野涼子そのもの。脇役が気になるところだ。悲嘆の門も、終焉に近づいた。やっぱり長編は面白い。

 宮部みゆきは、今一番売れているんだろう。ジャンルも幅広いし、内容も時代に合っているのも興味深い。個人的には、ゲーム感覚は付いていけない。時代物も現代物も、話の筋がわかりやすく、くどくない。やたらと媚ないし、読み易いのも魅力だろう。

 まあ、出版社は出す以上は売れてほしいだろうが、その殆んどが重版は予定しない。部数も数年前から言うと、極端に減った。折角、製本しても売れなければ返品だ。在庫ばかりが増えて倉庫は傾く。でも返本はどう処分をするんだろうか?自然発火。

 庭の枇杷葉も、新芽が覗いている。長崎茂木は十年以上経って、生りが悪くなってきたように思う。白枇杷が盛りだ。今年は収穫が愉しみ。東側の茂木は、やっと生り始めた。寒さが苦手なので、こっちは空っ風が吹き付ける。日々の変化に眼が緩む。

 冬の桜というが、暖かさに春を思ってのこと。それにしても蔦が絡み付いて、健気な桜に愛車を停めた。

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物語を紡ぐ・・・

2015年03月19日 | Weblog

 悲嘆の門。下巻に入る。物語の伏線や、枝葉を想像する。これも亦、物語となるのか?指輪物語よりも尚、ナルニア国物語に惹かれるのは、自分の思い込みも多いはず。秘密の花園を中断しているのも、返却期間があるためだが。面白い。

 それにしても、と想う。かの場面を、知っているのは何故だろう?それも、物語があるためか。心の中に存在する、異次元という世界を創り出す。人を殺めることではなくても、殺意を抱くことも、新たな物語を紡いでいくのか。視えることは同じ。

 人間の業とも性とも言うが、何を以ってだろう。生身の体は、個々にあり、肉体を離れた魂は一つなのか。この宇宙の何処に、命を司る神が存在するのだろうか。あの混沌としたものは、闇の中にいるのか。見えているのに視えないものかも。

 人間は、その領域には踏み込めない。魂を抜かれれば、肉体は朽ちる。自然の摂理には抗えない。テレビのタレントのゴシップ。本人が主演しての莫迦騒ぎ。幾らギャラを貰うのかは知らないが哀れだ。つまらないことをネタにするのもうんざり。

 明日は、ムーミン展を友人と見に行く。暖かくなりそうなので、油断しないように行こう。本屋に寄る楽しみが、最近はすっかり減った。図書館に行っても、目的の書籍がないこともある。その殆んどは予約式で、順番を待っての貸し出しになる。

 本好きには、電子本は不必要。あの活字を眼で追う愉しみは、理解できまい。行間に漂う景色や感情。触れた様々な人の想い。なぞって行くほどに、深みが増し、底の厚さも増す。織りの彩は鮮やかさで、例えようもなく美しい。気づかない。

 宮部みゆき作品の断トツは、龍は眠らない。尤も、三島屋百語りも、江戸時代の設定では興味深い。むろん、そういった物語は其処此処にあり、誰にでも語れる。不思議な、不可解な話は、何時も傍にあったもの。見えるか視えないかだろう。

 種を植えて3ヶ月後。まあ、忘れた頃に芽を出す。北に植えたのは一向に育たない。移植したら大きくなる。

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彼岸の入り、曇りのち雨

2015年03月18日 | Weblog

 昨日の暖かさが、続いてはいるが、天気は下り坂だ。午後2時を過ぎた頃から、雲行きが怪しくなり、音もなく雨粒が・・・。雨が降り出す前から頭痛がしていたが、歯痛からも刺激する。歯医者に行くと、空きがあるとかで、業務終了後に受診予約。

 外に出れば豪雨。傘にあたる音が凄まじい。受診札を手に、流されないように行く。質札を持っていなかったのがよかったかも。然し、何時聴いてもあの機械音は厭だ。猫目石を削るのとは違う。それも無抵抗に大口を開けてだから、恐怖も一入。

 鮫は、自然に歯が生え変わるそうだ。脆くなったら、抜けていくらしい。人間にも、乳歯から永久歯への変りが、数回あってほしいものだ。等と御託を並べていた。こういう不心得者が居るから、歯医者も儲かるのかもしれない。痛み出して駆け込む。

 帰宅して、お灸を据える。明日は、入浴介助があるので、肩が痛くてはできない。見守りだけでは、業務は滞る。充てられた仕事は、遣らねばならないが、背中に眼がない分、灸ができないのが困る。どうしても左半身が痺れる。腎臓も同じ場所。

 寒いのが堪えるし、苦手でもある。夏の冷房には、あちこち逃げ回る。年中腹巻を離せない。流石に懐炉はしないが・・・。悲嘆の門・上巻。昨夜の内に読みたかったが、今朝早出だったので止めた。作中の人物ではあるが、腰痛には枇杷葉だよ。

 蒟蒻の力も莫迦にしてはいけない。枇杷葉の生葉と、温めた蒟蒻を用いれば、どんなに酷い痛みも治る。実際に歩けなくなったらする、とは友人の弁。いやいや、その時には手遅れだよ。今の内なら治るのを、どうしてしないのかは疑問ですな。

 枇杷葉と蒟蒻の力を借り、自分の体を慈しめば、治りも早いし歩けるものを。痛い思いを散々にして、その結果手術など、金輪際厭だ。金も掛かるが、入院して金具を体に入れるなど卒倒するわよ。年を重ねると痛みが倍以上になって還る。

 昨年、上京した折に、新幹線の車窓から見えた富士山。ニュース速報で、初冠雪と知り、更に感動した。

 

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鶯の鳴き方に・・・

2015年03月17日 | Weblog

 外で片付をしていたら、ホーホケキョの声が聴こえた。少し上手くなってきた鳴き方に、何ということもなく心が弾む。昨日に続いての上天気。然も、上着の要らない陽気さだ。未がいたら一緒に眠りそうな気温である。散らし寿しを作る用意にかかる。

 昨夜、友人に連絡を入れ、誘いをかけてみたら、買い物の序でがあるので、行ってもよいとの二つ返事。それならば、散らし寿しを作ろうと思い立つ。材料が豊富なのではないが、定番で我慢するとのこと。沢庵と蒲鉾、金糸卵だけ。あっ、冷凍海老。

 その上に海苔を刻んで乗せる。即席もいいところの手抜きだが、友人は美味しいと口にしている。珈琲は、豆を挽いて淹れ、枇杷談義に花を咲かせる。それにしても、手元に持っているであろう『ビワの葉自然療法』を読まないのか?時々、読むべし。

 枇杷葉の隠れた働きが、不妊治療に効くかもしれない。先ずは、体内の毒素を出しておいてからだが、不思議なことがある。理論的にも医学的にも証明できるものではなく、漠然とした第六感だけです。新興宗教で、誑かしているのでもありません。

 友人も同じことを言う。専門的な知識がある訳でもないから、半信半疑であったらしい。むろん資格も無いのでは、信憑性も薄い。でも、解かる感覚があり視える。金銭的な物を、何一つ貰うのではないから、信じてくれなくても一向に平気であるのだ。

 何にしろ、枇杷葉の効力の多さに、携わればするほど、知らないことが増えていくのに、びっくりしてしまうのだ。まあ、偶然からのことだが、新発見がある。然し、そういった効力を知っていたのは、古来からの伝承で、だからこそ今があるのが正しい。

 N社の高価な化粧品には、枇杷葉エキスが使われている。そういったことを知らないで、自分で使っていて、その効果に驚く。平たく言えば、界面活性剤が厭さに、自分で作ろうとしただけ。偶然の発見で、紙魚はむろん雀斑も消えた。驚愕の事実だ。

 昨夏、駐車場の空きに、植えてみた芋ずるだが、芋は入っていなかった。楽しての収穫は実がない。

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日向ぼっこ・・・

2015年03月16日 | Weblog

 麗らかな天気。風もなく、陽射しは暖かいのも有難い。昨夜の読書が祟って、目覚ましを何度も止め、起きたのは午前10時を過ぎていた。外を見ると上天気で、布団を干し洗濯機を回す。珈琲も豆から挽いて淹れる。同じようだが香りが佳い。

 杜の都のタイトルだけに、思わず借りたが、ちょっとばかり展開がじれったい。浅見光彦も登場しない。う~ん、何か切れが悪い読後感。図書館が休みなので、明日の返却だ。予約を入れていた宮部みゆきの新刊が読める。英雄の書の続刊だ。

 暖かいので、縁側での読書にする。布団を仕舞ってから庭を見ると、色や種類の違うクリスマスローズが、鉢の中で咲いており、その佇まいが好ましい。今年、初めて蕾をつけたのも、何年も咲いているのもあり、思わず見惚れてしまう。眩しい。

 午後2時過ぎの、布団を仕舞った頃から、曇りがちになったが、洗濯物は乾いていた。奈良東大寺二月堂お水取りが済むと、心持暖かくなり、彼岸を待つ思いになる。自然との約束事には、どんなに化学や文明が進んでも、季節は動かし難い。

 そういったことを踏まえての、自然エネルギーを再考してほしい。原発の危険性を隠してまで再稼動するよりも、より効果的なことは言うまでもないのに。利益や利潤が低いというだけで、核のゴミには触れていない。時間と供に風化させていく。

 第五福竜丸のことも。チェルノブイリのこともまた、福島の第一原発も然り。決して忘れてはならないこと。現在進行形の沖縄の辺野古問題。解決しなければならないことが山積み。国民の無関心さを逆手に取っての横暴さに、呆れてしまった。

 夕刻になると冷え込みだす。午後2時を回ると、夜露は降り始めるので、布団は干していても、湿気を誘うばかりで意味がない。冬の最中を思えば、何とも有難い陽射しだ。枇杷葉の小さな苗を、2本ばかり移植する。実が生るのは8年後だが。

 ふなっしー。抱き枕を、前回買わなかったので、どこかにあると探していて、リエさんが見つけてくれた。うれしなっしー!

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予定は未定だが・・・

2015年03月15日 | Weblog

 介護の仕事を、後数年は続けてみよう。と決める。学びたいことも多いし、このままでは中途半端で、辞められない。介護通信を読んでいたら、リエさんの居る県での開催が載っていた。行くのは自費らしいが、勉強にもなる筈だ。

 尤も、介護と言う職種にしたことには、少しばかり抵抗がある。昔には、それらの看取りは、大なり小なり、嫁の両肩に掛かって、重圧に耐えていたことは云うまでもない。大正の時代、昭和の初めでは、価値観も異なってくるのだ。

 然し亦、慣れも恐ろしい。日中に風呂は嫌だ、と言っていた人も。排泄の介助にも抵抗していた人も。接する態度如何で、向き合ってもくれる。そうならない人もおいでだが、本来はそれが当たり前のこと。自分を貫くことは難しい。

 止む無く、止むを得ず、渋々といった譲歩にも、拒絶反応が見て取れる。でも、それが人間であり、個性でもある。決して、皆が同じというのも哀しい。時間で動き、統一されなければ、生活できないのでは、余りにも淋しいのでは。

 人間は、独りでは生きられない。と言うが、産まれて来る時には、潮の満ちに押されて、この世に生を受ける。また死する時も同じだ。集団でないと何もできないのではなく、自分を失わず、趣味や学べることに生甲斐を見出したい。

 その場所が、家であっても、施設であってもいい。とは思う。一律に何処かで、集まっての時間潰しは厭なだけだ。個々に違った、生活があり、一日の過し方が異なっていてもいい。と考えるのは間違いだろうか?誰も彼もは厭である。

 自宅から、図書館に行って読書をしたり、借りて帰ったりする。庭で、無農薬の珈琲を飲みながら、自然からのエネルギーを浴びるのも。土を弄り、花を愛でるのもいい。風を感じ、星を見上げ、月に祈る。宇宙の摂理を、体中に纏って。

 ガラスの城に花火が上がる。シンデレラは、ガラスの靴を忘れて帰るが、午前零時には数時間あった。

 

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春は遠く、下弦・小潮

2015年03月14日 | Weblog

 午前中、ややもすると天気が崩れ、気温も低い。着込んではいるが寒いので、ストーブを点ける。布団は干すのを見送り、洗濯物を出すだけにする。後鳥羽伝説を、昨夜の内に読みきったので、高千穂伝説に入る。何れも、歴史の詳しさに引き込まれる。

 浅見光彦が主役のテレビは、その殆んどが再放送でだが、沢村一樹主演の箸墓伝説を観た限りだ。以前、天河伝説では誰であったか?その時には、薪能という、日本の伝統芸能に釘付けになったから、他のことには疎い。図書館で調べるよりよく解る。

 尤も、それらは膨大な資料であり、そこからポイントを要約するには、大変な作業が伴うことだろう。事は殺人事件だから、厭が応にも怖さが伴う。然し、事件の背景を探求して行く過程が、妙に心を捉まえて、謎解きに感心する。生きるとはそういうことか。

 学生の頃は、単に歴史の年表を覚え、試験に備えるだけで、詳しいことには関心が薄かった。然し、物語には必ず、何等かの時代背景がある。未来と言えども、存在するのだ。決して、いい加減な想定では読者の満足は得られない。でも美女が必要?

 テレビでも映画でも、何度観ても心が揺さぶられるのは、松本清張作品だ。主役になった人によっては、原作との比較が著しい。砂の器では、主人公が川原で、砂で作る物は、波に流されてしまうが、何度も何度も繰り返す。ハンセン病を知ったのも作中。

 物語の意外性にも惹かれるが、じっくりと読める内容も好い。作家の力量にも因ろうが、読者の真髄に、いつの間にか入り込む物が佳い。同じ作家の書く物にも、妙に嫌悪する作品もありで、その手の類には手が引っ込む。まあ、あまり範囲を広げないこと。

 最近の児童物には、短編が多く、いささかげんなりする。書き手は大人なんだから、もっとじっくり書いて欲しいものだ。出版社の意向が、単に売れるだけの物だけで、採算が合わなければ、出版できない状況かもしれない。それにしては読み応えのない。

 満月に、闇に潜む諸々の生き物たちが、姿を現してきそうだ。時刻も、未だ遅くて、草木も眠る丑三つ刻。

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嘘つき、騙まし討ち

2015年03月13日 | Weblog

 介護の仕事をしていて、尤もと思えてしまうのが、入浴介助で、朝風呂や日中に入ることなどは、贅沢であり、もったいないこと。子どもの頃には考えたことはなかったが、内風呂では、夕餉を戴いてからが普通であった。むろん、女性や子どもは後になる。

 父は、一番風呂が苦手で、あの肌をチクチク刺すような熱さが厭だったらしい。風呂場も、冬は寒いので、風邪を引くこともあった。当時は、五右衛門風呂で、追い焚きされると、釜が熱くてヒヤヒヤものだった。灯油やガス、電気に至ってはつい最近のこと。

 沖縄の辺野古での埋め立てが、強行にされている。横暴さに言葉も無い。地球の自然を破壊して、自分達の正当性を、一体どんな理由で言い包めるのだろう。人間の命を守ることは、生き物の生存する地球を、大切にすることではないのか?矛盾している。

 オリンピックへの誘致と引き換えに、福島を葬ろうとしているし、置き去りにしたままの見切り発車ばかりだ。きれいごとばかりを並べて、目晦ましをして、物事の本質から、遠ざけようと目論む。原発での核のゴミが出なければいいのだが、そうはいかないよ。

 原発に頼らない資源の確保を、独り一人がしていき、消費量に合わせて、残った電力の買取をしてほしい。個人的にも、節約と倹約をしているのだ。その段階に応じての請求にしてほしいもの。嘘のからくりが見えてくると、信じることができなくなっていく。

 認知症になる人口が増える経緯も、あらゆることへの簡素化と、働く意義が消えてしまったからだ。釦一つで作動する、電気製品が氾濫し、考えることをしなくなった。書籍を読む愉しみにさえ、本屋が忽然と消えていく。図書館か、注文でしか読めないのだ。

 紙の感触が堪らないのに、電子書籍など醍醐味が失せる。何度も、繰り返して読めるから、書籍は面白い。知っているようで、勘違いしていることも多々。そういった発見も楽しいものである。江戸時代にまで還らなくてもいいが、不便さも必要なことがある。

 リエさんたちと閉館時間までいたら、お城に灯が燈った。シンデレラは、ガラスの靴と、慣れない作法に、疲れてしまった。

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東大寺二月堂・お水取り、小潮

2015年03月12日 | Weblog

 昨日とは打って変わっての、穏やかな天気。両極端な天気と気温に、体がついていかない。寒くてはと着込んで、汗をかいたり、暖房を切ったりで、切り替えに手間取る。年齢を重ねるということは、こう言うことかと母を思い出す。

 あちこちと支障が出る体に、燃料を入れて、動いているのは、決して楽なことではない。世の中や、過去を変えることはできないが、自分と未来は変えられるとやってきた。然し、明るい未来は遠く、幾ら自分を励ましても精がない。

 神仏に祈るにも、お布施次第。ご利益を期待してはいない分、信心も薄い。神とは、宇宙であり、森羅万象の絶対的なものである。死ねば、生まれる前に還る。新しい命は、月の采配によって誕生する。自然への畏怖にこそ祈ろう。

 旧暦での暮らしには、童謡に唄われている景色がある。明治時代になっても、季節の移ろいは、江戸時代までの生活と、何等変化はなかったであろう。衣装も、着物から洋服になりはしたものの、裕福な家と都会だけの気がする。

 戦後の日本は、便利で豊かな、明るい暮らしを望んできたが、そこに隠れていた物には気づかなかった。原発の上辺に騙されて、あちこちに設置してしまった。希望も未来も、一瞬にして砕き、奈落の底に突き落とされるとは・・・

 黄昏時の宇宙に、燦然と輝く金星。-4.0等星の素晴しい輝きに、高度が上がってきており、星の瞬く前なので、人目でわかる。双眼鏡や、望遠鏡があれば火星も観える。東南には木星とその衛星の、相互食も観られる。愉しみだよ。

 庭の蓬が大きくなってきた。湯がいて潰して、白玉粉と混ぜよう。素朴な味が美味しいのもうれしい。お灸は痕が残るし熱いので、食べて養生にする。春の陽射しに、軟らかく育っている。春を待つ頃の、わくわくしたときめきがうれしい。

 リエさんが、場所を確保してくれたパレードは、最高の席。しーちゃんも、回る順番を取ってくれた素晴しい一日。

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