枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

東京タワー

2018年11月20日 | Weblog

 ブラタモリで放送したのは、スカイツリーになる前で、これまでの大役を労っていた覚えがある。修学旅行には行かなかったが、一度だけ昇った。高さでは競えるはずもないが、眺めの素晴らしさに驚いた。サンシャインでは焦りまくり、スカイツリーときては足が震えた。何だってこれ程に高く?

 ふなっしーが欲しくて、行っては来たが、眼も眩む高さにまでしなくともいいのに。と恐怖感から言う。あれで、ゴジラが来てみろ!羽もないから飛ぶか、一撃で即死だろう。と空想してしまった。高所恐怖症に加えて、閉所も嫌いだ。墨田川も川下りが、ガラスで囲まれていて、酷くがっかりだ。

 リリーフランキー 東京タワーを読み終える。人間の価値には、正しいとか間違っているとか、良いや悪いでもない生き方もあるんだ。お母さん亡くなったんだ・・・父親の存在もまた、この時代にはこんなものかも。いい加減なようでも、食べて行ければいいという生き方に、ちょっとびっくりはした。

 昭和でさえ遠くなっているのだ。江戸時代など問題外だろうが、情緒も何もあったものではない。観光船の目的は、芸者でもなければ、飲めや唄えやでもない。歴史を紐解く拘りもあっていいのだ。上京して、何時も思うのが、金だけ取って、本題から外れたことを見せている。失望のどん底である。

 赤穂浪士が、吉良邸での討ち入りを果たし、回向院から泉岳寺まで歩いたのを、実行したい。宮部みゆきさんの文庫にあるが、相当の距離らしい。旧暦であるので、雪は降り頻っており、沿道の人々の感無量な顔には、拘わりになりたくない思いと、浪士を忠実な臣下と讃える者とであったようだ。

 当時の者にとっては、主君の仇討ちはご法度ながら、無念の想いを抱えるよりは正しかったのかも。武士の世界は甚だ分らないし、現代とは思考さえ異なっている。法律に兎角頼るこの世にも、無慈悲な判断が多くある。司法の裁きにも、機械が行う訳ではない。人情と云うべきか、心がありたい。

 庭に出て蒲団を干していると、噎せ返る程の香りに包まれる。枝の剪定を思いつき数本を伐るが、迂闊にもこれから咲くのも落とす。仕方がないから、花瓶に挿して台所に飾る。花芽は多少は大きくなったが、未だこれから咲く。天気であったり、雲が多いのだが風もなく暖かい。空っ風が吹くか。

 そろそろ我が家に慣れてきて、餌も食べるし、飼い主も判別するが、ちっぽけなすばるです。

 

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一茶忌

2018年11月19日 | Weblog

 小林一茶は、小さい命や、貧乏暮らしを俳句に詠んだ。昔の貧乏の基準がはっきりしないが、ひもじい思いの日々であったものか。東北地方には、農作物は乏しく、年貢を納めることも出来なかったようだ。稗や粟を啜り、草の根迄齧っていた時代である。栄養失調での死亡も数多く。

 してみると、今の世の食べ物の贅沢さに、物が溢れて廃棄することに呆然とする。衛生上とか、賞味期限での判断だが、たくさん作るから余る。そんな無駄でなく、無くなったら売り切れで好い。個人的には、コンビニに行くのは支払いと、カップのアイスを買う時だけで済ませる。

 近くにコンビニは出来たが、未だ行った事がない。出掛ければ用事も一度に済ませたいので、ちょっと遠くにしている。便利なのか、不便なのかが分らない。図書館に行けば書籍は読めるが、持っていたいにもある。砂の器を買った筈、と探して見つける。松本清張の作品は凄いなぁ。

 枇杷葉の花芽も、3分がた咲き、その芳香をまき散らしている。枯れた葉を落とそうと揺すると、白い花弁も舞う。咲き始め、満開に咲き終わり、未だ苞のままのもたくさんある。今年は、花芽茶が籠一杯採れそうで愉しみ。Aさんちのは、早く剪定し過ぎて萎びている。自然に任せて。

 天気がはっきりしなくて寒い。雨がぱらつく時雨だが、気温も一向に上がらない。午前中の勤務を終えて帰宅し、洗濯物を回して干す。乾かないのを承知だが、明日は休みなのでいいかな。暖房の噴き出し口を上にしているのは、すばるが暑くいと嫌うのだ。尤も、室温は20℃にしてる。

 ドアの場所が一番風が掛る。そこに洗濯物を干していると、直ぐに乾くのもあり難いが、油断すると顔に被さるのが困る。冬場の洗濯物は、風で乾くのだが、そういう時に限ってそよとも吹かない。ストーブの上だと、火事になる危険もあるので、暖房の方が安全かな。省エネでもある。

 子どもの頃に比べて、肌着も改善されて温かいし、気温も底冷えがするというのは少ない。この頃には、雪花の散ることもあって、綿入れが恋しかった。祖母の縫ってくれる袖なしは、蚕の残りを入れた真綿を足してくれる。肩と腰に当たる部分に、ちょっと多めに入れるので温かい。

 布は、雨の降る日に織った物で、今思えば贅沢な物であった。その頃には、買ってくれた物の方が綺麗だったり、暖かそうに見えてしまう。さてさて、羊を飼って糸を紡ぐかな。元手と場所と、根気も必要なことは確か。お金さえ出せば何でも手に入る生活が、定着して当たり前になる。

 庭に立つと、何処からともなく漂う匂いに、心が満たされてしまう。この季節は心待たれて。

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霧きり舞い

2018年11月18日 | Weblog

 寒さも朝夕の時刻は、厚物が欲しい。加えて、朝には霧がまく。早朝の出勤時にはライト点灯で走行。河が道路の側を流れているので、自然現象なのだ。身体にはみっちり防寒設備をするものの、外気温の差に震える。枇杷葉は、花芽を次々に綻ばせ、辺り一面の香りをさせて、心がやさしくなる。

 言葉の不思議さというか、同じ言葉でも、各々のアクションや響きで、微妙に異なるのに驚く。人間のそれが個性だが、感情の加減でも、大きく違ってくるものだ。介護の職種は、人間との関係なので、更に困難な場面となってしまう。認知症という症状であるが、それらが尾を引くことにもなる。

 親が亡くなって、嘆き悲しまなくてもいいが、けろりとしているのも言葉を失う。母を見舞うことも出来ず、父の介護も看取りも出来なかったことが、ずっと心に掛かっているのを、せめてもの償いに墓掃除に出向くが、死んだら何も感じないからと言うが、果たして言い切れるのか?想いは消えない。

 わが母の記を観ていても、どんなに歳を重ねても、記憶の中から消えていくものではない。楽しいことばかりではなく、辛かったこと、悲しかったことの方が多いのに、とも思ってしまう。それでも親であり家族なのだ。その縁を、繋がりを切って捨てられはしないもの。息子に負ぶわれた母の笑顔。

 勤務先で、丁度テレビでやっていたのが、事故を起こし、心肺停止の運転手を、蘇生させて、無事に生還させた方々が表彰されていた。偶然の奇跡であるが、命を終える方もいれば、助かる命もあるのだ。気紛れな神さんの遣ることであり、生死の分かれ目等、何処に存在しているか定かでもないが幸運。

 わたくしも、枇杷葉での治療で、治せるならと渾身の想いで当たるが、これは本人の気持ちも加わるので、一方的にはできない。そうやってしていても、忠告を守らなかったり、勝手な解釈を続けていると、効き目どころか、治療法は消えてしまう。自分の身体の管理は、最低限心も含まれるのであるよ。

 癌細胞なるものは、皆身体に持っている。手術をするもよし。しないもいい。でも身体を切り刻んでしまうよりも、仲良くやっていく方が、生きていけれる気もする。病院に行って、医者の診断を信じて、手術をしたばかりに短くなってしまう。それよりも、身体の一部として、養生をしつつ生きたい。

 枇杷葉は、そういうような役割をし、無理をせず、のんびりぼちぼちという感じでいく。焦らないこと、そういうものだとして、自分を信じること。無茶もせず、暮らせることに感謝して日々を送る。お金があると死後が困る。争いの元になるから、葬式代だけ残して、寄付しておくのもいいかもねぇ。

 昨年の花芽。肥料も殆ど与えずなのに、見事に花を咲かせ、実を生らせてくれる。自然に感謝。

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不法投棄・・・

2018年11月17日 | Weblog

 三重県の、手入れの出来ない山に、業者が買い取っての不法投棄が発覚した。これは三重県にあらずで、何処でも遣っていることだが、丁度神無月で明るみになったことが可笑しい。三重県と云えば、お伊勢さまで有名でもあり、穢れを殊更に嫌う場所でもある。其処に堂々と捨てるとはいい度胸。

 物事の基本からしてが違う。価値観が異なると言えば聞こえはいいが、昨今にはまやかしが罷り通るので、神さんも逃げ腰なのだろう。消費税を上げる云々より、生活の保障をきちんとし、働ける場所を作れる環境も大切な気がする。賃金をケチりながら、政治家は判らんだろうと、秘書のせいに。

 市川房江さんをお手本に!真実、国民を思えば、こんな馬鹿らしい答弁はしない。国会で衣装比べや、化粧品のCMを遣る必要はない。自分の生活よりも、庶民のことを考えて物を言い、行動をされたいものだ。女性の鏡となれるように、精進してもらいたいが、きっと理解不能のお頭なんだろう。

 先日、郵便局に出向いたが、支払いをしているのに、年賀状は如何かと言われる。メールなので書きません。と答えたが、お年玉のポチ袋を進める。郵便局も、職員の応対次第で、雰囲気が極端に変わるなぁと眺めた。年齢からして年季が入っているのだが、客の質が分らないらしい。世間話も必要。

 会話の初めは、近隣のさまや、そこの土地柄を知っていて、常連でないと察すれば無理のない内容からでいい。窓口の応対には、知ったかぶりも避けるし、年配の者なら売ることよりも、どういう人物かを見極めたい。家の近所で近いのだが、何時もの所が工事中で、年末まで通行禁止。止む無くに。

 今朝は、天気が回復しての蒲団干し。週末は崩れる予報も当たらずで、すばるのトイレを換える。トイレのカバーも外して替え、午後からの出勤に備え、里芋を茹でている。介護の仕事も、体力の限度を感じて辞めたい。然し、年金だけでは暮らせないからであり、現実は厳しい。人出不足の折柄で。

 3年程育って、突然枯れたのが、脇から新芽を覗かせて、今年は花芽を満載にしている。何故枯れたのかが不明で、当時は芍薬と薔薇が繁っていた。ところが、芍薬が発芽せず、薔薇も繁ったものの枯れた。そうしての復活で、昨年から苞が見えだしたもの。今年は花芽が咲いてくれ結実するかな。

 晩秋から初冬にかけての宇宙。大気が澄み始めて、星の輝きも素晴らしくなる。庭で観える。

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初冬の陽だまりに

2018年11月16日 | Weblog

 抜けるような空でなく、少し柔らかな光で、何だか陽だまりがうれしい天気だ。洗濯をしつつ、蒲団を干し、掃除機を掛ける。気温が上がらないので、動きはゆっくりであるが、庭の鉢に水を遣り、クリスマスローズの芽にほっとする。これからの季節に咲いてくれるのが待ち遠しいもの。 

 常識の一線には、個人の価値観が伴うが、忌引きで休んでいるのに、お礼に行きますと来るのはどうだろう。職員はてんてこ舞いの状態で、応対するには業務が滞る。いくら親が持って行け、と言ったと弁明するが、50代である。況してや介護の仕事を知らない訳でもない。業に来るか。

 業務の邪魔であり、忌引き中であるのだから、考えもなしにされても迷惑だ。加えて日持ちのする菓子でもある。珍しくも傷む物でもないのを、届けに来る理由がない。それよりも暇なら、早急に勤務に出てきてほしい。年齢と共に行動できる人になりたいものだと実感。厭きれてしまう。

 明日は、そのために人数が不足して、出勤になった。介護は人数もあるが、それだけでは回らないことも起きる。不測の事態であるが、相当に神経をすり減らすので、無理のない程度で、半日の出勤とした。介護の業務もすればいいとか、人数がいるではないかではないので、殊更に疲労。

 政府の遣り方にも、机上の論が全体を占め、でたらめのいい加減さではある。それを文面通りに遣れるなら、どうぞしてみてください。重労働に時間外で、きっと過労死に陥る。自分がしないのに、遣れるだろうとは言語道断。親の介護は人任せ、国の政治はアメリカ頼りでは日本沈没か。

 庭の枇杷葉が、そこら獣で咲き始め匂う。なんと心地よい香りだろう。天気は下り坂になっていくが、心には充満しよう。砂の器を観ながら、あんを視ながら、差別の根源は自分の中にあるのだと知る。幸せなど存在せず、人を信じることもしないで、生きなければならなかった人生にも。

 今の世にも根強い差別は、残っているのかもしれない。他人の心を視ることはできないからで、深く考え、相手を思い遣ることにも、差別はあるのかもと思える。善行が果たして良かったのか、違っていたのかは定かではないが、もし自分であれば、同じ事を行っていたかも知れないのだ。

 苗を少しづう増やして来たら、枇杷屋敷になってしまった。数年後には、花芽の咲き匂う。

 

 

 

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神無月、上弦・小潮

2018年11月15日 | Weblog

 暦を見ていたら、七五三 亥の子餅 炉開きとある。この時期に、炉を開けてお抹茶を点てるというのは実感が伴うが、新暦の方では違和感が著しい。季節に応じた行事の廃れは、今更言うまでもないことだが、日本に伝わる農事には、暮らしに直結した切実な願いが伴っていた。

 自然栽培、という季刊誌があるが、この雑誌を読んでみて、祖母のしていたことを、お天道さまを仰ぎ、月や星に祈り、心を籠めて一心に行っていた暮らしに、切なくなるほど想いが重なっていく。子どもの頃には、責任も何もなかったが、労働に嫌気が指していたことも事実だ。

 籾苗を育て、田植えをし、草刈りや田草を抜き、稲穂の刈り入れに、干して脱穀。天日に乾かし籾摺り、俵に詰めて農協に出す。その繰り返しを、まさに休みなく行うことには、体力も気力も相当のことだった。簡単で便利な時代にはそぐわないかも。米の味は言うまでもないこと。

 祖母は、夕方には必ず宙を観ていた。そうして、雲の流れや、星の数や、風の向きに気をつけていて、明日の支度に余念がなかった。従って、少々の狂いには修正が利くので、切り抜けることができた。失敗を恐れないが、きちんと後始末の出来るように、常に心を配ってもいた人だ。

 記録に残ってはいないが、記憶には蘇える。農事には携わることはなくなったが、枇杷葉を見ていると、祖母のしていたことが鮮やかに視えてくる。自分のしていることを、何だか傍で見ていてくれるような想いだ。既に50年は過ぎようとしている。太平楽な子どもの頃はいいなぁ。

 すばるの寒がり。いや、猫であるからで、毛皮を着ている割には、温かい場所を探している。暖房を点ければ暑いと嫌がるのだが、遠くなら好いらしい。そこで、暖房の温度を20℃にして、羽を上向きにしたら、気持ち良さそうに眠る。日中の留守には、好みの場所を移動している。

 砂の器、届く。配役に圧倒される。加藤剛、丹波哲郎、渥美清、緒形拳、既に鬼籍に入られて、その若かりし頃の面立ちに、時代の流れを痛感する次第。然し今尚、差別は無くならない。自分の心にさえ残っているのに、と哀しい。仙太郎が、ハンセン病患者を創ったのは、神だと憤る。

 この世の未来永劫も、破滅も全ては、神の創りたもう世界に他ならない。光瀬龍・百億の昼と千億の夜とにも、プラトンの叫びが響く。アトランテスの滅亡も、神の仕組んだこと。弥勒坐像の中には、人類の未来は存在しない。神も仏も、人類の行く末等、知ったことかとあざ笑うばかり。

 枇杷葉の葉の中心に膨れてきた物が、徐々に大きくなってきて、そこから薄茶色の皮が破れて、蛙が憩う。

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山茶花満開

2018年11月14日 | Weblog

 剪定をしたので、心配していた山茶花が、それはたくさんの花を咲かせた。枇杷葉の傍で、窮屈そうな場所なので、少し遠慮するように咲く。祖母が好きだった花色は、紅の方であるが、植えてあるのは白だ。尤も、夏椿が元に戻ったもので、山茶花で買ったのではない。夏椿・沙羅双樹。

 何だか、急に寒くなって冷え込む。季節にすればこれが普通で、ここ数日の日中の気温が高過ぎただけで、異常とも言える温かさに、身体が慣れてしまっていた。こういう時の体調管理を怠ると、風邪を引いてしまうので注意。取敢えずは、外出を控えることで、嗽や手洗いをしておこう。

 昨日は、図書館に行ったくらいで、沢田研二さんの映像をあちこちと観ていた。派手な演出をするのは、観客の前だということを知って、そりゃ当然のことだろう。と思ってしまう。まあ、人気の為せる故だが、世間が放っておかないのも、気の毒な気がしてしまい、親しみが湧いてくる。

 タイガースの解散時の、チケット代が¥1600には驚いたが、あの頃のお金の価値から言えば、今の¥8000にはなるのか?東京までの運賃と、宿泊代を入れては、貧乏を恨んだもので、無論一人で行く勇気もなかった。今なら行けるが、復活は、あれが一度きりで、今後は有得ないだろう。

 時間は駆け足で通り過ぎるし、タイムスリップも不可能で、唯一、動画をみるくらいか、DVDを購入かである。それも子ども等にとっては、何の価値もない物で、廃棄処分になるのは間違いないこと。鉄腕アトムも、エイトマンも、わたくしだけの愉しみなのだ。誰に貰ってもらおうかな。

 時間は戻らないし、当時の状態である訳もなく、今更のように懐かしむ。でもそれでいいんだと想えるよ。長髪が悪しざまに言われて、サリーが答えた言葉がよかったね。ロング・グッパイの歌詞にもなっている、僕等はきれいな大人になれたかな。大切なのは、子どもの手本となれること。

 教育とはこうだ。ではなく、人間としての生きざまを学んでいくことだろう。そういう手本になれる自分でありたい。遅まきながら、心に響いた。光と影は対のものだが、得てして、光の部分ばかり追っていく。闇を見つめていくことこそ、光の中に居られることなのに、気づかぬものです。

 あん をプレゼントした方から、3時間で読んで泣けてしまった。と感想をもらった。普段には、活字を見ただけで寝てしまうのに、もう一度読んでみます。とも言われた。ドリアン助川さん、活字になるのに20年かかったけど、こうして読んでもらえてよかったですね。あちこち薦めます。

 松本清張氏の、砂の器は、加藤剛さんの主演が気迫で、泣くよりも、差別への怒りにも無情にも、心が潰れていった。生きていくことの惨さを、少年は誰よりも深く知り、並み居る者の比ではなく、チャンスを見逃さずに来たのだろう。自分がハンセン病であったなら、どうしていたであろう。

 晩夏の空にそびえる、百日紅。今年は、余りにも高くなったので伐った。枯葉が落ちてしまった。

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気分は・・・

2018年11月13日 | Weblog

 コバルトブルーならずの、グレーだが、紺碧とも言える秋の空も、百舌鳥が鳴いたりすれば、一段と天が高く観える。夜空は澄み、星の瞬きにも煌きが加わる。星座の位置が分からなくとも、眺めて観ることは、命への賛歌にも繋がる。人間の小ささや、時間の行方にも感慨深い。宇宙は初冬。

 星座を眺めつつ、神話に興味を持って、是非ギリシャ神話もお薦めしたい。大熊座、小熊座、ケフェウス座、カシオペア座、アンドロメダ座、ペルセウス座、ペガサス座と続く。その下には、獅子座が小獅子座も観える。秋から初冬にかけ、夏の大三角が天頂に上がり、天の川も滴り落ちそう。

 そこから北に眼をやれば、カシオペア座のWがある。これを基準にして、北極星や北斗七星を探し、□のペガサス座迄辿れる。寒さも夜間には気づかぬ内に忍び寄るので、防寒具を着用され、観望してください。手洗い・嗽は無論の事ですが、庭先でも冷えてくるので、山では相当の寒さが有る。

 火星も遠く小さくなったが、それでも観えているので、肉眼で充分確認できます。月も次第に大きくなって、柔らかな光を地上に降らせています。凍てつく宇宙も綺麗ですが、この時期の天体ショーも素敵です。小さな自分を想い、出来ることでいいよ、と云われているようで、肩の荷が下りる。

 砂の器。加藤剛さんの弾く、宿命。丹波哲郎さんの犯人への思いと、罪を問う立場での、主人公への哀れみ。緒方拳さんの慈愛に満ちた眼差しや、父親と離されて、線路をひた走る心根、河原で一心に器を作る少年。作っても直ぐに壊れていくのを何度も何度も繰り返すひたむきさ。差別は終らず。

 何度観ても心が痛む。でも、わたくしにも差別意識があるのだと知る。子どもの頃に、物乞いに遣って来る人がいて、母親も同じ事をしていた。らい病という者には、餓えて死んでもいいという了解があったようで、皆が見てみぬ振りをしていた。子ども心に何故かが分らず、こっそりあげた事も。

 その結果、ご飯抜きにされ、家に入れてもらえなかった。そんな理不尽が横行していた。その時代には、根強く残っていた偏見と差別に他ならない。拘わりを持たないことが当たり前であり、伝染すると信じられ、立ち去るまで外には出ず、その後で消毒をしていたのを、はっきりと覚えている。

 わたしたちも、人間です。ハンセン病・ライ病は、病気であって薬さえ飲めば治るのだ。その知識は高校生になって知った。奈良時代の知識のない時代、光明皇后は、千人行をしていたそうだ。最後に現れた物乞いは、らい患者で、皮膚は爛れ腐り、膿が身体中にあるのを、口で吸いだしたとか。

 施行が終わってのことに、光り輝く物体の中から、観音菩薩が現れ、行いを讃えたとある。実際に、施行院は存在しており、建物の下に湯を注ぎ、薬草を敷いた板の上に寝転がっての治療だったそうだ。それに枇杷葉が用いられていたようだ。歴史は古く、中国から渡って来て、伝わり広まった。

 庭の枇杷葉も、花の盛りになって来て、辺り一面、芳しい匂いに包まれている。今年は生り年と初生りが重なって、濃厚なまでの香りだ。温かいので、蛙が昼寝をしている。野鳥も本能で知っているので、花芽を啄む。烏は、枇杷が好きなだけ、利口な鳥である。枇杷葉には、血管を太くする力。

 医者要らず。いえいえ、医者に罹りたくないから、枇杷葉を用い、そうすることに因って、医者に行かないのです。根気と持続と、諦めない気持ちを持ち続ける。と言うか時間もお金ももったいなくて、横着なだけですが、お陰なことに、騙されることも無ければ、大枚を叩くことにもなりません。

 一家に一鉢の枇杷葉。庭を見回っていたら、いつの間に?と驚く。何と枇杷苗が出てきているのを見つけたのだ。自然での発芽はこれまでなかったので、まさかと見落としていた。この丈なら2年目か3年だろう。こちらが植えていくのより、自然発芽の方が馴染むのかもしれない。命は素晴しい。

 一粒を植えたのが、育ってきて繁っていく。そういったことを毎年繰り返して、たくさんの苗が。

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天気崩れて・・・

2018年11月12日 | Weblog

 同僚の父親が亡くなり、その虫の知らせに怯んだ。こういうのって、予期せぬことで起きるから、告げられないので困る。夏に、告知をされ、覚悟をしていたようだが、ここにきて気温の異常さに、身体がもたなかったらしい。娘としては、精一杯の介護をしての看取りだ。枇杷葉茶も飲まれて。

 あん DVDを観ながら、文庫に眼を通す。人間の本音が語られるのは、仙太郎自身が、素晴らしくもなく、底辺での生活者であるからだ。これは、ハンセン病と素直に向き合える。子どもの頃に、疑問に思っていた差別を、今も引きずっているわたくしも居る。長島愛生園、訪れて言葉もなく。

 朝の天気で、雨になりそうだと思っていたら、縦縞の雫が音もなく降りて来た。枇杷葉の枯れた葉が気になって、粗方を落とす。桑の枯葉も掃き、雨に濡れながら遣り終える。体調不良の原因には、ストレスが大きな要因だが、仕事を辞めても、心の切り替えが出来ないと、永遠の続きそうである。

 初生り枇杷葉の1本が、花芽を咲き終わらせている。駐車場の前部に植えてある。プランターでの栽培で、どうかなとも思えたが、陽射しを浴びて育ち、今年苞が膨らんできた。これは何年だったかな?品種に因って異なるのと、正確には記憶もしていない。交配も自然にするのか、と笑顔になる。

 蜜蜂を飼えばいいようなものだが、隣近所が煩いので止めた。自然に飛んで来るのに任せ、その年の生り具合にしようとは思う。それにしても、最初から成っている、長崎茂木は、隔年の差はあるが、次々に結実してくれる。その年の気温や雨量、手入れの加減にも縁ろうが、ありがたいことです。

 糠と塩も好いのかもしれない。他の肥料を遣らず、腐葉土は枯葉が落ちれば、そのままにしているし、珈琲の後を要れるくらいで、特には何もしない。声を掛けることはしているが、高くなり過ぎたりにも放置してきた。今年は、フェンスの外に伸びたので、その枝を伐って、中に来るようにはした。

 花芽が咲き終わったら、剪定する枝を決めている。何しろ、袋掛けが出来なくなって、脚立に上がって、バランスを崩したら、そのままになってしまう。結果的には、無理をせずに、足元の安全を保つのが好いようだ。冬が来て過ぎ、立春になり、初夏になればうれしいこと。枇杷の実がゆれる季節。

 秋から初冬にかけて、天の星の輝きも、光度を増すように観える。大気が澄んでくるからだ。

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心は視えないが・・・

2018年11月11日 | Weblog

 他人の気持ちを察する、と言うのは、聞くことよりも、耳を傾けることで、難しい言葉だと傾聴、普通に書けば聴くであるのだ。自然の声を聴こうとせず、聞いている心算でいると、難からは逃れられないことも起きる。だからといって、それが誰にでもできるのでもなく、備わってもいない。

 心を通わせることにもなり、風の色や、雨の音に、心が添わなければ不可能だ。子どもが何気なく、危険を知らせたりするのもまた、自然からの伝達手段かも。大人は聞捨てにせず、その子の普段を思い浮かべて、向き合うことをすれば、難を逃れる。障がいだのと騒ぐ前に、心を保てる人に。

 世の中を生きずらいと云うても、一向に改善策はなく、アメリカの言い成りで、戦後と然したる変化もなく、却って逆になっている有り様に唖然とする。国民、庶民の生活基準ではなく、年収が高額所得の者だけの集まりで、消費税が上がっても何等困ることもない。明日の暮しさえ侭ならず。

 事件も事故も、内容を見れば、幼稚な感情のままに行い、他人のこと等お構いなしの強行だ。昔もあったことではあるが、ここまでの残虐さはなかったと。誰が悪いの、何のせいだのと云うても、元には還らず。勤務先でのニュースで、廃墟となった住まいを見たが、何故ここまでするのか。

 自分で考えての行動も、ちょっとしたことで非難され、屁理屈で罷り通る。地球も破壊され、これ以上は辛抱できないのだろう。徐々に不満を吐き出し、地震や津波になり、火事を起こす。地球にも、というよりも、この青い星を守るためには、再生に入らなければ、爆発してしまうのだから。

 人間の驕りや傲慢さで、地球に棲むのは間違っている。イエスというより、聖書にそういったことが書かれているのか?大体が、宗教の異なる人類の過ちから起こる。アメリカが偉いのでも、他の国が強いのでもない。武器を製造して売り、諍いを起こさせる者が存在するからだ。金儲けになる。

 茂木枇杷だが、中々生ってはくれず、生っても数個であったりした。昨年からたくさん生った。

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