日々のあれこれ

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塩野七生:著 『ローマ人の物語』 ~キリストの勝利~ (38)(39)(40)巻

2016-09-10 17:04:52 | 読書

 たった今、第40巻、キリストの勝利を読み終えた。古代ローマ終焉まで残り3冊。なんだか寂しい。季節もほんの少し、秋っぽくなったものの、今もツクツクボウシは鳴いているし、蒸し暑い。室内の気温も夕方5時を回っても30度と表示されている。4世紀近くになると、唯一の神を信仰し、その他の神を認めないキリストの力が増してくるが、最後の最後までローマらしいローマ、寛容の精神ですべてのローマ人がそれぞれ信じる宗教も認め、法の下で裁くローマであることを維持しようと懸命に努力した皇帝も元老院にてつとめた人もいた。そういった人々の熱気がひしひしと伝わってくるからか、実際にまだ福岡の夏は終わりを迎えていないからか、心も身体も あ・つ・い!! 二重の意味において(苦笑)

 3世紀に皇帝となったコンスタンティヌスは、多神教のローマらしく、キリスト教も認め、税金などの面で優遇すらした。この皇帝も彼の後を継いだ実子、コンスタンティウスもキリスト教徒に回心している…とはいえ、皇帝がキリスト教徒になってしまうと、皇帝になったのも神の思し召し、ということになってしまうので、死ぬ直前まではキリスト教徒にならなかったらしい。多神教のローマでは、皇帝になったのは、神が決めたことではなく、ローマ市民、元老院に認められることによって…であった。神々は傍にいて見守るにすぎない。その一方で、このあと約500年後にオリエントの地に誕生することになるイスラム教徒も同じような言い方をよく私にしてくれたが、「すべての出来事は神によって書かれている、すなわち決められたことなのだ」ということになるらしい。「私が悩んだ末に決めたこと」みたいに言うと、それは違う、God's will によるものだ!と言われた。神のご意志…? 「神は関係ない、私が決断したの!」というと、「わかってないな」と渋い顔をされた。「これだから無宗教者は…」という友人もいれば、 If you believe in nothing, I don't trust you. But if you believe in something, it's defferent. と言ったイラン出身のイスラム教徒のボス、トンガ出身でキリスト教徒の友人ケプもいた。 信じる神は違っても、何かを信じているのであれば、それはそれでいい、と言ってくれるばかりか、何処から仕入れてきたのか、日本の神様は神道なんだってね!といろいろ勉強してくるイスラム教徒のシェアメイトもいたっけ…。現代を生きる「一神教徒」の比較的親しい友人の多くは、私を改心させようと布教活動をすることもなく、それこそ寛容の精神で多神教出身の日本人の私を教会やイスラム教(モスクには流石に入れない)の集まり(大勢で集まっての食事会)に誘ってくれたりした。 「神が多いと喧嘩する!」と、それこそ喧嘩をふっかけてくるようなイスラム教徒も居たにはいたが、そんな時はいつも (あ~また始まった…)と、距離を置くようになり、結局、逃げた。あの人も、あの時の人も…今頃、過激派に入って活動したりなんかしてないよね…と、ちょっと心配になったりして…。

 恐ろしく本題からずれてしまった気がするが、話を古代ローマ3世紀に戻し…。要するに、この頃のローマではまだ、積極的にキリスト教に改心したというよりは、税の優遇を受けられる等のこともあって、キリスト教になったローマ市民も多かったのではないか。大学の専攻は英文学だったので、聖書も英語で学びはしたが、アメリカ人の講師が特に力を込めて説明したのが、神とジーザスとスピリットは一体、ということだった。二十歳そこそこの私には、「何?それ?」だったが…。 分かったような、分らんような…? 当時のローマでも「三位一体」説か、それともイエスは神に近いが神ではない、とする派か?など、同じキリスト教徒でありながらも解釈を巡って揉めていたらしい。どっちに転んでも、司教が神の声を届けることになるので、時代が更に進んだ4世紀、30代の若さでキリスト教に改心したテオドシウス皇帝は、もはや司教の思いのままに操られる羊となった。キリスト教徒は迷える子羊。それらを導くのが司教→神だから…。実際、ある事件が勃発すると、司教は皇帝にいう。 「いったい誰のお蔭で皇帝の座についたのか?」⇒神(ここでは司教)のお蔭。ということはつまり、司教が皇帝をその座から引きずり降ろすのも意のままということだった。そう、単なる操り人形。このように皇帝を操ったミラノ司教の名は、アンブロシウスといった。そして、この司教のもとで、テオドシウス皇帝はキリスト教をローマ建国始まって以来の「国教」と定めたのだ。それは、これまでローマが培ってきた法よりも宗教が力を増し、多神教のローマの神々も邪教とされ、ギリシア・ローマの神殿はキリスト教会に生まれ変わり、高い文化の象徴だった銅像やその他の神殿は破壊された。そうしなければ、キリスト国教=皇帝に背くこととなり死刑となったため、泣く泣く…というローマ市民も多かったのでは…? 塩野さんの仮説だが、木棺などに保存して、のちの世に…つまりはローマ・ギリシア文化が邪教とされなくなった世に発見されて、再び大事にされることを祈って、地中深くに埋められたのではないか…?と…。ルネサンス時もその後の発掘調査でも、比較的きれいな形で古代ローマ時代の彫刻が見つかっているらしいので…。こう考えると、いつの日か、イタリアの博物館等で古代の像を見る目も違ってくる。古の時代のローマ人の想いがひしひしと伝わってくるだろうな… ギリシア文化に憧れ、彫刻等の技術も高かった時代のローマ人の想いと、それを泣く泣く日が当たらない場所へ隠さなければならなかったローマ人の悲しみと…。

 

 私がローマ人の物語を通して、ここまで最も心を動かされた皇帝の中の”一人”が、皇帝ユリアヌスだ。勿論、トライアヌス帝など、ローマのために尽くした皇帝は多くいるが、最後の最後に頑張った、真のローマ人(生まれではなく、精神が)皇帝、それがユリアヌスであったと思う。彼はキリスト教を優遇したコンスタティウス親子の親族で、彼らの統治の時代を見てきた。塩野さんも著書の中で述べていたが、身内だからこそ見える、感じられる、一神教をローマの法律より上とする捉え方の危うさを誰よりも理解していたのではないか。一神教は他者を認めない宗教だ。これまでのローマでは、寛容を神髄とするからこそ、敗者もローマ人として市民権も与え、地位も保障してきた。ユダヤ教もオリエントの神も認めてきた。これらの中でユダヤ教も一神教だが、彼らは他の宗教を信じる者を自分たちの中に組み入れようとはしないし、そもそもそのような考えもない。キリスト教の最大の違いは、他の神を信じる者を自分たちに組み入れようとした唯一の宗教だったこと。いわゆる布教活動! 他国から異教徒が攻め込んで来て国をのっとったというのではなく、ローマ人がキリスト教徒になっていったのだから…。 コンスタティウス皇帝親子はキリスト教を優遇し、ローマがローマでなくなる足がかりを作ったが、彼らの親戚であったユリアヌスは、元々哲学者で宗教家ではなかった。宗教(一神教)による統治が進みつつあったローマを元の姿に戻そうとしたのが、ユリアヌス皇帝だ。彼はそれまでのキリスト優遇の法律をことごとく廃止した。キリスト教徒や教会にしてみれば、「キリスト教徒のコンスタティウス皇帝の親族であるにもかかわらず、裏切った」ということになる。よって、「背教徒ユリアヌス」と呼ばれることになり、キリスト教徒側からすれば、評価が低い皇帝ということになる。だが、彼が行ったことは、元々のローマ人がそうであったように、すべての信仰を認めます!という形に戻した!という「ひとこと」に尽きると思う。キリスト教以外は「異教徒」という概念に捕われて他者を弾劾するようなことを恐れたのではないか。事実、彼、亡き後のローマは、再び…というよりは、初めてキリスト教を国教と定め、それ以後、ギリシア・ローマの数ある神々や文化までも弾劾され、ラテン語・ギリシャ語で書かれた多くの書物を貯蔵していた国立図書館も破壊されてしまったのだから。 ユリアヌスはシャプール二世率いるペルシア戦役中、馬上で倒れた。皇帝になって一年9か月、31歳の命だった。もし、彼の統治がわずか2年余りでなかったら… 年齢からしてあと20年以上は皇帝としてローマを率いていけたのでは…。ローマがローマらしくあり続けていたとしたら、その後のギリシア・ローマ文化の運命も違っていたかもしれないと思ってしまう。もしかしたらローマの図書館も、その中身もラテン語も。何よりローマ的宗教も現代まで残ったのでは…? バチカン…今とは違っていたかも…なんて言ってはいけないのか。歴史に「もし」を並べて想像してみても、今は変わらないけれど…。いや違う。歴史に学んで今を生きることは誰にでも可能だよね。

 

 

 

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