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単なる個人的な( ..)φメモメモ
昨夜から本日、まるまる一日の間に終了したこと;
①Sunny Skies (幼児向け教材)Teacher’sbook 抜粋版を熟読。
②4本の研修ビデオを2~3回ずつ( ..)φメモメモを取りながら視聴。
③課題(VOD内容の確認)を見て、解答を記入。
Questions; 1早くから英語学習を始めるメリットとは何か? 2 幼児の特性 3Vocabularyについて、等
④レッスンシナリオ作成の内、Storybooks ❶読み聞かせ The Hat Seller and the Monkeys の作業手順 作成
⑤レッスンシナリオ作成の内、Unit 3-5 Word-Hunting の指導手順作成
⑥レッスンシナリオ作成の内、Unit 3-5 ”Inside Fruit and Vegetables”を生徒と対話しているように、質問を投げかけなけ興味を引きながら進める様子を書く。
⑦レッスンシナリオ作成の内、Think and Talk (Let’sthink)の指導例を作成&記載
…明日は残るレッスンシナリオの内、少なくとも1つに取り組み、出来れば作成完了させたい✋ 出来ればレッスンプランの確認、概要(目的と内容)にも目を通したい。
ここから簡潔にちょこっとだけ…
銀閣寺で知られる8代将軍、足利義正は、30歳そこそこで引退しようとした。権力に伴う様々な義務を果たすことが嫌になったようだ。銀閣寺は別邸で、引退後に趣味に生きるために作ろうと思ったもので、最高権力者としての地位を狙い、それを見せつけることが目的だった金閣寺とは全く意味合いが違う!
寺に入っていた弟、義尋を還俗させ、義視(よしみ)と名乗らせた。
だが、30そこそこの兄に子が出来れば、自分は邪魔者となる。それを恐れ、何度も断っていた。そこで、「子が生まれても出家させ跡継ぎとはしない」という約束を義視は確約。
ところが一年後に正妻の日野富子が男の子を出産。優柔不断で気の弱い夫、義政に我が子を跡取りとするよう攻め立てたが、楽隠居するため、将軍職を退こうとし、弟を無理やり還俗させた負い目がある。結局、義政は将軍を辞めるにやめられない…
義視の後継人は細川勝元だったので、それに匹敵する後継人を選ばねば…と日野富子が選んだのが細川に負けない有力大名、山名持豊だった。
こうして足利義正の「政治をしたくない。文化人として余生を楽しみたい」
妻、日野富子の 「何が何でも我が子を将軍にしたい」
という二人のわがままが、応仁の乱【1467年~77年】の火種となった。
すなわち、足利義視(義政の弟)and 細川勝元 VS 足利義尚(日野富子の息子)and 日野富子 and 山名持豊
と、いうわけで、応仁の乱は、最初は上記のような構図だったのだが… 西軍、東軍と別れて戦い始めると、いつの間にやら敵が味方に、昨日までの味方は敵に…というねじれが! これでは何のために戦っているのか分からない状態に。
この経緯については、ここでは割愛し…一昨年頃、売れにうれた『応仁の乱』について分かりやすく書かれた本を読んでみると良いかもしれませんが。
ま、いずれにせよ、将軍、義政が「誰に継がせるのか?」という避けては通れない問題について、「先送りせず」きちんと、「弟か、息子か」決断を下していれば、応仁の乱も防げた。この時代は大名の跡取り問題(いわゆるお家騒動)が有力大名家において起こる頻度が高く、それは「絶対に長男が跡取り! 亡くなれば次男」というような明確な法がなかったから、というのもあるかも。家康は応仁の乱から学んだのでしょうかね。うつけでも、長男が最高権力者、と決めていたから。家中で争わずに済む。徳川は300年も続いたわけで…
「問題先送り」「実力より世襲」「カリスマ的リーダーより、話し合い(談合)を好む政治体質」、と井沢さんも指摘。なんだか何処かの国の、今の政治に似ているな…。