生涯忘れえぬ米田からの一発
大杉選手が去る8月11日の大洋戦で史上8人目の通算350号本塁打を達成した。「いろいろあったなぁ」と13年間のプロ生活を振り返って感慨深げに投手との駆け引きやタイトル争いの心理状態を披露した。大杉選手自身が一番印象に残っているのは東映フライヤーズに在籍し、初めて本塁打王になった昭和46年のシーズン。ホームランダービー常連の野村監督(南海)は残り3試合、大杉選手は2試合で共に42本塁打と並び終盤まで競り合った。野村監督は42本のままシーズンを終えたが大杉選手は最終戦となる対阪急ダブルヘッダーで2発放って44本塁打でタイトルを獲得した。
「神サマにすがる思いで打席に入る時に米田さんに声を掛けたんだ。『フォークボールを投げて下さい』って。言っておくけど僕はフォークボールが大の苦手で全く打てなかった。そうしたら本当にフォークボールが来た。苦手の球を打ってこそタイトルを獲らなきゃ意味ないじゃん」と。米田投手から43号を放ったのに続き、第2ゲームでも足立投手から44号を連発して野村監督との本塁打王争いに決着をつけた。「野村さんに勝った感激で涙が止まらず、汗にかこつけて溢れ出る涙を何度も拭った」と回顧する。念の為に言っておくが米田投手は " 打たせるため " にフォークボールを投げたのではあるまい。苦手な球を要求する大杉選手を意気に感じたのだろう。
プロ初本塁打は昭和40年9月17日の東京オリオンズ戦で迫田投手から。「シュートに詰まってバットが折れるかと思ったので慌てて左手一本で打ったらレフトスタンドに飛び込んだ。当時の東京球場は狭かったからホームランになったんだと思う」当時の月給は7万円。13年前とはいえバット1本は2千円ほど。簡単にバットを折るわけにはいかなかったので、咄嗟に右手を離してスイングしたことが柵越えにつながったようだ。こうなると次なる目標は史上3人目となる通算500号本塁打。「僕はいま32歳。あと5年はバリバリ働けると思う。年間30本なら軽くいけますよ」と腕をぶす。
ドロボー
神宮球場の右翼場外にあるクラブハウスがまた泥棒の狙い撃ちに遭った。去る8月13日午後4時頃、新宿区霞ヶ丘13にある「ヤクルトクラブハウス」内の更衣室が荒らされ、倉田投手ら選手5人が計6万1千円の窃盗被害に。これまでも毎年のように空き巣に入られて警戒をしているのだがプロフェッショナルの手口にはお手上げ状態なのである。
たまたま一軍選手は広島に遠征中で小森二軍監督以下、二軍の選手たちが練習中に忍び込まれて被害に遭った。高給取りが多い一軍選手がゴソッと狙われたら被害額はもっと多かったに違いない。一昨年には熱狂的なファンがクラブハウスに侵入して選手のグローブ、帽子、ストッキングなど練習用具一式を盗んだこともあった。
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