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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 399 私説・長嶋巨人軍 ②

2015年11月04日 | 1983 年 



最下位の屈辱を晴らすべく長嶋巨人のトレード攻勢は続いた。加藤という大魚を首尾よく釣り上げる事には成功したが持ち駒は少なくそうそう旨い話は転がっていない。にべもなく断られるケースが殆どだった。筆者はアテもなく大阪へと出発する・・


昭和50年10月22日、私は一通のリストを懐に忍ばせ球団事務所を後にし新幹線に飛び乗った。行き先は新大阪。マスコミの目を避けての移動だったが車中で顔見知りの記者(共同通信社)と鉢合わせした。「おや、張江さんどちらに?」 まさかトレードの交渉に行くとは言えずドキリとしたが平静を装い「以前から故郷のお袋の具合が悪くてね。日本シリーズ開始までは暇なのでちょっと見舞いに」と誤魔化すと記者は「それは大変ですね。故郷は金沢でしたよね、お大事に」と挨拶し別れ座席に腰を下ろしホッとした。しかしよく考えればその列車は「ひかり」で金沢方面へ乗り換える米原駅には停車しない。まずいかなとも思ったが記者は国体が開かれている三重県に向かうと言っていたし米原駅より手前で下車するから大丈夫だとタカをくくっていた。しかし敵もさる者、米原駅に停車しない事は先刻承知で名古屋駅で下車すると直ぐに大阪の支社へ連絡したという。

最初の交渉相手は近鉄だった。しかし私が手にしていた相手のリストには魅力を感じる選手の名前は無かった。事前に交渉に伺うと連絡をしていたのは近鉄の他に南海と阪急。失礼のないように近鉄側に断りの挨拶を済ませ次に向かったのが大阪・ロイヤルホテル。そこには野村監督(南海)が待っていた。南海で白羽の矢を立てたのは柏原選手。以前に野村監督と何度か会った際に「アイツは内野ならどこでもこなすし外野も出来る。打撃もどんどん良くなる筈や」と聞かされていた、いわば秘蔵っ子。なのに「出してもいい」と予想外の答え。今思い返せば当時の野村監督は愛人騒動で球団と揉めていて半ばヤケになっていたのかもしれない。

「張江さんの気持ちは分かった。その情熱に敬意を払う。ただ私としては長嶋監督の気持ちが知りたい。本当に柏原を欲しいのか、どのように育ててくれるのかを聞きたい。会えずとも電話で構わない」と最後に注文をつけた。私は「分かりました。必ず長嶋監督から電話なり連絡させます」と答え別れた。翌日の夕方、今度は阪急の梶本投手コーチ宅を訪問した。日本シリーズを2日後に控え忙しかった筈だが快く迎え入れてくれた。梶本夫妻とは家族ぐるみの付き合いで新聞記者時代には海外旅行を共にした仲だ。だが商売の話となるとなかなか切り出せず、どうにか「実は阪急の選手が欲しい」と幾人かの選手の名前を挙げたが梶本コーチは「投手はともかく野手の事は分からない。日本シリーズが終わったら上田監督とも相談して回答したい」としながらも個人的意見として水谷投手を推薦してくれた。

梶本宅を後にし宝塚市内のホテルに戻り球団にこれまでの経緯を電話で報告した。その際に野村監督の伝言を長嶋監督に伝えるよう頼んだ。東京へ戻る前に西本監督に直接会って非礼を詫びる事にした。形通りの挨拶を済ませて帰ろうとすると西本監督の方からリストには載っていなかった選手を挙げて改めてトレードの話となった。神部投手、梨田捕手、有田捕手、羽田選手の名前が有り興味をそそられたが交換相手に高田選手を要求された為に近鉄とのトレード話は断念した。トレード話とは別に西本監督には長嶋監督の野球、采配など有意義なアドバイスを頂いた。本当に野球を愛し立教大学の後輩でもある長嶋監督へ寄せる期待には頭が下がる思いだった。このトレード行脚で成立したのは水谷投手(阪急)と島野投手(阪急)だけに終わったが返す返す残念だったのが野村監督への電話がいつも不在で繋がらず柏原の獲得が成らなかった事だ。
コメント (1)
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