はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

子どものいる風景

2007年05月08日 | はなこのMEMO
 今回の関西旅行では5日(土)、6日(日)の両日、それぞれ1日乗車パス(スルッとKANSAI)を使って、電車・バスを何度も乗り降りした。そこで目にした光景で印象に残ったのは、幼い孫に優しく話しかける祖父や祖母、たまたま乗り合わせた幼い子どもに気軽に話しかける老人の姿だった。

 ある祖母は3才か4才くらいの孫に、電車の乗り換えの方法を噛んで含めるように話していた。「あのな、これから○○に行くんやけどな。まず△△の駅で降りるん。そこからな、■■線の電車に乗って、××駅で降りて、そこから歩いて行くんよ。○ちゃん、わかる?」愛情の籠もった柔らかな関西弁は耳に心地よい。その間、祖母を一心に見つめる幼子の眼差しが、祖母と孫の絆を感じさせて、見ているこちらの心も温かくなった。

 阪急六甲駅から乗った六甲山頂へと向かうバスの中では、最前列にひとり腰掛けたかなりの高齢の男性が、途中から乗り込んで来て男性のすぐ後ろに着席した小学生の女の子ふたりに話しかけていた。「どこに行くん?」「どこから来たん?あ…そうか。○○から来たんか。今日は天気が悪うなくて良かったなあ」女の子達は知らないおじいさんに突然話しかけられても臆することなくハキハキと応えていた。コミュニケーションが密な普段の暮らしぶりが窺えた。

 電車などで老人に席を譲る若者の姿も目立った(もちろん譲らない若者も中にはいる)。老人が乗り込んでくるとすぐさま席を譲る仕草に、それがごく当たり前のこととして普段から行われているように見受けられた。関西の若者の方が比較的老人には優しいのかな。上述の老人と子どもとの関わりのエピソードを見ても、幼い頃から老人が身近に存在し、その愛情を受けて成長していることも関係しているのだろうか?

 そうした光景とは対照的なエピソードが新聞紙上に紹介されていた。「妙なお話」というコラムで、タイトルは「顕微鏡より望遠鏡」

 ひとつめのエピソード。最近少年野球のプロ野球化が著しく、勝つための管理野球がエスカレートし、少年選手がロボット化しているらしい。バッターボックスに立つ選手は監督の指示通りに動くことが当然で、三振してベンチに戻って来ればコーチの細かな指導が入る。負けが込むと親からクレームが出て監督も交代させられるというから話は穏やかでない。
 
 なぜ親が子どもの試合の勝ち負けにこうも拘るのだろう?誰もがプロを目指すわけでもなかろうに。イマドキの野球少年には、伸びやかにプレーすることは許されないのか?子どもには子どもの世界があり、子どもでいられる時間もそれほど長くはない。子ども時代はひたすら大人になるための助走ではないはずである。また高野連の特待生制度の否定など、ことさらアマチュア精神を標榜し、選手や学校を高圧的に締め付けるやり方にも違和感を感じる。なぜ他のスポーツや学業での特待生制度は許されて、高校野球だけ許されないのだ?「高校野球だけは特別」という高野連の考え方は”驕り”にさえ見える。何につけてもオトナが子どもに関わり過ぎ。

 野球というスポーツは一時ほどの繁栄はないもののいまだスポーツの中では突出して人気があり、プロ・ビジネス化しており、大金が動く。その結果がプロ球団によるアマチュア選手の囲い込みなんだろう。しかし、その為にアマチュアの裾野である少年野球の世界まで手垢にまみれたものになってしまっているとしたら問題ではないか(もちろん新聞記事で取り上げられた少年野球の在りようが、少年野球全体の実態ではないとは思う。小説『バッテリー』で描かれた世界もまた存在するはずである)

 親や保護者は確かに子どもの一番の理解者であり、最強の応援団であるべきだとは思う。しかし、子どもの世界には、親でさえ踏み込んではいけない領域があるはずだ。私自身、息子の成長は嬉しいが、息子と自分とを一体化して考えることは避けようと心がけている(心がけないと一体化してしまいがちなのも事実)。子どもは産まれた瞬間からひとりの別個の人間であり、いつかは自分の元から巣立つのだから―そう自分に言い聞かせている。

 また子どもへの思い入れが深過ぎると、周りが見えなくなる危険性も感じる。ふたつめのエピソードはそのことを指摘していた。ある時、大学附属小学校の新入生と思しき子どもと母親が我先にと電車に乗り込み、漢字ドリルを始めたらしい。しかしその母子は、一緒に乗り込んだ老夫婦が立っているのには一向に気付かない様子。こんな時、漢字ドリルより優先されるべきはお年寄りに席を譲るマナーを教えることや、立たせることで体力をつけさせることではないか、とコラム筆者は嘆いていた。

 個人的にも似たような光景を目にした。学年最初のクラス懇談会の後、担任教師とその日が初対面の親としては、別れ際にひとこと挨拶はしたいものである。おそらく教室に残っていた他の父兄も私と同じ気持ちだったと思うが、あるひとりのお母さんが先生を捕まえて離さなかった。どうも受験態勢を親としてどう支えたら良いのか質問しているらしいが、話に入れ込み過ぎて周りの父兄が眼中にない様子だった。しばらく父兄同士懇談しながら待ったものの、その母親の話は終わりそうになく、結局離れた場所から先生へ軽く会釈するのみで全員教室を後にした。やっぱり、何をするにしても周りを見渡す心の余裕は残しておきたいものだと思う。

 目先に関心を奪われるあまり、遠くを見据えた子育てがおろそかになってはいないか?子育てに、今、求められるのは「顕微鏡」ではなく「望遠鏡」である、というコラム筆者の思いがタイトルの由来らしい。
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