はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

『ラファエロ』展(国立西洋美術館~6/2(日))①

2013年04月19日 | 文化・芸術(展覧会&講演会)
何度見ても楽しい… 

 近年の国立西洋美術館(以下、西美)の企画展は、西洋美術史の中で既に重要な位置づけにありながら日本ではまだあまり知られていない作家を紹介したり、既に知られた作家やその作品に新たな切り口で迫り、再評価を促す「企画勝負」のものが多かったように思う。

 前回の「手の痕跡」展は後者に当たるタイプで、西美のコレクションの礎となった「松方コレクション」の中核を成す近代彫刻の巨人ロダンブールデルの作品の全貌を見せる好企画であった。

 しかし、一般の美術ファンには、タイトルから何を言わんとしているかが今ひとつイメージし難く、これを例えば作家名を前面に押し出し、企画者がテーマに据えた「手の痕跡」を敢えて副題にして「ロダンとブールデル~手の痕跡」展と銘打っていたなら、もう少し一般の美術ファンの間にも浸透したのではないかと思う。実際、この「手の痕跡」展は、普段見ることのできない鋳造彫刻の詳細な制作過程が実物資料やビデオで見られたり、40年ぶりに蔵出しの作品があったりと興味深い展示内容であり、おそらく担当学芸員にとっても、これまでの研究の集大成的な意味合いのある企画展で、見応え十分の内容だった。もう少し話題になっても良かった良質な企画展だったと思う。ロダン、ブールデルに関する資料として、展覧会カタログも良質。

 その反省に立って、と言うわけではないと思うが(←もちろん、冗談。ラファエロとその周辺の画家の作品を一堂に会して、その画業を振り返るものだから)、今回はズバリ「ラファエロ」展である。その出展数と出展作品の希少性において、ルネサンス芸術を代表する画家のひとり、ラファエロ・サンツィオ(1483-1520)の、アジア圏はおろか、ヨーロッパ以外では初の大回顧展と呼ぶに相応しい展覧会らしい。

 誰もが知る作家の大回顧展と言うと、最近では新参、或いはリニューアルした美術館が手っ取り早くその知名度を高め、集客実績を上げる為の手段と化している印象がある(そう思いながらも見に行ってしまう自分wink)。さらに上述のように、今回の「ラファエロ」展は、近年の西美の企画展の傾向とも趣きが異なっている。ひたすら有名作家や西欧の大美術館の紹介に力を注いでいた、ひと昔前の西美に逆戻りしたかのようにも見える。

 確かに西美は、西欧の名だたる美術館に比べれば、その規模は極めて小さく、《モナ・リザ》のような一級品もない。しかし、中世末期から現代に至るまでの、各時代を象徴する西洋美術の佳作を網羅し、日本にいながらにして中世末期以降の西洋美術史を概観することができる貴重な場である。日本有数の規模を誇るロダンや印象派絵画コレクションはもとより、他の美術館では見る機会の少ない宗教画コレクションや版画コレクションも充実した、非西欧圏では唯一の、西洋美術を専門に扱う国立美術館でもある。そして長年に渡り地道に質の高い企画展を重ね、欧米の美術館との信頼関係を築いて来た。そんな西美が日本における西洋美術の殿堂として、米国の美術館でもなし得なかった「ラファエロ」の回顧展を開催することの意義は大きいと思う。

 【2013.05.13追記】

 美術史家の石鍋真澄氏曰く、「"真の「ラファエロ」展"はローマでしか開催し得ない。なぜなら、"ローマの画家"たるラファエロの傑作壁画群は、ローマでしか見る事ができないからである。おそらく、ラファエロの没後500年に当たる2020年に、ラファエロの大回顧展が、ローマで開催されるであろう」(以上、西美講演会における発言)ーもし、実現すれば、未曾有の「ラファエロ」展になるのは間違いない。見られるものなら、是非見てみたいものだ。


《自画像》(1506年頃、ウフィツィ美術館)
  レオナルドミケランジェロと共にルネサンスの三大巨匠に数えられるラファエロは37歳で夭折したが、残された作品の何れもがルネサンス芸術を代表するもので、所蔵する美術館にとっては至宝と言えるものだろう。

 それだけに、フィレンツェ文化財・美術館特別監督局の尽力もあってのこととは言え、ヨーロッパの美術館所蔵のラファエロ作品が油彩画を中心に23点も西美に貸し出されたことには、感謝してもしきれない。そもそも自分の経済力では到底、その収蔵先の美術館を訪ねて回ることは不可能だし、一堂に会したラファエロの初期から晩年に至るまでの作品を時系列に見ることで、ウルビーノに生まれ、ペルージャを経て、フィレンツェ及びローマで大成した、ラファエロの画家としての軌跡を辿って見ることが出来たのだ。これこそ、眼福!

 作品の展示は上掲のラファエロの23歳頃の自画像から始まるのだが、これはどこか物憂げな表情の青年の眼差しが、静かにこちらに向けられているように見える作品だ。人相は人物の内面を映し出すものだと思うが、ラファエロのそれは柔和な雰囲気を湛え、彼の作品に描かれる聖母の柔らかな表情に通じるものがある。ジョルジョ・ヴァザーリも、その著書『芸術家列伝』で、ラファエロの圧倒的な才能と共に、出会った人々を惹きつけて止まない、その人間的魅力を讃えている。

 ラファエロの自画像を見ながら、ある人が「ラファエロの作品には気品がある。それは彼が生まれながらに備えた資質なのかもしれない」と言っていたのを、ふと思い出した。世に数多の聖母像があれど、ラファエロが描く聖母に優る品格を備えた聖母像はそうそうあるまい。このことは、今回の展覧会に出品された周辺の画家達が描いた聖母像を見てもしみじみ感じたことだ。

 今回は展覧会関連の講演会を時間の許す限り聴講するように努めているが、この鑑賞記録には、そうした講演会で得た情報も取り混ぜて行こうと思っている。

 次いで眼に飛び込んで来たのは、ラファエロの父、ジョバンニ・サンツィオの作品《死せるキリストと天使たち》(1480-1489、ウルビーノ・マルケ州国立美術館)であった。父、ジョバンニはウルビーノ公に仕える宮廷画家で、ウルビーノ公の死後には公を顕彰する目的で『韻文年代記』を著すなど、高い教養で知られた人物であったらしい。

 父の作品も宮廷画家らしい品位と巧みな筆致でさすがだと思うが、ラファエロが11歳の時に死別しているせいか、後年のラファエロの優美な画風とはいささか趣きが異なり、硬質な印象だ。

ペルジーノ《聖ユスティナ》(1495-99頃、ヴァチカン美術館)
 ラファエロの最初期、彼が最も影響を受けたと言われるペルジーノの作品も1点、ヴァチカン美術館から出品されている。ペルジーノは、「柔らかな女性の描き方」と「美しい風景描写」で、ラファエロの出身地ウルビーノ近郊の大都市ペルージャにおいて、当時人気を博していた画家である。ペルジーノが近隣で最も高名な画家だったとは言え、父ジョバンニとは作風が全く異なるペルジーノに注目した点に、常に時代の先端に触れたいというラファエロの野心が透けて見えるようで興味深い。

 ところで、ラファエロは父の手引きでペルジーノに弟子入りし、修行を積んだとの説が長らく有力視されて来た。これはヴァザーリの「芸術家列伝」の記述に基づくものなのだが、講演会で聞いたところによれば、最新の研究では、父の逝去がラファエロ11歳の時とかなり早かった為、父の生前にペルジーノに弟子入りしたとは考えにくく、以下のふたつの仮設が有力視されているようだ。

①父の死後は暫く父が遺した工房で、父の弟子と共に絵画製作に励んだ後、ペルジーノに弟子入りした。
②ペルジーノに弟子入りしたわけではないが、彼と積極的に交流を持ち、その作品を熱心に模写する等して貪欲にその作画技術と、工房経営のノウハウを吸収して行った。

 今回の展覧会に併せて(?)、現在、数多くのラファエロ関連本が書店に並んでいる。私が確認した限りでは、その全てにおいて、ヴァザーリの記述に基づく「父親の生前にペルジーノへの弟子入り説」が通説として載せられている。一冊の書物が出版に至るまでの長く複雑なプロセスを考慮すれば、最新研究成果とのタイムラグも仕方のないことだろう。その意味で、展覧会カタログや展覧会関連の講演会では、最新の研究に触れられる(もちろん、「最新」はすぐに「古くなる」のも世の常だけれど)と言うのが最大のメリットなのかもしれない。

 ルネサンス芸術を紐解く手がかりとして、ヴァザーリの「芸術家列伝」は素晴らしい文献資料であることには変わりはないが、それが当時としても前例のない画期的な書物であったことを踏まえて読み込めば、些かの誤記や、創作や、表現の誇張もあり得ると言うのが、最前線にいる研究者らの見解のようである。もちろん、最新の研究成果が絶対の真実とも言い切れないものの、研究者らが遺された資料情報の断片を基に推理を重ね、謎めいた美術史を少しずつ解き明かして行く様は、名探偵が事件の謎に迫るプロセスにも似て、美術ファンにとっては作品鑑賞と共に興味深いものであろう。

 ともあれ、フィレンツェに赴く以前のラファエロは、ペルジーノから最も強い影響を受けていたのは間違いないようである。その根拠となっているのは、ほぼ同時期にラファエロがペルジーノ作品を模写したと思われる作品や、人物のポーズがペルジーノ作品とかなり似通った作品を複数遺していることだ。ラファエロは少なくともこの時代ペルジーノを手本とし、構図の取り方や遠近法、人物描写、背景描写等、当時の絵画のスタイルを学んだようである。

【参考作品:聖母の結婚】

左がペルジーノ作(1502-04)、右がラファエロ作(1504,21歳頃)



 さらに父が生前宮廷画家として築いた有力者とのコネも、独立後のラファエロをさまざまな形で助けたようだ。ヴァザーリの「芸術家列伝」によれば、ラファエロは1504年にフィレンツェ入りするに当たって、ウルビーノ宮廷の実力者、ジョヴァンナ・フェルトリアに紹介状を書いて貰ったと言う。

「本状を持参する者はウルビーノの画家ラファエロです。この者はその職の才能に恵まれ、修行のため一定の期間フィレンツェに滞在することを決めました。私が贔屓にした彼の父は尊敬すべき人物でしたし、息子は謙虚で礼儀正しい若者です。そのため私は彼をとても大切に思い、芸術を完成させることを期待しております。」

 これは当時のフィレンツェ共和国行政長官のピエロ・ソデリーニに宛てたもので、フィレンツェの有力者を知己に得たことで、ラファエロは新天地でも難なく多くの有力なパトロンを獲得したようだ。ラファエロ父子のケースに限らず、親の有形無形の遺産は、子どもの人生に大きな恵みをもたらすものなんだなとつくづく思うと同時に、新地に赴く際にもコネを巧みに利用して自身の理解者を得て、抜かりなく環境を整えるラファエロの知略家ぶりには驚くばかりだ。 

《大公の聖母》(1505-06、パラティーナ美術館)


ここでまた時間切れ。つづきはのちほど。





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