はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

『同情するなら助けてくれ』

2009年04月27日 | はなこのMEMO
タレントの清水由貴子さん(49)が、父の眠る霊園で自殺したニュースは衝撃的だった。

「タレント清水由貴子が21日、父が眠る静岡県内にある冨士霊園で死亡しているのが発見された。49歳だった。調べによると、午後1時30分ごろに清水さんと母親が倒れているのを、霊園の職員が発見。救急車が駆け付けたが、清水さんはすでに死亡していた。母親は意識不明のまま病院に運ばれている。死因は自殺とみられている。

清水さんは、1976年2月18日のテレビ番組「スター誕生!」で、ピンクレディーを上回る評価で大会最優秀賞を受賞。77年3月1日に「お元気ですか」で歌手デビューしていた。同期の高田みづえ、榊原郁恵とは「フレッシュ三人娘」と呼ばれて、人気を博していた。その後も、お母さん役としてドラマやCMで活躍していた。」(『ニッカンスポーツ・コム』)


その日は雨が降っており、 「父の墓前で横向きに倒れた状態で死亡していた彼女の傍らには、車椅子に乗った母(80)が呆然としたまま雨に打たれていた」と言う。「『迷惑をかけてすみません』『消防署に知らせてください』と大きな字で書いた紙2枚が見つかった」「清水さんの死亡推定時刻は前日の午後5時頃。母親は息絶えた娘をどうすることもできず、一昼夜をともに過ごしていた」(以上、引用文は4/23付サンケイ・エクスプレスより)。その情景を想像するだけでも胸がしめつけられる。


私と同世代で、しかも華やかな芸能界に身を置いていた女性が、老母の介護の為に仕事を辞め、最後は自ら死を選んだことに心底驚いた。その後の報道を注視しているが、概ね以下のような論調である。

・清水由貴子さんは父亡き後、女手ひとつで彼女と妹を育ててくれた母を心から愛し、長年糖尿病と腎臓病を患い、近年は失明し車椅子生活となった母を献身的に介護していた。
・母の介護と仕事の両立に悩んだ末に2006年に、デビュー以来所属していた芸能事務所を辞め、実質芸能界を引退した形になっている。最近は母をデイケア施設に預け、パートの仕事に従事していた。
自殺の原因は介護疲れか。温厚な性格で近所の人々とも良好な関係を築いており、母子の仲睦まじい姿を何度も目撃されている。在宅介護が基本だが、デイケアをはじめ公的介護サービスも受けており、関係者には介護疲れを訴える様子はなかった。自殺の前日も母と妹と3人で食事に出かけ普段と変わらない様子だった。しかしパート契約の更新はしないと妹には話していた。

母親想いの彼女はマスコミで手放しで賞賛され、その痛ましい死は同情されている(本当はもっとワガママでも良かったのに。彼女は優しすぎたんだね)。代わる代わる専門家が登場しては、介護問題を講釈する。「介護の問題を解決するには国の介護保険ではダメで、地域で取り組む仕組みを作る必要がある。家族だけの介護は限界だ」(日向野春総・常楽診療所長、精神科医)。しかし、それで良いのだろうか?彼女の死を美談仕立ての悲劇としてこのまま終わらせてしまっていいのか。他の下らないニュースと同列に一過性のニュースとして読み流していいのか。

(私の目配り不足かもしれないが)どのマスコミも「問題提起」だけで、「問題解決」の方向性を具体的に示してくれていない。かつては「老老介護」が問題視されたが、今回の清水さんのようなケースは「シングル介護」とも言われ、未婚であるが故に精神的・経済的支え手が少なく、「出口の見えない介護生活」に将来を悲観し、絶望してしまいがちだと言う。

ちなみに政府調査では、2007年には在宅介護者から265人の自殺者が出たと言う。さらに4人にひとりが鬱症状を訴えていると言われている。【追記 09.04.28】また、介護を理由に離職した人は年間で144,800人にも上るらしい。

その苦しみを公に訴える場所も殆どない。プロである介護ケアの担当者らは、個々の介護家族が悩みを吐露する受け皿にはなっているが、その思いを集約し、世に訴えて、介護問題を社会的緊急課題として世論形成する圧力装置にはなっていない。介護問題に直面し、苦闘している人々を先導し、解決に向けて具体的に効力を発揮できるはずの国や地方自治体、企業へ働きかける役割を担うべきは、誰あろうマスコミではないだろうか?

「酔っぱらって裸になっちゃっただけの」草なぎ君を追いかけ回すヒマがあったら(←これは経済的損失を拡大するだけの、社会にとって何の役にも立たない行為)、本来貴重な働き手であったはずの人々を家庭に閉じ込めてしまう、社会的損失の大きな「介護問題」の解決に繋がるような働きを少しはしたらどうなのだろう?

テレビ報道を見る限り、介護による社会的経済的損失に着目し、国や企業が解決に向けて動くべきだと提言した、『ニューズウィーク日本版』編集長の竹田圭吾氏のコメントが一番私の心に響いた。確かに介護する人々の苦悩や愚痴を周りの人間が聞くこと(私もここ数年父を介護する母の愚痴をずっと聞いて来た。中学の時には認知症の祖父が垂れ流した糞尿で汚れた自宅の廊下を拭き掃除したなあ)は多少の救いには繋がるかもしれないが、それだけではまだ不十分で、根本的な問題解決には至らない。もっとドラスティックに問題を解決するには、国民全体で介護に対する問題意識を共有し、社会全体でその責務を負うようなシステム作りをする必要がある。その為には国や企業も積極的にその作業に関わらなければダメだと思う。

具体的には(私が思いつく限りでも)
(1) 男女問わず、親族に要介護者が出た時に迷うことなく介護する権利が与えられること。或いは、介護を代替する要員を確保できること。
(2) 介護者が介護に従事しながらも自分自身の為の時間を持てる環境、十分な休息が取れる環境、さらには介護者同士、及び介護者とその周囲の人間が精神的に支え合う環境を作ってあげること(定期的に集い、話し合う場を設けるなど)
(3) (1)、(2)が当然の権利として社会的に認知され、保証されること(←介護に直接当たる機会のない人間も、介護者の立場を理解し、介護者の権利を認め、それを手助けすること)
(4) そうした仕組みを、社会的経済的損失を最小限に抑える形で、国や企業が支援すること。

自分を産み育ててくれた老親、長らく日本社会に貢献して来た老人に恩返しすることは人間の道理として当然だし大切なことだが、だからと言って、その為に若い世代が自らの人生を犠牲にするのは理不尽である。現状は、あまりにも個人に介護の負担を強いており、個人の人生を犠牲にし過ぎている。それは介護される側の立場から見ても酷である。このままでは「長生きすること」に罪の意識を負わされかねない。それが超高齢化社会である日本の最大の問題だと思う。

考えてみると、映画『楢山節考』にも描かれた「姥捨山」の存在は、老人介護の問題が昔からあったことを意味している。貧しかったが故に、衰弱した老親を山に遺棄せざるを得なかった昔。経済大国となり、食生活の向上、医療技術の発達で世界に比類ない高齢化社会となり、老親を長期間介護することが当たり前となったが故に、様々な問題が生じている現代。皮肉な話である。

個人的には脳死状態に陥った父の延命治療を巡って、最近兄弟とケンカしたこともあり、人生の終末期において人間はどうあるべきかについて考えていたところなので、今回の清水さんの一件は心にズシンと来た。最後に清水さんのご冥福を心から祈ります。

【追記 09.04.28】

嘆いてばかりいても仕方がないので、私達ひとりひとりができることを、今からでも実行に移すべきなんだろう。

(1) まず、ご近所に要介護者を抱える家族がどれだけいるか把握する。その存在を常に意識するようにする。

(2) 通りで、そうしたご家族を見かけたら、声をかける。まずは時候の挨拶なんてどうだろう?

(3) 介護家族が困難な状況にあることに気づいたなら、「各自治体に必ず設置されている」(専門家談)『地域包括支援センター』への相談を促す。そこには保健師や主任ケアマネ、社会福祉士の何れかが常駐し、無料相談を受け付けているそうだ。 

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