難聴者の生活

難聴者の日々の生活から、人工内耳など難聴者のコミュニケーション、聴覚障害者の制度改革について語る。

難聴者協会の議案書に書いたこと

2010年04月24日 23時37分07秒 | エンパワメント
協会の定期総会が5月にあるので事業報告や事業計画、決算案、予算案とも併せて、専門部から各サークルまで練り上げて、理事会で審議する。
理事会で決定された議案は連休明けに全会員に送付される。

事業計画の中に、協会の活動の困難な理由に、会員の高齢化とともに難聴者、中途失聴者自身のコミュニケーションの問題を提起した。
つまり、社会全体の高齢化の中に協会も含まれること、コミュニケーションの問題は「聞こえ」と「社会とのつながり」の両側面があることを正面からとらえて、問題の解決に取り組む必要があるとした。

協会の役員や理事は難聴者の抱える問題を総合的に学んで相互的自助支援にあたる必要がある。
研修に力を入れることにした。


ラビット 記

深夜にNHKの試してガッテンのガッテン流カレーの作り方が再放送されたので作ってみた。

聞こえるってどういうことかな?

2010年03月21日 09時22分37秒 | エンパワメント
聞こえると言うのは、会話の内容が理解できて、自分の意志に何らかの影響を与えるということで、単なる物理的に音が入るのとは違う。

音や言葉を聞いて、自分で考える、話す、行動するということにならなければ「聞こえる」ということにならない。

聞こえないからと言って、言葉をすべて文字化すれば事足りるわけではない。文字化は単なるモードの変換であって、意味を伝えているということにはならない。

受信能力を考えた発信が必要だが、また文字化すれば終わりではなく、聞こえない人がきちんと情報を受け取られているか確認して、必要な支援を考える必要がある。これが対人援助技術だ。

聴覚障害は、単なるコミュニケーションの障害ではなく、「関係性の障害」と言うのは、コミュニケーションはそれ単独で機能するわけではなく、自分と周囲の人、社会との関係を構築する元であり、目的だからだ。しかもそれは発展する関係性だ。


ラビット 記
最近、立ち飲み屋が増えた。どこも賑わっている。

「チャレンジド」という言葉について。

2010年03月21日 01時54分07秒 | エンパワメント
原口総務大臣は、障害者を「チャレンジド」と言うように省内にも
徹底させているそうだ。

しかし、一昨日の推進会議で「障害者」の表記について、いくつか
の意見があったが、「チャレンジド」は不評だった。
なぜか。チャレンジというのは障害、社会の障壁にチャレンジする
ことを指している。チャレンジするのを支援する、理解すると言う
ような意味合いがあるようだ。しかし、チャレンジすべきは社会の
方ではないか、障害者が障害を持つが故になぜ普通の人はしなくて
も良い「チャレンジ」をしなくてはならないのかという疑問がある。

障害者と言う言葉もあえて使う障害者もいる。社会によって障害を
持たされた人(Disabled person)という意味で、本来その人
には障害があるとは考えない、社会モデルとして理解しているとい
うことだ。

しかし、障害者問題は言葉の表記や語感だけで解決する問題ではな
いので、施策の転換を議論するうちに国民の中に合意が形成される
だろう。


ラビット 記
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「チャレンジド」という言葉、これは神様から生まれながらにして
挑戦をする課題をもらった人たち、生まれたときに様々な課題に挑
戦する人たち、この人たち を納税者に。
http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/kyoryoku/aisatsu.htm

難聴児に、「自立させる」とは。

2010年02月24日 21時14分44秒 | エンパワメント
45年前の中学校の悪夢が蘇る。
担任が進級にあたり、「自分のクラスでは生徒に何でも自分でやらせています。どうしてもできないことだけ手助けします。基本的に何もしませんから、僕は。」と母は言われた。

難聴児に、自分で出来ることは自分でと言って、ワイヤレスマイクも使わない、ノートテイクも付けない、何のサポートもしないというのは一見「自立」を促しているようだが、実はそうではない。
「聞く」ということで自助努力でできることはごくわずかなものでしかない。

聞こえると言うのは、会話の内容が理解できて、自分の意志に何らかの影響を与えるということで、単なる物理的に音が入るのとは違う。

難聴者が聞くという場合、神経を集中させて聞く。話の部分、単語の頭か終わりしか聞こえない言葉を脳が超高速で類推する。これがどんなにか疲れることか。聴者の手話通訳者でも通訳は20分で交代する。

難聴児が担任とコミュニケーション出来なければ、級友とコミュニケーション出来ない。逆もある。
コミュニケーションできない級友と友だちになることができない。
親とコミュニケーション出来なければ、親を通じた大人の世界との関係が築けない。
難聴は関係性の障害というゆえんだ。

障害者権利条約は、インクルーシブな教育を進めようとするが、昔のインテグレーションの名の下に難聴児をサポートのない教育の場に放り込んだ撤を踏んではならない。


ラビット 記

難聴は「関係性の障害」

2010年02月24日 21時13分42秒 | エンパワメント
難聴をコミュニケーションの障害ではなく、「関係性の障害」と言うのは、コミュニケーションはそれ自体で機能するのではなく、自分と周囲の関係を構築する元であり、目的だからだ。

何かの担当を持っている人とコミュニケーションができなかった場合、その人と一緒に仕事ができず、自分の力を発揮できない、その人の先に連なる人や社会と関係を持てない。

例えば、学校の先生とコミュニケーションができなければ校長先生や他の担任の先生と知り合う機会もせばまってしまう。

コミュニケーションの断絶が関係性の断絶になってしまうのだ。


ラビット 記

難聴者のコミュニケーションのずれがどうして起きるか。

2010年02月24日 13時02分00秒 | エンパワメント
「人工内耳装用児のパパ」のこの記事は、驚いた。

http://blogs.yahoo.co.jp/takasan_64/49996259.html


難聴者が、一般社会でどのようにコミュニケーションがずれるか、なかなか難聴者当事者でも説明できないことを説明されている。

一般社会のエゴ、特別扱いしないことの間違いを看破されている。


ラビット 記

ケア思想とコミュニケーション支援

2010年02月17日 18時47分26秒 | エンパワメント
ある難聴者からの問題提起。

要約筆記などコミュニケーション支援はその聴覚障害を持つ当事者のいる「場」への支援という言い方をしてきた。
会議だけでなく、生活全般で個人につく支援者が必要ではないかというものだ。

コミュニケーション支援にとどまらない介助者の必要性を言っているのだろう。
内閣府の障がい者制度改革推進本部にでている聴覚障害者の委員には通訳の他に、記録や資料の指さしなどを補佐する介助者が二人付いている。

日常の生活、就労の場面では、コミュニケーション支援の他にこうした介助があると、スムーズだ。

今NHKで「爆笑学問」で福島教授が指点字で爆笑問題の通訳を受けているが、確かにコミュニケーションは普通の生活をしていたら連続するし、ガイドヘルパーの役割もする。

岩波書店からシリーズで刊行されている「ケア その思想と実践」の巻1「ケアという思想」。問題提起された方も含めてさまざまな立場の人が執筆している。

難聴者の就労、生活にはコミュニケーション支援にとどまらない多面的な支援が必要だ。
どのように社会と行政に説明して理解を得るか、新しい分野の支援になる。


ラビット 記

難聴者の相談支援について

2010年02月08日 13時02分03秒 | エンパワメント
昨日、K市の難聴者の相談支援担当の方と話していたら、ろう者の相談は「線」だが、難聴者は「点」だと思うと。

ろう者は何かあって相談支援するとその問題は一回で解決しないで、何回か継続的に関わることになる。あるいは別の問題を持ち込んで来て、必然的にそのろう者の生活全般を見なければ本当の支援が出来ないということが分かる。
難聴者の場合は、補聴器のこととか人間関係のこととか問題が明確でピンポイントだと言う。その問題が解決するとたいていそれで関係は終ってしまう。二度と来ない人がほとんどという話だった。

なるほどとは思うが、難聴者が「点」というのは問題の表層の一部しか見ていないのではないかとも思う。
補聴器の相談に来た難聴者は、補聴器店で薦められた補聴器が合わない、もっと聞こえる補聴器はないか、どこで買えば良いのかと聞きに来たら、補聴器で聞きたいことがあったのだろうと考えたい。
何を聞きたいと思ったのだろうか、家の中で、職場で何か聞こえないことで何かあったのだろうか、そうしたことを少しでも引き出せる相談支援が必要だろう。

先の相談支援担当者はそうしたことは分かっていてもなかなか先の支援が出来ないことを悔しく思っているのだ。
難聴者の方が何か自分の聞こえないことを隠したい、恥ずかしいことだと思っていたら支援もなかなか難しいだろう。
社会全体が聞こえないことを理解して、普通に接してくれる環境、難聴者の自覚を促すような場、エンパワメントの場が必要だ。

【このブログの中のピアメンターに触れた記事】
興味のある方は、カテゴリーを「エンパワメント」にしてみてください。
※以前の記事にはURLがハイパーリンクになっていないものがあります。

難聴者のリハビリテーション ピア・メンター・プログラム 2007.4/1
http://blog.goo.ne.jp/hearingrabbit/e/028c2a95c9af592211aa09e5ab78c4dd

人工内耳後のコミュニケーションの変化を観察する(1/2) 2008.1/2
http://blog.goo.ne.jp/hearingrabbit/e/50570875171c920e0907b99aeefd754b

難聴者の自立支援に心理学の必要な理由 2009.7/20
http://blog.goo.ne.jp/hearingrabbit/e/a9b1b675e3788e4bc5f9e3e1872ec30e

障害者政策研究全国集会自立支援分科会と難聴者問題 2009.12/6
http://blog.goo.ne.jp/hearingrabbit/s/%A5%D4%A5%A2%A5%E1%A5%F3%A5%BF%A1%BC





「筆談ホステス」を見て。

2010年01月10日 23時59分58秒 | エンパワメント
21時からの「筆談ホステス」を見た。

これまでの聴覚障害者を扱ったドラマと違うことがあった。
それは会話の中に身振りやジェスチャーはあっても手話が一度も出なかったことだ。
聴覚障害者=手話の定式化があてはまらなかったドラマは聴覚障害者の多様性を示すものとして意義は大きい。
新聞の番組欄にも「耳の聞こえない」とあった。

もう一つは、聴覚障害者に重要なことはやはり自分に対する「自信」が持てるということが描かれていたことだ。
ドラマにも出ていたが里恵は洋服店でもクラブでも筆談でコミュニケーション出来たことが自信につながっていた。

聞こえる、聞こえないではなく、自分が認められるということが自分に対する自信であり、生きる原動力になる。

三つ目は、聴覚障害者は自分を理解し、支援出来る人が必要だということだ。
里恵には洋服店の店長、青森のクラブのママと弟とかがいて、「大丈夫」、「頑張って」と励ます人がいた。

聴覚障害者に必要なことは、聞こえる聞こえないではなく、自分が生きていることに意味があることを理解し(自尊心)、コミュニケーションの力を身につけ、価値観の多様性を身につけることだ。
そのためのプログラムとそれをきちんとリードできる専門家、ピアメンターが必要になる。

この番組は、聞こえない難聴者問題を解決するために何が必要かを考えさせてくれた。

聴覚障害は、少し難聴気味の高名な聴覚障害児教育の学者をして、難聴になって初めて難聴は説明するのが難しいと言わせるくらい、理解が難しい。

こうした理解のない社会と環境の中で、聞こえないことの意味と自分の生き方を考える機会を与えられる制度が必要だ。

それは、頑張った人だけとかたまたま機会が得られた人だけでなく、様々な聞こえない人がそれぞれにあった支援を受けられなくてはならないからだ。その機会を得ることは権利なのだ。

手話か筆談かでもなく、新聞の番組欄にある「愛と涙の感動秘話」という理解では聴覚障害者は救われない。


ラビット 記

難聴者の上司はどうして怒るのか?

2009年12月27日 08時31分09秒 | エンパワメント
難聴者のエンパワメントには、周囲に起きる状態を理解して対応することを学ぶ必要がある。

街中で電話しなければならないときどうするか。知人に食事を誘われた時どうするか。自治会の総会に出なければならないがどうするか。
など、聞こえに関する断片的な知識を立体的に使う方法を学ぶのだ。

職場の上司がいつも怒るがどうすればよいか。
なぜ怒るのか。聞こえる世界の人として通常の声で伝わるコミュニケーションをしていれば、スムーズに伝わらないのは想定外のことであり、どのように難聴者とのコミュニケーションにどう対処すればいいか知らない時、慣れていないとき、頭だけで理解している時、ストレスとなって思わず怒りの感情に転化するのではないか。難聴者を責めているというよりは、スムーズな理解につながらないことが怒りの表情、感情に出るのではないか。

自動車教習所の教官がなかなか出来ない受講者にも怒りがちだし、職場でも先輩の女性社員が後輩に仕事を教える時に間違いを繰り返したりする場合、パソコンの初心者に同じ操作方法を何度も聞かれた時とかに、一般社会でも怒りっぽくなっているのは何度も見ている。

つまり、このくらいのことは出来るはず、分かるはず、伝わっているはずと思いこんでいることが出来ていないとそれがどういうわけか「怒り」の感情に転化するのだ。
相手を責めているようだが実は自分の対応の不十分さに対して怒りを持ってしまうのではないか。

ということを難聴者が知っていれば、怒っている上司にこっちだってもっと分かるように伝えて欲しいとか怒りの感情を持って対応しては本当に「対立」してしまうので、その時はいったん「お詫び」をしてやり過ごし、改めて筆談等で確認するのが良いというようなことを学んでおく。


こういう例を集めて、学び合う場が難聴者には必要なのだ。難聴者寺子屋か。


ラビット 記
今朝のホテルから見た朝日

難聴者の手話「指導」の中身

2009年12月06日 19時39分48秒 | エンパワメント
難聴者が初めて手話を学ぶ時に、最初から手話ありきではない「指導」が必要。

難聴者は誰でも普通に生きる権利がある、普通にコミュニケーション出来るし、自分に合った方法でかまわないということ、難聴者が主体性を持っているということを自覚して、「自立をともに進める」立場で手話の学習を支援するということ、自分たちが教えることにしないといけないということを今日話し合った。


ラビット 記

中途失聴者、難聴者の「手話」

2009年12月03日 09時46分22秒 | エンパワメント
中途失聴者、難聴者の手話の学習は、健聴者のそれと違って、コミュニケーション方法の習得そのものと学習の経過が広義のリハビリテーション、自立へのサポートになっている。

ろう者の場合には、ろう学校、ろうコミュニティの中で身につけることが難聴者の場合にはそうした機会がほとんどない。
中途失聴者、難聴者にエンパワメントするのに手話の学習は非常に有効であるが、難聴者等にとっての手話の意味や手話の「学習」についても考えが確立していない。

東京の難聴者協会は会員数が700名近いが、多くが
難聴者対象の手話講習会の受講生だ。みな、2年間の学習を終えてからもサークルや各種の集まりで手話を学んでいる。これは手話を学ぶことだけが目的ではないことを示している。

問題は、そうした学習の場や集まりに来るまでに悩んでいる人たちに働きかける方策が限られていることである。
インターネットやDVDを使って、そうした方々と周囲の方々に参加を呼びかける講座を企画中だ。
それは手話そのものを学ぶ講座ではない。


ラビット 記

「難聴学級」は社会生活力養成プログラム

2009年11月20日 04時54分41秒 | エンパワメント
難聴になった人は、難聴者ではない。
ここでいう難聴者とは自立への意識を持った人のこという。

難聴になるのはなぜか、難聴になるとどういう問題が起きるか、自分と社会の関係を「障害」と見るか、難聴を補う方法、難聴者としての誇り、社会福祉サービスの使い方、権利、エンパワメント、仲間意識と組織、など学んで難聴者になっていく。

しかし、難聴者になるための場所はほとんどない。難聴者が自力で学ぶか、難聴者のセルフヘルプグループに入り、活動や役員の経験の中でつかんでいくしかないだろう。
ろう者が同年代の子が集まって、ろう学校の中で先輩のろう者と一緒のコミュニティがある。親もろう者のコミュニティにいるだろう。小さいときからそれらのコミュニティから手話を身につけ、ろう者のアイデンティティや権利意識を育成する。

ろう者と違って、難聴者はその障害を持った時は、集団やコミュニティを形成していない。
難聴者は、様々な聞こえのレベルを通じて共通のコミュニケーション基盤がないということもある。後天的に発生する難聴者はお互いにどこにいるか、コミュニティを形成する機会がないからだ。

知的障害者、精神障害者は、社会の中で自立する力を得るために「生活訓練」を受ける必要がある。
これは、自立支援法でも訓練等給付として制度化されている。

この自立する力を身につける訓練プログラムは、「社会生活力プログラム」として、すでに筑波大学の奥野英子教授らが開発されている。
『実践から学ぶ「社会生活力」支援―自立と社会参加のために』


これの難聴者版の開発が求められているのではないか。
母親学級の難聴者版「難聴学級」=聞こえの教室のようなものを目指すのだ。


ラビット 記

聞こえと心身のバランス 難聴の場合

2009年10月23日 08時58分15秒 | エンパワメント
昨日、股関節がねじれたようになって歩けなくなった。
原因を考えてみると、月曜から新調した靴に履き替えたがやや大きいだったので靴が緩く、身体が揺れないよう脚部、大腿、臀部と筋肉を使って支えていたので股関節まで痛めたのではないか。

難聴者の聞こえも心身の微妙なバランスの上に成り立っているような気がする。
聴覚機能の障害でも精神状態、心理状態も相互に作用している。視覚や肩の張りなど身体の各部分とのバランスが取れている。

聴覚障害を見る時に、ICF国際生活機能分類の個人因子、環境因子を個々に検討することが重要だと思う。


帰路靴の中敷きを買ったが柔らかいのだったので逆効果だ。


ラビット 記
通勤路のハナミズキが赤い実をつけている。

難聴者の各成長過程が現在の「問題行動」に

2009年07月20日 08時55分32秒 | エンパワメント
Image187母200907.jpg今日は実母の誕生日だ。実家近くの介護付きのホームに暮らしている。お盆でもあるので訪ねたいと思っていたが今日になった。

今、学習している臨床心理は、第4章に入る。出生から児童期、青年期を経て、大人の時期をこれから取り上げる。
問題行動や症状を起こす人は、誰にとって「問題」なのか、青年期以前にも遡ったり、社会的な背景にも考察することが必要とある。
前章を読み直してみた。各成長期の経験とともに起こってくる問題を適切に対応してきたかどうかが現在の問題行動の背景になっている場合があるということだ。


同居している義母を見て、イライラしてくるのは、なぜか考えてみた。
乳児期からの難聴のため、成人して親と離れて暮らすようになって今に至るまで親と妹弟たちと会話が出来なかった。自分には乳児期から中学生まで難聴で会話の記憶が全く残っていない。この時期は、テレビも少年ジェットやオオカミ少年ケン、鉄人28号を見ても主題歌のワンフレーズしか記憶にない。言葉のコミュニケーションによる人間的成長の機会を失っている時期だ。

弟夫婦や妹が忙しい中、実母に面会してくれているが、母親とも兄弟とも「家族」関係を築けなかったことと今長男である自分がその役割を果たせないでいることがコンプレックスになっていることが影響しているのかも知れない。

昨日は、その義母から「家族だから一緒にご飯を」なんて言われるとたまらず、家を飛び出してしまった。
実母のところに行けば良かったが妹と弟に気兼ねしていけなかった。今日は聴覚障害者自立支援センター祭りの警備員を担当する。


ラビット 記