楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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晩秋の小石川後楽園2―都立庭園へ行こう(その8)

2016年12月10日 06時05分45秒 | 東京の庭園
2016.11.18.小春日和。

桜の咲く春はとっくに過ぎて、秋も深まった日に、

「もみじが綺麗かもよ」とカミさんが後楽園へボクを誘った。

晩秋の日差しも気温も18℃と良好で、出かけることにした。

小石川後楽園に到着すると、入口に救急車が停まっている。
どなたか具合の悪い人でも出たのかと思いながらも、
入場券を購入する、65歳以上150円であった。

後楽園の門前に「深山紅葉を楽しむ」の看板が。
そして入場券売り場までの道路には落ち葉がたまっている。

(小石川後楽園の門)

(落ち葉がたまった入り口までの道路)


パンフレットに「東京に残る深山幽谷」とある。
そうかと思いながら、園内に入って、秋の深まりに眼を見張った。

小石川後楽園はご存知の水戸の黄門様が完成した回遊式庭園です。
黄門様の徳川光圀は、
造成に当たり明の朱瞬水(しゅしゅんすい)の意見を取り入れ、
円月橋、西湖堤など中国の風物を取り入れたと言う。
園内は全部でおよそ二万坪の広さ。

(小石川後楽園全図) 

(最初に目に入る小廬山と紅葉)

(大泉水と上の方に見えるのは東京ドーム、以前の後楽園球場)

(有料のお茶が頂ける涵徳亭の紅葉)


涵徳亭(かんとくてい)東側の紅葉がきれいであった。
後は説明が要らない、紅葉をご覧ください。

(涵徳亭東側の紅葉1)

(涵徳亭東側の紅葉2)

(涵徳亭東側の紅葉3)

(屏風岩)

(沢渡り1)

(来た道を振り返った所)

(沢渡り2山の上から)

(通天橋)

(通天橋から沢渡を俯瞰)


冒頭に後楽園入り口に救急車が停まっていると書いたが、
この通天橋のふくらみで足を滑らしたご婦人が転んで、
頭を岩にぶつけて意識不明になった。
救急隊員とストレッチャーに乗ったご婦人に、
ご主人らしい人が、しきりに呼びかけていた。
痛ましい光景であった。
大事に至らぬようお祈りするより仕方がない。

後楽園内をぐるりと回って、
4年前の春には東北大震災の影響で破損していた円月橋の前に来た。
すっかり修復されて、橋の半月が水面に映って円が描かれた形になる。

(小廬山の上から)

(円月橋)

(水面に写る円)


後楽園の西北にきた。春には梅が咲き誇る場所である。
流れるのは神田川、この上流の高田馬場付近のアパートをモデルに作詞され、
大ヒットとなったあの「神田川」である。

この一角に水戸藩の藤田東湖護母の碑がある。
水戸藩の側用人として活躍した藤田東湖は、
安政の大地震で、地震発生時に東湖は一度は脱出するも、
火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追い、
落下してきた梁(鴨居)から母親を守るために自らの肩で受け止め、
何とか母親を脱出させるが、自身は力尽き下敷きとなって圧死したといわれる。
母を護った場所としてその碑は建てられた。

(神田川のある場所右手が梅林)

(藤田東湖の碑)

(藤田東湖 先生護母致命之處碑)


さらに進み大泉水の奥から池と紅葉を眺める。
水面に映る紅葉もまた美しい。

(大泉水と紅葉1)

(大泉水と紅葉2)

(大泉水と水面に映る紅葉)


東北の震災地を優先したため後楽園の護岸工事は今たけなわである。
目の覚めるような、華やかな紅葉を眺めて後楽園の見学は終わりにしたい。

(震災後の護岸工事中の回遊路)

(目の覚めるような紅葉)




春先の小石川後楽園―都立庭園へ行こう(その8)

2016年12月03日 06時06分14秒 | 東京の庭園
2012年の春先、小石川後楽園を訪ねた。(2012.3.16.)

(小石川後楽園入り口)


(入園料:一般300円、小学生以下と都内在住・在学の之中学生は無料)

(庭園入り口)


進むと左右に開ける。

(庭園1)

(庭園2)

(庭園3)


後楽園の名前は「先憂後楽」から採った。
水戸光圀が「民に先立って国を心配し、民が楽しんだ後に自分が楽しむ」
つまり、「苦労は先に片付ければ、後に安楽が待っている。」ということを表わした名前。
原文は「岳陽楼記(がくようろうき)」にある
「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみにに後れて楽しむ」から命名したとある。

3月16日近所の梅が良く咲いたので、
小石川後楽園もきっときれいに違いないと、
期待して出かけた。
庭園に入ると、沢山あるサクラの木が寒そうに池の畔に立つ。
「春、サクラの季節になったらまた来ようね。」とカミさんに話しながら、
池の周りを散歩する。
池の端の石が、先の東北大震災の影響で崩れかかっているので、
「入らないでください」と竹で囲いがしてある。
もだ、後楽園までは、手が回らないようだ。
職人さんはまだ東北の方に行っているに違いない。
こんな所にも震災の影響はあったと驚きながら、梅林があるほうへ向う。

(丸屋)

(大泉水1)

(大泉水2)

(護岸の石は崩れ易い)

(白糸の滝)

(梅林1)


梅林は花が咲き揃って、とても美しい。
沢山見学者が写真を撮っていた。勿論ボクもそのうちの一人。
梅は一輪一輪も良いが、沢山あるのを遠景で観るほうがボクは好きだ
プーンと香る かすかな匂いも素晴らしい。

(見学者が多い)

(左手の流れが神田川)


梅林の横に神田川が流れている。
川に沿って歩くとその先に、円月橋がある。
ここも震災で石の足場が修復中で進むことが出来ない。
さらに光圀が朱瞬水の意見を取り入れて造った中国の西湖の堤も、
改修中であったので、
早々と引き揚げることにした。

(円月橋)


後楽園の周りを囲む外壁は白い土塀になっていて、
下段に積み上げた石垣は、
千代田城の外堀の石垣に使用されたものと同じ、
と説明にある。

(円月橋の足元の修復地)

(崩れた堤を修復している西湖の堤)

(後楽園を囲う土塀の石垣)


途中、お腹が空いたので食事をと思ったが、
大きなビルはあるものの、食事が出来るような場所が無さそう。
サラリーマン風の人たちがまとまって進む方向を見ると、
どうも弁当屋が出張販売に来ているので、それが目当てらしい。

食事場所はどこにでもあると、高をくくったのが間違いの元。
飯屋を探し歩くと、路地の奥で、サラリーマン風のネクタイ姿の人が、
しもた屋の前で立って下を見ている。
遠くからサラリーマンが見ている下を覘くと、
メニュウらしき看板を見ているようだ。
思い切って近づいて行くと、やっぱりメニュウで、
お蕎麦とうどん、それにサラリーマン用にセットメニュウがある。

ボクはマーボライスにおそば、カミサンが炊き込みご飯にうどんが好いという。
中を覘くと、人が列をなしている。
すごい満員だよとカミサンに言うと、丁度出てきた人が、
「回転は速いし、お値段もリーズナブルだし、少し待っていれば入れますよ」と
元気付けられたので、中に入ってチケットを買うのに先ず並ぶ。

チケット売り場で、ボクが年寄りと思ったのか、
普通盛りでなくスモールサイズがあるというので、
お願いしたら150円も安くなった。二人分〆て710円也。
殆んど待つことも無く出来上がり、
丁度適量の蕎麦とマーボライスを頂き、店を出た。

(子供の遠足か、楽しそう)

(紅梅)

(白梅)



秋になって紅葉の後楽園を観ようと出かけた。

つづきは次回へ。

六義園ー都立公園へ行こう (その7)

2016年11月30日 07時00分20秒 | 東京の庭園
都立庭園は全部で9庭園あります。
その一つ「六義園(りくぎえん)」へ行ってきました。

(特別名勝 六義園のポスター)

(六義園を囲むレンガ塀)


六義園の回りは赤いレンガ塀で囲まれている。
庭園としては、少し物々しい感じがしないでもない。
さすが川越藩主で、五代徳川将軍綱吉の信任厚かった柳沢吉保の庭園だっただけの事はある。
明治になって三菱の創業者 岩崎弥太郎の別邸となり、
昭和13年(1953)東京市に寄付された庭園です。

(六義園入り口)

(内庭大門)


受付で料金を払い、内側の門をくぐると、
春は桜のライトアップで名高いが、
今は葉を落として見る影もない枝垂れ桜が、入園者を待っている。
その脇に、今盛りの菊の懸崖の鉢植えが色とりどり並んでいる。
その先に竹垣に囲まれたもう一つの門があり、
夜間の来客に合わせて、竹で作った門燈が両脇にぶら下がっている。
外国人が、中にろうそくが入っていると説明しているのが聞こえたので、
無粋であるが、電気のケーブルがつながっているので、
竹の中は電球ですよ、と訂正した。

(葉の落ちた枝垂れ桜)

(六義園)

(懸崖の菊の鉢植え)

(竹垣に囲まれたもう一つの門)

(左右の柱にぶら下がった竹製の門灯)


門をくぐると、芝生に広がる庭園の向こうに池が見え、
囲まれる木々が色づいて、黄色、赤と青空に映えて美しい。

(六義園を作庭した柳沢吉保が著した日記「楽只堂年録/らくしどうねんろく」の、
元禄15年10月21日の項にある「六義園記」には、
六義園の作庭意図や、
「八十八境」と呼ばれる名所の由来が記されています。)(東京都公園協会による)
その日記には「六義園」図があり、「むくさのその」の振り仮名があり、
元は「りくぎえん」でなく、「むくさのその」と呼んでいたことが解る。
それが後に「りくぎえん」と呼ばれるようになって「りくぎえん」と読むようになった。

紅葉の始まったばかりの六義園では、
恒例の雪吊りの準備が始まっており、植木屋さんは大忙し。

雪吊りを障害者に説明しながらの作業は思い通りに進みません。
そのうち一般観光客も混じって、一大イベントになってしまいました。

(青空に始まった紅葉が美しい1)

(青空に始まった紅葉が美しい2)

(池を挟んで雪吊りが絵になる)

(雪吊り1)

(雪吊り2)

(雪吊り3)

(車いすの人に説明する植木職人)


順路に沿って進むと、森の木陰に宣春亭があり、お茶室になっている。
池の方を見ると蓬莱島が陽に照らされて鮮やかである。
蓬莱島はあの世の極楽を顕す。

(蓬莱島1)

(蓬莱島2)

さらに進むと、石柱「志(し)るべの岡」があります。

庭内には88カ所の景勝地があり、
それぞれに案内の石柱が建てられていたと言うが、
現在残っているのは32カ所と言う、
そのうちの一つです。

その先に滝見茶屋がある。
この茶屋(東屋)の横を渓流が走り、
滝や石組み(水分石)など景観を楽しみました。

(「志(し)るべの岡」の石柱)

(滝見茶屋)

(滝や石組み)

(茶屋から見た景観)

池を一巡りして、先ほどの雪吊りを作業していた場所を、
反対側から見ると、
まだ職人さんが作業していると見えて、人だかりがしている。
池を見ると、景色が池の水面に反映して美しい。

(人たかりの雪吊りが水面に映って美しい)

この時期に、松の木の枝についている害虫が、
暖かい場所好んで越冬する習性を利用し、
幹に巻いた菰の中に誘い込んで捕獲すると言う、
伝統的な害虫駆除の菰巻きの様子をご覧ください。
庭園の趣旨を汲んでか、見栄えのする荒縄の結び方です。
この菰は虫が這い出ると言う3月の啓蟄(けいちつ)の頃、
幹から菰を剥いで焼却します。

(荒縄の結び目)

蓬莱島を反対側から鑑賞します。
日に映えて紅葉が目に沁みます。

(蓬莱島)

(その紅葉)

(紅葉を裏側から見て)

(渡月橋)


これで六義園を一周しました。
帰りは染井門から退出します。
染井門を出ると、道路反対側にJR駒込駅が見えます。
JRでお出での方は駒込駅が近いですね。
なお、入場料は
一般300円、65歳以上は150円で、
休園日は年末年始(12/29~1/1)の4日間だけです。

(六義園の染井門)

(JR駒込駅)




向島百花園―都立庭園へ行こう (その6)

2016年08月06日 05時43分02秒 | 東京の庭園
都立庭園は全部で九庭園ある。

今回は、六つ目の向島百花園を訪ねた。

(向島百花園)


場所:墨田区東向島3-18-3
交通の案内:JR亀戸・日暮里駅より都バス(里22)百花園下車徒歩3分
      東武伊勢崎線(スカイツリーライン)東向島下車徒歩8分

JR日暮里駅で(里22)の都バスを探した。
駅から降りた所へ(里22)のバスが通りかかったので、
そのバスが停まるところから乗れば向島百花園へ行けると思い、
後を付いて行くとロータリーの向こう側に停まったので、
乗り場はそこにあると早合点したが、
そこは乗務員が降りてきてJRの駅に入って行ってしまった。

バス乗り場は何処かとロータリーを歩いていると交番が目に付いた。
お巡りさんが何人もいたので、
「向島百花園へ行くバスの乗り場は何処ですか?」と聞いたところ、
その交番の目の前が乗り場であった。

目の高さより下ばかり見て歩いているから、解らないだけであった。
ちょっと上に目をやれば、バス停が見つかったのに・・・。

家宅捜査をするときは、
「目線より上か、膝の高さより下を探すが鉄則」と聞いたことがある。
人が物を隠そうとする時は、目から上か膝より下が多いと言う。
カミさんがへそくりを隠す時はこんな場所が多いようだ。
探す人は、そこには目が行かないらしい。

脱線したが、(里22)のバスに乗って約30分もすると、
「百花園前」で停まる。
ちょうど「百花園入り口」の信号機のある所だ。

(「百花園入り口」の信号機)


信号を渡って右に入ると、

百花園はさらに左へと道路案内がある。
左を見ると樹木が折り重なっているので、どうやら庭園がありそうだ。

(向島百花園は左への案内)


少し歩くと、右手に子供広場があって、
数人の子供がボールを蹴って遊んでいる。
広場の奥を見ると水飲み場があって、
その横に向島百花園の案内看板がある。

(子供広場)

(右側の子供の広場と百花園の案内)

看板の方向に進むと、
右奥に百花園入り口がある。

(向島百花園入り口)


入り口手前に「名勝 向島百花園」の石碑があるが、
これは徳川慶喜の揮毫によると言う。
徳川慶喜と言えば、徳川幕府最後の将軍(?)で、
大政奉還後は、巣鴨あたりに住んでいて、
ここを起点に足を延ばして写真を撮っており、
名所旧跡の写真が残されている。
それなりの当時の文化人であったように思う。
少しピンボケであるが、百花園の石碑を載せて置きたい。

(百花園の石碑)


入園料は、下記の通り:

入園料:一般150円(65歳以上70円)
    無料:小学生以下および都内在住・在学の中学生他
無料公開日:みどりの日(5/4)都民の日(10/1)

休園日は、年末年始(12/29~1/3)の六日間のみ
開園時間:AM9:00~PM17:00

以上の通りであるが、広さは約1万㎡だそうだ。

ボクは70円払ったが、「65歳以上の証明入りますか」と受付で聞くと、
「いいえ、お顔を拝見すれば解りますが、生まれ年を教えて頂けますか」という。
つまり顔パスである。


百花園に入ってすぐ左に芭蕉の句碑が建っている。
句碑には、「春もやや けしきととのふ 月と梅」とある。

(芭蕉句碑)


            はせを 

・春もやや      月
    けしき      と
      ととのふ     梅


とある。

ボクに解る句碑はこれくらいしかない。

東京都の説明によれば、
(向島百花園は、江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804=1830)に、
骨董商を営んでいた佐原鞠塢(きくう)が、
文人墨客の協力を得て、
花に咲く草木鑑賞を中心とした花園をとして開園した。
「百花園」とは、一説では「四季百花の乱れ咲く園」
と言う意味で付けられたとされる。
開園当初は360本のウメが主体で、その後、
詩経や万葉集など中国・日本の古典に詠まれた有名な植物を集め、
四季を通じて花が咲くようになりました。
唯一現代に残る江戸時代の花園です。)とある。

東京都の説明にあるように、
園内には、当時の文人達の足跡としての句碑・歌碑・詩碑があり、
全部で29個あるらしいが、
ボクが知っているのは上記の芭蕉くらいしか無いのは恥ずかしい限り。

また四季に咲く花に至っては、
アジサイと桔梗と萩程度とお粗末なもので、
百花園に入る資格がないと言っても過言ではない。
それらが集まって、美しい庭園になっている事は理解できる。

(萩のトンネル)

(桔梗の花)


芭蕉句碑の先に「福禄寿尊堂」があり、
その先に文人が集まったであろう「御成り屋敷」がある。
御成り屋敷の座敷のガラス窓際に立てば、
こじんまりとした風情のある池が見渡すことが出来る。
池の向こうに借景として東京スカイツリーがそびえる。

(福禄寿尊堂)

(御成り屋敷入り口)

(御成り屋敷の正面)

(座敷から見た風情のある池)

(遊歩道)

(東京スカイツリー)


その「御成り屋敷」の前にもう一つの芭蕉句碑があることを記しておきたい。

句碑には、

・こんにゃくの 
        さしみも些(すこ)し
               うめの花

(もう一つの芭蕉句碑)


萩のトンネルを出た所には、東屋があり休憩できる場所が用意されている。
他にも見所は沢山あり過ぎて紹介しきれない。
百聞は一見に如かずと言います。
ぜひ、足を運んでいただいてご覧下さいますよう、お願いします。

(休憩所)

(あじさい)

(別の見所)

(日本橋の橋脚)


この石の橋脚にある「日本橋」も徳川慶喜のが書いたものらしい。


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