比叡山を焼き討ちにした信長。
その最期の地「本能寺」を訪ねた。
(本能寺山門)
京都市の説明では、
(-―前略ー―
本能寺は、天正十年(1581)、織田信長が明智光秀によって襲撃され(本能寺の変)、
自刃した所として世に名高いが、その折、
三十余りの宿坊を構えた大伽藍は灰燼に帰した。
その後、豊臣秀吉の都市計画により、天正十七年(1589)、
現在の地に移転再建したが、江戸時代後期に天明・元治の大火にかかり、
堂宇はことごとく焼失し、
現在の本堂は昭和三年(1928)に再建されたものである。)とある。
(本能寺本堂)
(信長公霊廟)
左のほうに見える供養塔は、信長側近(森蘭丸などの)の供養塔。
(信長の供養塔)
その最期の地「本能寺」を訪ねた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/ca/b0c8760ba53eafdab7e5f0c4319803f3.jpg)
京都市の説明では、
(-―前略ー―
本能寺は、天正十年(1581)、織田信長が明智光秀によって襲撃され(本能寺の変)、
自刃した所として世に名高いが、その折、
三十余りの宿坊を構えた大伽藍は灰燼に帰した。
その後、豊臣秀吉の都市計画により、天正十七年(1589)、
現在の地に移転再建したが、江戸時代後期に天明・元治の大火にかかり、
堂宇はことごとく焼失し、
現在の本堂は昭和三年(1928)に再建されたものである。)とある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/7e/356408390a463924d9f27eb5f5181226.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/70/908f27597d0989061c95762cc8bc8e08.jpg)
左のほうに見える供養塔は、信長側近(森蘭丸などの)の供養塔。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/1b/937e70c5057712b8d4e2e21e014c102a.jpg)
もし生きていたらどうなっていたでしょうね。
白河法皇でも意のままにならぬものが3つ
〔天下三不如意〕
①洪水 ②双六の勝負 ③比叡山延暦寺の僧兵
…とありますね。それ以外は全て意のままと。
白河法皇でも同じ思い
平均寿命だったのでしょうね。
ボクの母は54歳、父57歳で平均的でした。
今や医学の進歩で
男子平均79.64歳、女子86.39歳。
75歳人口、男子11.6%、女子15.4%。
90歳人口、男子4.4%、女子5.7%。
すごいですね。
ytakei4さんの時代には、
死ねなくなる時代となり、
死ぬ時期について、
自由が求められる日が来るようにおもえます。
やはりゆめは壮大だったのでしょうね。
記憶がおぼろげで想いだせませんな。
供養塔が建っていたのは覚えているんだけど。
何せ~ 京都のお寺は色々とお参りしているから記憶がごっちゃになってますな。
こじんまりとしたお寺でした。
本堂右手に修行僧の家が並んでいました。