川原寺跡前の万葉歌碑のある場所から、田んぼの中の道を南へ歩いていくと、橘寺の前に出る。この橘寺も、小さい頃から何度となく来たことがある。遥かな昔は、日本書紀の天武天皇9年の条に「橘寺尼房失火、以焚十房」という記載があるように、多くの建物が建って栄えていたようである。
東門の前にある五重塔の基壇や礎石、心礎などで往時の姿を偲ぶことができる。
創建当初は、中門、塔、講堂、金堂が一直線に並ぶ四天王寺式か山田寺式の伽藍であったと言われている。橘寺が、聖徳太子の出生地と伝わることから四天王寺式と考えたいところではある。
現在は、本堂(太子堂)や観音堂などわずかな建物が残るのみではある。
と言いつつも、小ぢんまりとした境内の雰囲気が割と気に入っていて何度となく来ていることになる。特にここ数年は、彼岸花を見にこの周辺をうろついていることが多い。
橘寺の周りは、棚田の畝に彼岸花が多く咲いていて、彼岸花の赤い色と田んぼの浅黄色とのコントラストが非常に美しい。この時は、残念なことに彼岸花が満開になるのはもう少し先のようだった。
さて、橘寺の境内の中にも万葉歌碑が建てられている。往生院の向かい、収蔵庫の前である。
歌碑には、「橘の 寺の長屋に 吾率宿し 童女放髪(うないはなり)は、髪あげつらむか」と記されている。割と新しそうな歌碑なので字は読みやすい。
この歌の大意は、橘の寺の長屋に連れ込んで寝た童女髪の少女は、今は髪を結いあげて誰かの妻になっているのだろうか。」ということになるのだが、ちょっと現代から見ると、倫理的にどうかという内容にはなるのだけど、どうなんだろう。 うないはなりは、肩のあたりに髪を垂れ放した振り分け髪姿をいい、13、14歳ぐらいの少女の姿であるとのこと。
「古歌に曰く」とあるので伝誦歌であったのかもしれない。実際の光景を詠んだのではないのかもしれないなあ。
古のことゆえ、その辺りはおおらかであったのかもしれない。
歌碑の周りには、紫式部が小さい紫色の実をつけていた。これって、源氏物語の紫の上の話をふっと思い起こさせる。意図的なのか偶然なのか。面白い。
歌碑の近くでは、芙蓉が白い花を咲かせていた。
今年は、夏は猛暑で、息も絶え絶えな時期を過ごしたが、9月に入るとあっという間に秋の訪れとなった。
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