宝泉院から勝林院の前を折れて、後鳥羽天皇、順徳天皇大原陵の横を通り、律川を渡って、三千院に向かう。
三千院までは少し登りになっており、両側には近江の穴太衆が作ったと言われる石垣が続いていた。そして、もうお昼だというのにまだ雪が残っていた。いかにも人里離れたわびしい佇まいであった。
三千院については、以前もこのブログで取り上げたことがある(「京都大原を歩く① ~三千院~」)のだが、その時は、カバンの中にカメラを入れて、コインロッカーにしまってしまい。仕方なく写りの悪いガラケーで写した写真を使っている。それがとても残念である。
まずは、御殿門と呼ばれる薬医門形式の門から入るのだが、豪快な石垣とその上の白壁がいかもの門跡寺院であるという格式の高さを感じる門構えである。
ここから左手に曲がって、拝観料を支払って中に入る。拝観料は700円。どうやら最近、値が上がったようだ。
昔、来たときは、抹茶代も入れてこれぐらいの値段であったような気がするし、もっとさかのぼると、古都税で京都市と寺院が揉めたときは、拝観料の代わりにお布施(?)を支払い、簡単な写経をして、見せてもらった記憶もある。
中書院から客殿へと移動する。
客殿の周りには、聚碧園という池泉回遊式の庭園が広がる。
昔、来たときは、ここで緋毛氈の上に座って、ゆっくりと庭園を眺めることができた記憶があるのだが、今は、お抹茶を別で買った人だけが座れるようになっていた。
う~ん、なんだかなあ。
ここから宸殿に向かう。
宸殿は、宮中の紫宸殿を模して建てられた大正時代の宮殿風の建築である。通常のお寺の本堂であり、本尊薬師如来像を安置している。
宸殿の周りには、有清園と呼ばれる庭園が広がり、杉木立が綺麗だ。新緑の頃はさぞかし気持ちのいい景色を見ることができるのだろう。ここからは、靴を履いて、外に出ることができる。
そして、この杉木立の有清園の奥に、国宝の往生極楽院がある。
三千院は、三千院門跡と言われている通り、皇室の子弟が入寺し、梶井門跡とも言われている。その創建は平安時代にまで遡るのだが、今の寺地に定まったのは、案外新しく明治になってからである。面白いのは、もともと別のお寺であった往生極楽院を、この時に吸収合併して三千院のお堂の一つとしてしまったことだ。
ちなみに往生極楽院は、平安時代末期、12世紀に建築された建物で、当時の浄土思想の影響を受けたものである。堂内には、国宝の阿弥陀三尊を安置している。この阿弥陀三尊、脇侍の観音菩薩と勢至菩薩の二像が、前かがみに正座している姿が非常に珍しい気がする。
杉木立の中に、この往生極楽院が建っている姿は、なかなかに絵になる。
このお堂を取り込めたのはラッキーだと思う。
そして往生極楽院の南側、弁天池の周辺にわらべ地蔵と呼ばれる小さい可愛らしいお地蔵さんがある。石刻家杉村孝氏の手によるものという事なので、そんなに古いものではないようだ。
とは言え、苔庭の中に埋もれそうになって存在している姿がなかなか趣がある。
わらべ地蔵と呼ばれてなかなか人気があるもののようだ。
ここから、宝物館である円融房など巡って、三千院を後にする。
三千院を出て、バス停にまで戻る。この道を大原女の小径というらしい。要所要所に大原女の姿をした小さい石像が置かれていた。
バス停までの間に、土産物屋さんが並ぶのだが、コロナの影響なのかシャッターが下りたままの様な店舗が目立つ。
お漬物屋さんだけが元気で、行きも帰りも今だけのタイムサービスをやっていた。買って食べてみたら美味しかったけどね。(笑)
途中、少し道を外れると、紫蘇畑が広がる場所があった。
「女ひとり」(京都、大原、三千院ってやつです。)の歌碑が立っていた。
大原の里は、陰のある女性の一人旅が似合うような気がするのはこの歌の影響かもしれないな。旅情を感じる。
この後は、大原のバス停からバスに乗って、帰りは河原町まで行った。コロナ禍ではあるものの河原町は人で賑わっていた。
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