休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

京の伝説を歩く③ 白峰神宮

2019-05-09 00:00:01 | 史跡を歩く

 昔、学生の頃、市バスに乗って大学まで通っていた。51系統に乗ると烏丸今出川から北野白梅町までを今出川通を通っていく。途中、白峯神宮の前を通るのだが、不思議とその頃は行く機会がなかった。

 今回、その頃から30年目にして、足を踏み入れることになった。ちなみに、白峯神宮の1868年の創建で、年号が慶応から明治に改元された年である。白峯神宮は、保元の乱に敗れ、讃岐の国に流罪となり、その地で亡くなった崇徳天皇が祭神となっている。

 

 

 

 その崇徳天皇がなせ、わざわざこの時期に讃岐から勧請されて、京の地に祀られているのかというと、崇徳天皇は、その死後怨霊になったと言われている。その典型的なものが、上田秋成が表した「雨月物語」の「しらみね」という話であろう。諸国を遊行していた西行が、讃岐で亡くなった崇徳天皇の菩提を弔うためにお墓を訪ねると、怨霊と化した崇徳天皇と邂逅するという話である。その中で、天皇家や平氏一族などを呪い、平氏一族は、平清盛の死後、坂道を転げ落ちるかのように滅亡している。

 

 

 

 そして源氏も平氏を滅亡させ天下を掌握し、初めての武家としての政権を握り鎌倉幕府を開いたものの、身内で抗争を繰り返し、結局三代で滅絶えることになってしまった。天皇家も、対立していた後白河天皇の皇子で言うと、二条天皇、高倉天皇、孫の六条天皇は、早逝だし、同じく孫の安徳天皇に至っては、海の波間に消えてしまったと考えてみれば、崇徳天皇の呪いとも言えそうな感じでもある。

 崇徳天皇は、死後、怨霊となって天皇家を呪い続けていると考えられたからこそ、明治新政府としては、崇徳天皇の霊をなだめる意味でこの時期に白峯神宮が創建されるに至っている。

 なお、明治六年には、恵美押勝の乱に関与したということで淡路島に流され、その地で一生を終えた淳仁天皇も淡路島から迎え入れられ、白峯神宮に合祀されている。明治六年と言えば、征韓論で敗れた西郷隆盛らが下野した年である。係わりがあるというのも考えすぎだろうか?

 

  

 

 僕がこの神社を訪ねた時は、境内で蹴鞠をしているのを見た。そういえば、白峯神宮の鞠精大明神という摂社があり、スポーツ芸能の神様として信仰を受けている。最近は、サッカーの上達を祈願する人が増えているようである。白峯神宮は、蹴鞠の宗家である飛鳥井家の屋敷跡に建っているという縁によるものであろう。

  また、境内の隅には、崇徳天皇の和歌で、百人一首にも選ばれている「瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ」を刻まれた歌碑が建っている。


 

 

 なかなかのロマンチストだなあと思う。ただ、崇徳天皇の一生を思うと、もともと父親である鳥羽天皇には「叔父子」と嫌われ、天皇になっても、鳥羽天皇の意向で退位させられる。上皇になっても院政もできず。保元の乱で、一方の旗頭となり、敗戦。流罪となり讃岐の国で一生を終えることになる。他者に翻弄された人生を見ていくと、あの和歌も、もう少し深く感じるものがある。

 今は、悲運の生涯を閉じた崇徳天皇、淳仁天皇を祀っているが、未来のサッカー少年たちの夢をかなえる場となっている。そろそろ恨みも浄化されてそうである。


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