亀形石造物の出入り口から遺跡の裏にある丘を登っていく。この道は、僕が飛鳥を歩きはじめるようになった30年程前にはまだなかった。たぶん、亀形石造物の発掘調査が始まった時にできたのだと思う。それでももう20年程前になるのか。
酒船石まで登っていく途中に、砂岩で造られた石垣がある。
この石垣は、酒船石のある丘陵をぐるりと四重にも囲んでいるらしい。
また、石垣のある盛土は版築で造られているそうなので、この丘自体かなり人工的に造られたもののようである。最近、東海自然歩道を天理市の豊田辺りを歩いていると、酒船石遺跡の石の産地を示す説明板が立てられていた。
この遺跡が、日本書紀の斉明天皇の条にある「斉明天皇は、渠を掘り、船二百艘で石上山から石を運び、宮の東の山に石を重ねて垣とした。」という記述を思い起こさせるものとなっている。
さらに丘陵を登っていくと頂上付近に酒船石がポツンと置かれている。何度も何度もこの場所に来ているためか、意外と写真を撮っていないことに今回気が付いた。(亀石も同様に傾向にあったりします。(笑))
それでも石自体はかなり大きい。東西の長さが約5.5m、南北の幅が約2.3m、厚さ約1.0mを図る。もともとはこれ以上に大きい石であったようで、石を打ち欠いたときに使われた矢板の跡が残っている。どうやら高取城を築城する際にこの石を転用しようとして打ち欠いたものであるらしい。
この酒船石の不思議な姿は、いろいろな人たちの想像を高めたようで、お酒を造るためのもの、薬を作るためのもの、道教と関係のあるものなどいろいろ。そういえば手塚治虫の「三つ目がとおる」にも酒船石が登場している。主人公三つ目君こと写楽呆介が、三つ目族の遺構である酒船石を利用して、ばかになる薬を開発する話であったかと思う。マンガの神様をして、想像力を掻き立てるものがあったのだろう。
この酒船石の正体は、いまだに定説がない状態のようだ。飛鳥資料館にはこの酒船石と別の所で発見された出水の酒船石と車石をつなげて導水施設にしているが、それも仮説の段階であり、現在は、むしろ出水の酒船石等は、飛鳥苑池遺跡と関わるものであると考えられているようだ。
今後、酒船石の一部がどこからか発掘されることがあれば、さらに解明できるかもしれない。この遺跡を見ていつも思うのだけど、水の祭祀との関連が言われるのだが、じゃあ、その水はどこから引かれて、そしてどこに流れていくのかが疑問に思っている。
そして、「飛鳥の石造物⑥ ~亀形石造物~」との関わりもはっきりしない。近い施設ではあるが、直接関係しないのかもしれない。
酒船石の謎は、わずかづつではあるが、その姿を現しつつあるが、まだ曖昧模糊として見えないものであるらしい。これからの進展が楽しみでもある。
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