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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

郡山城三の丸発掘調査 現地説明会

2020-05-18 23:32:51 | 現地説明会

令和元年5月11日(土)

大和郡山市役所の新庁舎建設工事に伴う発掘調査。ここは郡山城の三の丸にあたる場所である。郡山城については、天正六年(1578)ごろ、奈良を支配していた戦国大名筒井順慶の構築に始まる。その後、豊臣秀長、増田長盛といった豊臣系の大名が入城し、郡山城の大部分がこのころに造られている。

 その後、江戸時代になり、本多氏、水野氏などの大名が転封し、享保年間に柳沢氏が入り、幕末に至っている。

 

 調査区の全域。土坑と建物の礎石などが検出されており、その遺跡の重なりあいからⅠ期からⅢ期に分けられるとのこと。

 

 第Ⅰ期の遺構としては、礎石建物、石列、土器埋設土坑などが検出されている。礎石建物については、東西2.5m、南北10mと細長い建物であり、東西はもう少し広がる可能性があるとのこと。説明では、後世の絵図などからここに武家屋敷があったと想定されるが、この遺跡自体は、武家屋敷の主宅ではなく、家来もしくは使用人などの住んでいた長屋だったのではないかとのこと。礎石自体小さいし、細長い遺構から考えるとそういう気がする。

 

 礎石に使われている石については、結構、いろんなものがあり、五輪塔の一番下の地輪や石臼などを転用して使っている。礎石の間にある木の杭は、近代のものだそうだ。

 

 しかし、何ともいろんな石材を使っているなあ。どうも突貫工事で間に合わせたような感じだ。

 

 土器などを埋めた土坑。これもⅠ期のもので、16世紀末から17世紀初めのものらしい。

 

 これもⅠ期の遺構と考えられる石列。何に使われたのかはわからないが、礎石建物とは無関係ではないかとのこと。

 

 第Ⅱ期の遺構としては、南北に続く溝が検出されており、17世紀中ごろから18世紀中ごろの遺物が見つかっている。屋敷の区画に伴う遺構ではないかと考えられている。

  

 第Ⅲ期の遺構としては、土坑と竹杭列などが検出されている。

 

 土坑については、もともと貯水池であったが、後に廃棄土坑として転用されたらしい。三の丸は、柳の曲輪として整備され、五軒屋敷と呼ばれる家老屋敷が建っていたそうで、この土坑などがその時のものではないかと考えられている。

 

 また、竹杭列も見つかっているが、これは建物の区画に使われたのではないかとのこと。

 

 遺跡からはこういった瓦なども見つかっている。

 全体としてはっきりと時代を特定できるものは見つかっていない。ただ、16世紀末から17世紀初頭と考えられる瓦質土器が見つかっているので、織豊期までさかのぼれる可能性があるというところらしい。説明会の時に調査員の方が離されていたのだが、可能性としてあると言っただけなので、新聞発表にあるような織豊期の武家屋敷が見つかったというようなものではないとのこと。

 ちょっと尾ひれがついて新聞報道になった感じである。

 出土品の説明を聞いていると、遺跡から出土したかわらけがろくろを使って作られている。このころ畿内では手でこねてかわらけを作っていて、ろくろは使っていないらしい。むしろ関東の方がそういう作りをしているらしい。江戸時代の初期は、郡山城には、関東から水野氏などが関東から転封してきているので、そっちとの関連を考える方が蓋然性があるような気がする。

 この発掘調査は、さらに掘り進んで、平城京の地層まで掘り進める予定であるとのことであった。この日は5月というのにほんと暑かった。


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