飛鳥を一年の内に複数回は必ず訪れている。発掘調査の説明会に参加したり、あてもなくぶらぶら歩いてみたりしているのだが、飛鳥にある万葉歌碑を見つけては、写真を撮ったりしているが、写真も一定数集まってきたので、ブログの中でまとめていってみようと思った次第。
第1回目は、飛鳥板蓋宮跡にある万葉歌碑を紹介。おそらく飛鳥に置かれている万葉歌碑は全部で40基あるとされているが、その中で一番知られているのではないだろうか?
飛鳥板蓋宮跡の解説板がある横に設置されている。
歌碑には、これも万葉歌の中でも、よく知られている「采女の 袖吹き返す 明日書風 京を遠み いたずらに吹く」が万葉仮名で書かれている。揮毫は画家の平山郁夫である。
歌の作者は、天智天皇の皇子、志貴皇子である。志貴皇子については、奈良時代の最後の天皇、光仁天皇の父であり、後に春日宮天皇という名が贈られている。ということは、今の天皇家に繋がる人物でもある。
この歌は、藤原京の遷都後、飛鳥古京を懐かしんで詠んだ歌である。ちなみに志貴皇子が、懐かしんだのは、飛鳥浄御原宮であるのだが、飛鳥板葺宮跡に歌碑があるのも一見不思議な気がするところなのだが、最近の発掘調査で言うと、史跡飛鳥板蓋宮伝承地(近年、飛鳥宮跡に変更になっている。)については、いくつかの宮跡が重なっておかれたようなのである。
つまり、この地は時期の違う宮跡が三層に重なっており、1期が舒明天皇の飛鳥岡本宮、2期が皇極天皇の飛鳥板蓋宮、3期が斉明天皇の後飛鳥岡本宮と天武天皇の飛鳥浄御原宮の遺構であると考えられている。
なので、この宮跡の井戸も、どうやら板蓋宮のものではなく、飛鳥浄御原宮のものと考えられるのだそうだ。
話を戻すが、この歌の意味としては、采女の袖を吹き返していた明日香風は、都が遠くなったので、ただむなしく吹いているだけであるということである。
しかし、藤原宮から飛鳥浄御原宮までって、歩いて1時間はかかるかかからないかの距離ではあるのだが、気持としては随分と遠い距離になってしまったのかもしれない。空間的な距離というよりも時間的な距離なのかもしれないなあ。
飛鳥浄御原宮から藤原宮の時代は、おそらく律令国家が形成されようとした時代である。大きく国家が変わろうという時代であっただろうから、昔の飛鳥の時代を懐かしんだのだろう。
志貴皇子自身は、政権と遠い場所にいたであろうから。
志貴皇子は、万葉集には、6首ほどしか収録されていない。しかし、その歌は、優れたものが多い。そのうちの一つがこの歌であると思う。
昔、もう廃刊になってしまったが、飛鳥保存財団が「明日香風」という雑誌を出していたし、万葉学者犬養孝氏は、随筆集に「明日香風」という題名をつけていた。
采女の鮮やかな姿が目に浮かぶような印象深い歌である。僕の好きな歌の一つである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます