休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

一須賀古墳群を歩く

2006-05-06 07:21:53 | 史跡を歩く
 近っ飛鳥博物館の周辺には一須賀古墳群という群集墳がたくさん残っています。大体百基ぐらい残っていて、そのうち40期ぐらいが見学できるようになっています。写真の古墳のように天井がなくなってしまっている古墳も多数あります。中には、横穴式石室が完全に残っていて、懐中電灯を片手にもぐりこんでみると、博物館に紹介されているように、思わず「黄泉の国」を思い起こさせます。何かじめっとしてひんやりとしています。そこは死者の世界なんだなあと思わせてしまいます。また、石室の石の間に朱色に塗られているのをよく見ます。作られた当時石室が朱に塗られていたんでしょうか。
 この古墳群が作られている場所の地名は、一須賀といいますが、須賀という部分に意味がありそうで、門脇禎二氏などはスカという地名と蘇我氏及び渡来人とのかかわりを指摘している。実際一須賀古墳群は、副葬品などに、渡来人系の氏族の墳墓に共通に見られるものがあり、また、石室の工法自体も独特のものが見られるとのことである。
 また、古墳群自体は6世紀中葉から7世紀にわたって築造されたものだそうで、ちょうど継体期、古代王権の動揺期に当たる。高安古墳群にしてもこの前後から作られ始めており、群集墳自体が、同様の時期から築造されているように思われる。例えば私見ではあるが、継体期の王権の同様とかかわりがあるのではないか。支配階級しか認められなかった墳丘を築いて埋葬できるという特権をもっと下の階級まで広げたということではないか、そうしなければ王権の動揺を抑えられなかったということではないのだろうか。
 そして蘇我氏自体、継体期以降突然政治の表舞台に現れてくる。また渡来人とも非常に密接な関係にある氏族である。一説には蘇我氏自体が、朝鮮半島から渡ってきたという学説もある。実際蘇我氏の勢力のあった地域と渡来系の氏族との係わりを想定させる地域は多い。この河内飛鳥も同様である。大阪に住んでいるものはあまり意識していないが、歴史的意義は高そうではある。昔は河内飛鳥周辺も農村で穏やかな土地だったのだが近年都市化の波に襲われて家がいっぱい建って、すっかりと様変わりしてしまった。往時を思うと昔日の感がある。奈良の飛鳥と比較してこれでよかったのかと思ったりする。この辺も大阪府政の考え方が出ているのかもしれない。(すべて経済優先という。)
 ただ幸いなことに一須賀古墳群自体は、河内風土記の丘として整備されているのでこれ以上破壊されることはない。他の地域の群集墳は絶えず破壊の危機にさらされている。一つ一つの古墳自体小さいので学術的な価値、観光的な価値が少ないと考えられがちである。だが、狭い地域にたくさん造られていることが価値なのである。それから開口している石室に入ってみると、本当に古代を感じる、そういった生きた資料が身近にあるということが価値なのである。
 少しでも後世に伝えていくことが私どもの義務ではないのかなんて小難しいことをふと考えてしまいました。
 是非とも、懐中電灯を片手に古墳を見学してみましょう。いろいろと考えるところがあると思います。
 (写真の石室に石棺が設置されていますが、石棺自体は最近復元されたものです。)
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